第八十六幕 金貸
船着き場、とは海にあるもの。
港、とは海にあるもの。
ならばテムズは河であり、海である。
海であるからこそ、海の男が集うのだ。
海の男が集う場所など一つしかない。
――酒場である。
ヴァイオレット・ターナーは野菜を剥く手を止めた。
最近頬に増えはじめたニキビを気にしながら、顎に伝う汗を袖口で拭う。足元には野菜の皮や腐った部分が散らばっていた。酒場近くの共有井戸で飼われている鶏の為だ。
「ユニコーンと盾」といえば、この辺ではちょいと名の知られた酒場だ。ヴァイオレットはそこの次女である。
歳は十五。母親に似て器量の良い姉のローズは酒場の給仕をしている。一方で無愛想なヴァイオレットは裏方に徹していた。
骨ばかりの身体を「カカシちゃん」と客に揶揄されることに比べれば、人参やじゃがいもと見つめあうことの何と平穏なことか。
「こんにちは、ヴァイオレットちゃん。今日もよろしくね」
しかし、平穏はいつだって突然終わる。
見計らったように声がかけられ、タイミングの悪さに苛立ちながらヴァイオレットは声の主を見上げた。
自分がカカシちゃんなら、目の前のヒョロヒョロとした男はミスターカカシだとヴァイオレットは常日頃から思っている。
鼻にかかるほどの長い茶色の前髪。分厚い丸いガラスをその奥にひっかけ、何もないのにヘラヘラ笑みを浮かべている。見るからに胡散臭い、ろくでもない男というのがヴァイオレットの率直な感想だった。
「どーも」
無視することもできず、ヴァイオレットはぶっきらぼうに呟くと野菜を剥く作業へと戻った。
ふらりと現れ「働かせてほしい」と言い放ったこの男を見た瞬間、ヴァイオレットの父、ジョージ・ターナーは持っていた鍋を投げつけた。末娘のリリーが止めに入らなければ、男は今頃、顔面から牡蠣殻に突っ込まれていただろう。
(確か名前はリック。いや、リッキーだったかもしれない。どちらでもいいことだけど)
どういう手段を使ったのか、男は「ユニコーンと盾」で臨時の日雇いとして採用された。必ず毎日十六時。きっちり時間通りにやってくる。
その結果なにが起こったか。
作った料理は「不味い」と常連客を怒らせ、注文を受けに行かせれば「失礼ですがもう一度仰っていただけますか?」と馬鹿丁寧に聞き返して相手を挑発した。
よくぞまあ、そこまで相手を苛立たせる物言いができるものだと感心すらされた。つまり、男はこれっぽっちも店の役に立たなかったのだ。
押し付け合いのすえ、今はヴァイオレットの手伝いとして野菜や皿を洗っている。最近、利き手の骨を折ったらしく野菜の皮むきは出来ないと拒否された。その時はさすがのヴァイオレットも「いつかテムズに沈めよう」と決めた。いまだ実行できる機会がやってこない。
「ヴァイオレットちゃんって、好きな色はある? 休みの日って何してるの? 友達いる? 信心深い方? ネックレスとか好……」
それよりもヴァイオレットにとって苦痛だったのは、この男が黙らない事だった。会話を終わらせようとしても、一方的に喋る。勝手に喋る。そのくせ、ヴァイオレットが本当に不機嫌な時はネジを巻き忘れた時計のようにピタリと黙るのだ。
その滅多に止まないお喋りが止んだ。それだけで、何かが起こりそうな不吉な予感を感じヴァイオレットは顔を上げる。
「……だ! ……を、……出せ!」
低い怒号が店の中から聞こえている。甲高い悲鳴に混じって、ガラスが纏めて割れる音が続けざまに響いた。
「何?」
喧嘩と破損の絶えない酒場だが、この緊張感はただ事ではない。肌を刺すような殺気にヴァイオレットは反射的に腰をあげた。
「ふーむ?」
店内の様子を覗こうとした二人を止めたのは、気取った男の声だった。
地面にある藁と鶏を蹴りとばしながら、三人組の男が大股で歩いてくる。
一人は着古した臙脂の背広襟外套を着ていた。頬や鼻には白く残った刀傷痕が見て取れる。小柄な身体に反した大きな目が周囲をギョロギョロとみている。
もう一人は対照的だった。
色褪せた外套を着ている点は傷痕男と同様だが、恵まれた巨体で、その場の誰よりも大きかった。見るからに剃り残しと分かる黒い無精髭に潰れた鼻。赤ら顔なのは日焼けのせいか、それとも此処に来る前に引っかけた安いラム酒のせいか。
