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犯人は僕でした  作者: 駒米たも
本編
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幕間一 青空

 ロンドンで青空は珍しい。

 三日も続けば、誰でも浮かれる。仕方のないことだ。


 僕の入院している聖メアリー病院はここ三日、祭りのような熱気に包まれていた。看護師の白い頭巾ウィンプルがひっきりなしに庭先を動き回っているのが三階からでもよく見える。片付けた先から白いシーツが中庭へと運ばれ、再度手際良くロープに吊り下げられていく。修道院が経営している病院だけあって、みんな勤勉だ。

 洗濯日和、と言うのは簡単だが滅多にお目にかかれる天気ではない。噴煙、煤、生ゴミ、それから吐き気のするテムズ河の臭気なんていうものは、大体年中無休でやってくる働き者だからだ。


 そんなわけで。灰色の霧で覆われていない、晴れやかな青空を見るのは久しぶりだった。格子窓の向こうで白い羊雲がゆっくりと流れて行く。今日は文句なしに、穏やかで素敵な一日になるだろう。

 ここが中庭だったらなぁ。そんなことを考えながら、あと少しだけ現実逃避することにした。あそこは絶好の昼寝場所だった。寝転がっていても誰も気にしないところが良い。


 中庭のベンチは、団らん室のチェスボード前、図書室の新聞置き場と並んで、非常に競争率が高い休憩場所の一つだ。

 しかし(プロ)はそういった人気のある場所には行かない。彼らには、彼らなりのお気に入りの場所があるのだ。

 例えば僕の場合、よく行くのは中庭のベンチではなく、中庭の外れにある巨大な楡の木陰だった。もちろん楡の木にも僕の他に常連客がついている。なかなか警戒心が高いので、場所を分けてもらうまで随分かかったけれど、あそこは僕ら以外には誰も来ない。いや、来なかったと過去形で言うべきか。


 風は涼しく、雨よけにもなり、今日みたいに晴れた日は日向ぼっこも出来る。厨房の近くなので、開けっぱなしの窓から昼食の献立を探ることだってできた。皆より一足早く献立が分かるという利点は、思った以上に同室の皆から歓迎されるのだ。

 本を読んだり、ぼんやりするのにもってこいの、人気のない場所。それがどれほど貴重で贅沢なのか。偉い人にはそれが分からんのです。

 病人が脱走するなと怒られたせいで、いまやあの楡の下は穏やかな隠れ場所としての機能を失ってしまった。皆、一度あの木の下で昼寝をすればいいと思う。そうしたら良さが分かるはずだ。


「ドギャーーーー!」


 訂正。悲鳴さえなければ、穏やかで素敵な一日になるだろう。悲鳴を聞くのは、今日はこれでもう四回目だ。


 悲鳴の主に対して申し訳なく思いながら、強かに打ち付けた尻をさすり起き上がった。

 廊下に倒れていた僕が何事もなかったかのように立ち上がり、服に付いた埃を叩いているのを見て、白い修道女の頭巾をかぶった女性が目を白黒とさせている。


 お世辞にも美人とは言えないけれど、愛嬌のある顔立ちをしていた。田舎の純粋な村娘といった印象を受ける。僕が見上げるほどの長身。一瞬年上かと思ったが、よくよく見れば茫然としている顔は幼い。訂正。女性では無く少女と言うべきだった。


 この病院にはそれなりに長くいるので、初めて見るシスターの存在は珍しい。

 口を大きく開けたまま動かない彼女の目の前で数度手を振ってみるが、まったくと言って良いほど動かない。此方もそろそろ現実世界へと戻してあげるべきだろう。僕は大きく手を広げると、彼女の目の前で大げさに打ち鳴らした。


「ピャッ!?」

「驚かせちゃってごめんね、大丈夫?」

「蘇った!」

 そう叫んだ後も、彼女の視線と両手は動き続けている。混乱していることだけは痛いほど伝わった。安心させるにはどうしたらいいんだろう。

「見ての通り生きているよ。驚いて腰が抜けたんだ。恥ずかしいから他の人には内緒にしておいてくれないかな?」

「わっ、分かりました! 腰が抜けたお気持ちは痛いほどよく分かります! だから絶対に喋りません!」

 彼女が断言するほど心配になるのは何故だろう。不安になっていると、彼女は声を潜めてぴったり寄り添ってきた。


「アレ、みましたか?」

 アレと言われて思い当るものは一つしかない。さっき窓の外を飛んでいたアレのことだ。大きく頷いた。

「うん、見た。君も見たんだ」

「はい。もう、それはドはっきりと」

 薄ら涙を浮かべた彼女を見ていると、いつか悪い人に騙されないだろうかと心配になる。余計なお世話かもしれないけど。


「どうしましょう、リチャードさん」

 突然、自分の名前を呼ばれて驚いた。目の前のシスターとは初対面だと思っていたんだけど、違うのだろうか。少し迷ったけれど、直接本人に聞いてみる事にした。

「えっと、確かに僕はリチャードだけど、君と前に会ったことあるのかな? どうにも思い出せなくて」

「あ、違うんです。すみません、私が一方的に知ってると言うか」

 背の高い彼女は僕を見下ろしながら、慌てて否定した。


「はじめまして。シスター・セシリーの代わりに新しく入った、見習いのシスター・チェルシーです。引継ぎの時に『でかい眼鏡をかけた茶髪の男を見かけたら注意せよ。脱走兵(もんだいじ)なので、見つけ次第、強引に病室へ連れ戻すように。大丈夫。リチャードさんは見ればわかる。顔は分からないけど、見たら分かる。君ならできる』と言われていましたので。私、ちゃんと見ただけで分かりましたよ! 褒めて下さい!」

 得意げなその説明に肩の力が抜ける。いや、肩どころじゃなくて、全体的に力が抜けた。

「あっ、はい。それは、多分というか、間違いなく僕のことですね。凄いなー偉い偉いー大正解ー」

 やっぱりーとはしゃぐ、邪気の無い笑顔が、痛い。脱走を見つけた人間が、脱走した本人から褒めてもらうって、どういう状況?

「毎度、ご迷惑をおかけします」

 反射神経というか、染み付いた反応というか、謝罪の言葉が次から次へと出てきた。むしろ僕以外にそんなリチャードさんがいたら、見てみたいものだ。それから、今度シスター・セシリーに会ったら、何か甘いものでもプレゼントしようと思った。


「それにしてもシスター・セシリーも大変だよね。自分が終わったら、今度は妹さんが流感にかかるだなんて」

「本当に。今年は冬でも無いのに流感が流行っていますし、何だかおかしな話ですよね」

 妹の為、シスター・セシリーは故郷のクレイトンに戻っている。クレイトンはテムズ河を下っていった海に近い村だ。どうやら彼女の妹の他にも流感にかかっている患者が多いようで看護師の手が足りないらしい。一ヶ月は帰ってこないだろう、という話だった。

 世間話代わりの話題が終わると、僕達は顔を見合わせたまま口を開くのをためらった。お互いに「アレ」の話題を避けているのは明らかだ。

「それで、どうしましょう」

「どうしようか」

 先に踏み込んで来たのはシスター・チェルシーだった。僕としては見なかった事にしたいのだけれど、そういう訳にはいかないらしい。


「真っ昼間に窓の外に生首が飛んでたって言って、信じてくれる人はいるかな?」

「無理ですよ、ね?」


 怯える新米ナースと脱走患者。廊下で立ち尽くす僕たちの疑問に、答えてくれる人はいない。

 ロンドンで青空を見る事は珍しい。でも、空飛ぶ生首を見るのは、もっと珍しかった。


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