幕間二 生首
「シスター・チェルシー。何ですか? 今のはしたない悲鳴は」
そんな時、廊下の向こうから看護師長のシスター・ジェーンの声が聞こえた。案の定、彼女はいつものように上半身を揺らさない独特の歩き方で現れると、迷いなく僕たちの方へとやってきた。その迫力に口から出かかった「怒る部分はそこですか」という言葉を飲み込む。
この厳格で公正で、ちょっぴり怒りやすい小柄な老女が苦手な人は多い。シスター・チェルシーはシスター・ジェーンよりも頭二個分は背が高いのに、僕の隣で必死に首をすくめて小さくなろうとしていた。シスター・ジェーンに口答えしてはいけないのは患者達にとっての常識だが、どうやらシスター達の間でも共通認識らしい。これは大きな発見だ。
老シスターは年季の入った眼鏡を光らせながら持ち上げた。その表情に良くないものを感じ取り――これは、今までの経験からだけど――僕とシスター・チェルシーは同時に顔を伏せた。目を合わせても別に石になるわけじゃないけれど、果てしなく石に近い存在にはなれる。
判決を言い渡される被告人の気持ちを味わっている間に、ふと「こんなにビクビクする必要ないのでは?」と思った。そういえば、今日は別に何も悪い事はしていないんだった。堂々としていれば良い。シスター・ジェーンに睨まれると、何も悪い事をしていないのに、悪い事をしたような気になるんだ。
「それで」
おもむろに、シスター・ジェーンが口を開いた。
「説明はまだですか?」
彼女の偏見に満ちた視線は、僕へと向けられていた。その眼には「また貴方か」という怒り、諦め、いい加減にしてくれ、疲れ、その他様々な感情を詰め込んだ色が浮かんでいる。
冤罪です。容疑をかけられるだけの前科はあるけれど、何でもかんでも僕が基点というのは考え過ぎだ。考え……過ぎだよね?
隣のシスター・チェルシーを見上げると、彼女は石になっていた。そうか、目が合ってしまったのか。石というのは比喩表現だけど、彼女を言い表すのにそれ以上的確な言葉が浮かばない。凄い、まったく動く気配がない。短いつきあいだけれど、だいぶシスター・チェルシーの性格が分かってきた。この状況を説明するのは無理だろう。
「あの、シスター・ジェーン。とても信じてはもらえないでしょうが」
一歩前へ進み出た。先程、僕達が目にしたのは、あまりにも突拍子もない光景だったので、どう言えば信じてもらえるのかを考えていた。
「生首が空を飛んでいたんです」
結果、見たままを告げることにした。青空が広がっている背後の格子窓を示した僕に、シスター・ジェーンが眉を上げる。当たり前の反応だけれど、それ以外に説明のしようがないのだから仕方ない。
「ミスター、リチャード、もう一度、仰っていただけますか?」
シスター・ジェーンの良い所は、思っていることが全部顔に出るところだ。例えば今なら「何を言っているんだ、こいつは?」ってところ。
「ですから。生首が窓の外に」
「いませんけれど」
窓枠に手を置き、外を見たシスター・ジェーンがあきれ顔で呟いた。
「さっきはいたんです」
僕はシスター・ジェーンの言葉を無視して続けた。諦めの悪さには定評があるのだ。
「白と灰色の長い髪で、ミイラみたいな顔で。ふわっと浮かび上がってきたんです。それに気づいた僕が、悲鳴をあげました。通りがかったシスター・チェルシーも、窓の外を見て、悲鳴をあげました。そのあと、びっくりして転んだ僕に気がついたシスターが、二度目の悲鳴をあげたんです」
正直に「びっくりして倒れてしまったあと廊下の冷たさを楽しんでいたら、シスターに死体と間違えられた」と言ってしまうと、これ以上言い分を聞いてもらえず強制的に病室へと戻されてしまうのは間違いない。なので、ぼかして伝える。
「貴方が、何を仰っているのか。今日は、特に、理解できません」
特に、を強調してシスター・ジェーンが言葉を紡いだ。彼女が単語を区切るのは、相当怒っている時か、相当混乱している時のどちらかで、今はそのどちらにも見えた。今日はいつもより饒舌かつ分かりやすく喋っているつもりなんだけどな。理解できないとのお言葉に自信が無くなる。
「そっかー。理解できないのかー。そっかー。そうか……うん……」
「シスター・チェルシー? 本当のところはどうなんですか」
「ほほほ、本当なんです、シスター・ジェーン! 窓の外に、ピョンって! あれはきっと、首をはねられた修道女の生首ですよ! ここ最近、噂になっていたじゃないですか。中庭に幽霊がでるって」
シスター・チェルシーの言葉に気になる部分があったので、へこむのを中止して顔をあげる。
「中庭に?」
「そうなんです。灰色の人影が、夜中に厨房の前を横切っていくのを見た人がいるんです!」
初めて聞く噂だ。驚く僕に、興奮したままのシスター・チェルシーがぐるりと顔を向けた。
「そもそも、この聖メアリー病院は昔修道院として使われていました。けれどもう一つ、裏の顔があったんです。なんとなんと、処刑場です。昔、ここの中庭は首切り役人の処刑場として使われていたんです。と、いうのも百年ほど前、秘密裏に処刑される貴族や宗教関係者が多すぎて、表の広場では捌ききれない時期があったそうです。それで、閉鎖された修道院で祈る……という名目で罪人を連れ込み、首をスパーンと斬っていたのだー! ってシスター・セシリーの引き継ぎ書に書いてありました」
シスター・チェルシーは新人なのに、随分と噂話に詳しいようだ。そして、その歴史は引き継ぎ書に必要なのだろうか。最後の方、明らかに楽しんで書いているシスター・セシリーの姿が目に浮かぶ様だ。
「ただの迷信です。ここは神の家ですよ。幽霊などが出歩く筈ありません」
シスター・ジェーンがきっぱりと言ったが、波に乗ったシスター・チェルシーは止まらない。
「それ以来、騙されて連れて来られた貴族や修道士の霊が中庭をさまよっているんです。つまり! 私達が見たのは! 切られて飛んだ首なのでは!? その首を探して亡霊が墓から蘇ってきたのでは!? と思う訳です」
「もう結構。貴女の言い分は、よく分かりました。シスター・チェルシー」
唾を飛ばして熱弁するシスター・チェルシーを止めたのは、シスター・ジェーンだった。今ので分かったの? え、探偵?
「リチャードさん、今日はもう病室にお戻りなさい。お疲れのようですから、今すぐに。それから、シスター・チェルシーは今から院長室まで来るように」
「なぜに!?」
悲鳴じみた声をシスター・チェルシーがあげ、僕は大体予想通りの結果だとがっかりした。どうしたら信じて貰えるだろう。
「シスター・チェルシー。溜めこんでいた洗濯物の件といい、今日の勝手に持ち場を抜け出して虚偽の申告をした件といい、今日と云う今日は院長に叱ってもらいま……」
シスター・ジェーンは不意に言葉を切った。彼女の眼差しは僕らの背後に広がる窓、つまり吸い込まれるような青空に向けられている。その顔は、まるでこの世ならざるものを見た時のように引きつり、眼は大きく開かれていた。
シスターの骨ばった手が口へと添えられたのを見て、背後で何が起こっているのか察した僕らは、両手で耳を塞いだ。
「キャァァァァァァァァーーーーーーー!!」
皮肉にも、それは一番可愛らしく、悲鳴らしい悲鳴だった。少なくとも、僕が今日聞いた中では。