その中心にいるのは、場違いに鮮やかな気取った男だった。他の二人に比べれば上品だと呼べなくもない。
薄い横縞柄の入ったスーツ生地。地味という言葉とは無縁の黄土色のウエストコート。紫とダークオリーブが珍妙に入り混じったネクタイ。チョッキのど真ん中に縫い付けられた三つの金釦が三つの金の球を象徴していると、だれが気づくだろうか。細髭はぴっちりと油で固められ、その先端はクルリと半円を描いていた。
このデルマン・トナーたる男が持つ肩書きは、悪徳金貸し、暴利質屋、人の皮をかぶった悪魔(42)、悪趣味香水野郎など多岐にわたる。
「鳥の骨どもが揃って残飯処理とは。貧乏人は、よくそんな金にならない事を飽きもせずにできますネェ」
不気味な陽気さを湛えながら、デルマンは井戸のそばで足を止めた。
立ち上がろうとするヴァイオレットを、眼鏡の男が水桶から抜いた手で抑える。
「こんにちは、デルマンさん。足の具合はいかがですか?」
「おまえは」
互いに顔見知りなのか、にっこりと微笑んだ眼鏡の男を見たデルマンは顔を紅潮させた。しかし怒りと屈辱が浮かんだのは一瞬で、すぐに余裕ある態度へ戻る。
「フッ、フン。あの時の酔っ払いも一緒とは丁度良いですネ」
デルマンの言葉に、傍らに控えていた二人の男が乱暴にヴァイオレットの腕を掴んで立たせた。
「触らないでよ!」
「あの時の修理代をまだ頂けないようなので、代わりに売れそうな女性をいただこうかと」
行ったり来たり。ヴァイオレットの前を、振り子時計のようにデルマンは歩く。
「はぁ? ウチの備品を滅茶苦茶に壊しておいて、修理代とか、もらうとか。何言ってるのよ。寝言は寝ていいなさい」
せせら笑い、ヴァイオレットは相手の靴に向かって唾を吐き捨てた。汚いっと甲高い声をあげ、デルマンはその場から飛び上がる。
「これだから、礼儀を知らないガキは困る」
田舎の劇団に一人はいそうな、大袈裟でわざとらしい身振りでデルマンは天を仰いだ。
「ワタシに『元通りにしろ』と言って店の修繕費を求めたのはアナタ達でしょう? ワタシはそれを仕事として受け取ったに過ぎません。つまりですネ、お嬢さん。貴方のお父さんはワタシに借金をしたんですヨ、借金。さ、利子も含めて支払って下さい」
「は?」
「ん?」
疑問の声が重なった。デルマンは胸元から羊皮紙を取り出すと、ヴァイオレットの目の前でヒラヒラとはためかせる。勝ち誇った顔で。
「バカでも分かるように言ってあげましょう。ワタシはこの店に二百ポンド貸しました」
我慢の限界だったのか、ヴァイオレットが叫ぶ。
「勝手に貸し出され、受け取ってもいない金に利子ですって!? ふざけるな!」
「これ、借用書だね」
無言を貫いていた男が腰をかがめて提示された紙面の前に顔を突き出している。その前髪で前が見えるのかと誰もが思ったが、眼鏡を持ち上げて微動だにしないのだから、恐らくは見えているのだろう。
「借用書!? そんなものに父さんがサインするはずが……」
今しがた見たものを信じられず、ヴァイオレットは何度も紙の上に視線を走らせる。何度見ようと、書かれた文言は同じ。
「お父様の承諾署名が、あるでしょう?」
「ウソ、ウソよ! 何かの間違いだわ、アンタが父さんを騙して書かせたんでしょう! この詐欺師!」
「おお、怖い怖い」
噛みつこうとするヴァイオレットを護衛が後ろから羽交い絞めにして止める。唯一自由のきく顔、その顎骨を強引につかむと、デルマンは好色な笑みを浮かべた。
「ふーむ、母親やローズにばかりに目をとられていましたが、これはこれで需要があるかもしれませんネ。キミが『デルマン様、痩せっぽっちで貧相な私を抱いて下さい』と泣いて頼んだら、借金の件を考えてあげてもいいですけど」
「……あたしどころか、母さんやローズにそのセリフを言ってみろ。あんたのその貧相なモン、使う前に食いちぎってやる」
周囲の気温が数度下がった。息をのむ者、土を踏みしめて後ずさる者、思わず内股になる者。ヴァイオレットの言葉に、そこにいた者は皆、異なりつつも同じような反応を示した。




