008 馬車
「ちょっと、あんた。注文の品はどうするのよ!?」
「いっ、ただきます」
ちょうど運ばれて来た黒麦芽酒をつかんで一気にあおる。酸化したアルコールが口の中をえぐみで満たした。喉を通り抜ける安いアルコールの焼けついた痛みは好きじゃない。木杯を放り投げると後ろから「ぽこん」とした軽い音が響く。とても嫌な予感がした。
「いま頭に当てたのはテメェか?」
近くのテーブルに座っていたスキンヘッド頭と目があった。彼は後頭部を押さえ、額には青筋が合計四個浮かんでいる。椅子を蹴飛ばして彼が立ち上がるのと、僕がたたらを踏んだのはほぼ同時だった。間違いない、激怒している。近くにあった椅子の背もたれをそっとつかむ。
「喧嘩売ってくるとはいい度胸うぶっ!?」
幸いなことに、スキンヘッドの彼は酩酊中だった。追って来る千鳥足に事故を装って椅子の足を引っかける。バランスを崩した彼は、数人を巻き込んで、顔面から、床へと転倒した。
巻き添えを食った方はたまらない。すぐさま「何するテメェ!」と叫んで怒りを最寄りの人、つまり自分を押しつぶした人に拳と共にぶつけた。乱闘がはじまるまで数秒もいらなかった。
「あんたさ、お爺ちゃんの顔と名前を最初から知ってたよね」
騒がしい叫び声に紛れてエリザベスさんが呟いた。こちらをじっと直視する緑の目は咎めているようにも見えたし、面白がっているようにも見えた。
「まぁ、誰でもいいけどさ」
エリザベスさんは近くのテーブルから酒の入ったグラスを持ち上げた。何をするのかと見守る僕にニッと笑いかけると、とまどうことなくテーブルにつっぷし安らかに寝ていた船乗りさんの頭に叩きつけた。
「ぎゃーっ!」
店の中ではどこもかしこも悲鳴が響いていて、いまさら一つ増えても何もおかしくはなかった。新たな火種に着火したエリザベスさんはフンと得意げに鼻を鳴らす。
「淑女と言われちゃ黙ってられねェよな!!」
「淑女って何だっけ!?」
淑女の定義を僕は知らないけれど、かつあげと奇襲をする女性を淑女のカテゴリーにいれたくはない。
「許さんぞ、テメェらっ!」
案の定、強制的に起こされた船乗りがこちらに向かって殴りかかってきた。そしてなぜか彼の恨みの対象が複数形になっていた。まだ半分夢の世界をさまよっているのか、目を瞑ったまま拳をやたらめったら振り回している。飛んできた大振りなフルスイングを二人で同時にしゃがみこんで回避していると、隣でゴボンと鈍い音が聞こえた。
「……スーだ」
「はい?」
「スーって呼びな。さ、今の内に行くよ」
エリザベス、もといスーさんの耳は少し赤かったがそれ以上見ている暇はなかった。
僕たちが避けた拳に当たった不運な人が鬼の形相で振り返る。
犯人は僕たちじゃないよ、あの人だよ。二人同時に暴れる第一の被害者を指さす。
今夜二つ目の乱闘騒ぎが始まった。
「よっしゃ、逃げるぞ!」
「歌いながら逃げよう」
「なんでだよ」
だって今のは明らかにミュージカル路線だった。
「待て、そこのチビどもー!」
僕を追いかけてきた二人が声を重ねながら、新たに始まった喧嘩へと突っ込んだ。ありがたいことに複数個所で起きた乱闘が足止め代わりとなって体格の大きい船長は店の奥から抜け出せないようだ。なし崩し的に酒場内がひどいことになっていくが僕たちには関係のないことだ。お酒の飲み過ぎは良くない。
「はっはー!」
共犯者が片手を出した。互いの健闘を讃える行為に僕も自分の手のひらを打ちつける。拳を合わせ、最後に再び軽いハイタッチ。誰も悪くない。そう、今夜のことは全てアルコールの責任だ。
外はまだ雨が降り続いていた。入り口にいたダックさんはとつぜん始まった喧嘩を口を開けたまま眺め、喧嘩を始めた張本人たちが悠々と出口まで歩いて来たので唖然としていた。
「ダック、こいつも一緒に乗るから」
「はぁ、でもお嬢さん……」
通りの向こうには黒塗りの馬車が止まっていて、ダックさんは困惑した眼差しで僕を見ていた。
背後の騒ぎと見比べて、突然現れたこの変な男にどう対応してよいものか、考えあぐねているようだ。
僕はダックさんを見上げた。彼は身長が高く、見るからに船乗りだった。
日に焼けた金髪は雨に濡れて色を濃くしている。無精髭から顎にかけて水滴が絶え間なく流れ、肌は日に焼けていて、健康的で恵まれた体躯を持っていた。
二の腕には錨とM&Sと書かれたタトゥを入れていて、外に出たせいかシャツはさきほどの僕と同じくらい濡れている。
そんな彼を見て僕は笑顔を浮かべる。
「こんばんは、ルーヘンダックさん」
僕が呼んだ名前にスーさんはポカンとしたが、若い船乗りは口を押えて視線をはずした。
きっと彼はポーカーゲームが苦手だ。
「おっ、俺はルーヘンダックなんて名前じゃないぞぉ」
誘拐されるエリザベスさんという答えを知っている僕からしてみれば、ダックさんの行動は怪しさ大爆発であった。
今の返答はだめだ。あえて正解をあげるとすれば「それは誰だ」と答えるべきだった。
特徴、そして実に分かりやすい反応。逆に不安になってきた。
「馬車を連れて戻ってくるのが、ずいぶんと早いですね」
「俺は足が速いから」
彼の反応は自白も同じだ。
加虐趣味はないけれど焦るダックさんを見ていると世の探偵が遠回しにネチネチ責めていく理由が分かるような気がした。楽しい。いま、とても悪い顔をしているという自覚がある。
「ダックさん、あなたはあの馬車をどこから持ってきたのですか? こんな僻地で二頭立ての四輪馬車はそうそう捕まらないのに」
ダックさんの頬を雨がだらだら流れていく。
「……三本向こうの大通りで。行って戻ってくるだけならひとっ走りですみますからね」
「本当ですか。あなたの靴はそんなに働いたようには見えませんけれど」
彼の履いているブーツは泥だらけの僕のブーツと比べて汚れが少ない。エリザベスさんに「ユニコーンと盾」に連れてきてもらった時、周囲に人気がないことや、数十メートルも歩けば服が泥んこになることは、僕が身をもって体感している。走って馬車を探して来たというのは彼の嘘だ。
「それに馬車を連れてきたわりには」
僕は彼の足元を見つめた。泥道を走る馬車を止めて連れて来たのなら車輪から飛んだ泥の飛沫が、体のどこかに飛び散っているはずなのに、彼がまとっているのは雨粒だけ。
二頭立て四輪辻馬車は現在で言う高級タクシー。雨の日のオペラ劇場やパーティ会場で見かけるけれど、場末の酒場で見るようなものじゃない。雨の夜に馬車を使う人は多く、空車はなかなか見つからない。
なのに彼は一瞬で用意して見せた。
馬車は劇場前か高級住宅街前で待っているだけで、一組か二組の、服を汚したくないパーティ帰りの上客が捕まえられる。上手く行けば見栄をはりたい客の、普段より色が付いたチップも期待できるし、二ヶ月風呂に入っていない、金も無い、酔っ払いを乗せる必要はない。
それにぬかるんだ泥道を好む馬車はいないはずだ。磨きに磨いた馬車を全て掃除しなくてはいけないから。僕がこの辺りを走り回った間に人の姿は見かけなかったし、教会の近くでも馬車は通っていなかった。
彼が魔法で馬車を出したわけじゃないなら、馬車を取り出したタネがあると考えるのは当然のことだ。
黒馬が二頭。ご丁寧に車輪も客車も黒塗り。日中なら高級感があるのだろうが、雨の夜は嫌がらせのように見えにくい。捜索隊として駆り出されたのは夜目になれた船乗り。けれど今日は皆が飲んでいるし、何より雨だ。見失えば、再度見つけるのは骨に違いない。
「幼女の誘拐なんて、人間性を疑うなあ」
「お前、どこまで知ってるんだ……」
「そ、そういう明らかな台詞で返すのは止めてよ。不吉だよ」
自白のようなセリフに思わず怯える。
下っ端がアッサリ白状すると、ろくな事がないんだよ?