第八十五幕 或る少女の平穏な日
【1831年 英国/マンチェスター近郊】
ヴィクトリア・アッシャーはイギリスの空気がキライだ。
インドとは違って、空は始終薄汚い煙に覆われているし、いつまでも煤混じりの陰鬱な雨が降り続くし、淀んだ地面の匂いは住んでいる人間達の気性を現しているに違いないと思っている。
ガタガタ揺れる遅い馬車にも、お世辞にお世辞を重ねる婉曲的な言い回しにもうんざりしていたが、遠くに見えるなだらかなヒースの丘や、羊や馬が草を食む光景を見るのは好きだった。
「もう少しで着くからね」
いつもと変わらぬ穏やかな母の声にヴィクトリアの機嫌は再び下がった。
「こんな小さな島国、あっという間にやられちゃうわ」
娘の怒りに、オフィーリア・アッシャーは笑った。
「そんなこと言わないで、可愛い私の宝石。お父様は私達の身を心配して、安全な場所を手配して下さったのよ」
「うるさい、その名で呼ばないで。もう子供じゃないもの」
髪を撫でる手をはね除け、窓の外から視線を外さずにヴィクトリアは言い捨てた。思春期。反抗期。呼び方は様々だ。
父親譲りの黒い髪と目も。鼻の頭から消えることのないそばかすも。母親が妹か弟を生むという事実も。全てがヴィクトリアを苛立たせる原因だった。
母の実家がイギリスの貴族であるという事は耳にしていたものの、ヴィクトリアがその権威を目の当たりにするのは初めての事であった。
なので寝物語に聞いた城が現実味をもって目の前に現れたとき、彼女は旅行鞄を抱えたまま口を大きく開けることしか出来なかった。
自分の母親はバカに違いない。
何故、こんな城を捨てたのか。何故、駆け落ちなどをしたのか。何故、私は貧しい暮らしをしなければならなかったのか。
ヴィクトリアの心に、やり場のない怒りがこみ上げた。
「ここは、変わらないわね」
オフィーリアは感情を押さえつけた声で呟くと、数か月前よりも随分と膨らんだ腹を抱え、慎重に馬車から降りた。地面に足を下ろすと、目を細める。
母のその顔はヴィクトリアの見間違えだったのかもしれない。どこか憎々しげに彼女は城を見上げていた。
「よく来てくれた、オフィーリア」
風が吹き、城の扉が開いた。一瞬、ヴィクトリアは母がもう一人現れたのかと錯覚した。高級な茶葉に似た深い色の緩やかな髪、べっ甲細工のような眼。目の下にある泣き黒子の位置まで同じ。
そこには、ヴィクトリアが憧れ、そして妬んだ、母によく似た男性が立っていた。
オフィーリアが軽く屈んで挨拶したのを見て、ヴィクトリアも慌てて母の真似をする。
「兄様もお元気そうで何よりですわ。この度は、受け入れて下さって感謝いたします。ネリーも深く感謝して……」
兄様と呼ばれた男性は、手を振って謝辞の言葉を遮った。
「そう固く畏まらないでくれ。僕達は兄妹じゃないか。困ったときは助け合うのが筋だろう?」
笑顔で彼は続けた。
「過去に父が何を言ったとしても、今は僕が当主だ。君の事を家族だと思っているよ。オフィーリア」
「勿体ないお言葉です」
「長旅で疲れたろう? 中に入って休んでくれ。あとで妻のメアリーを紹介するよ」
そう言った後、青年はその場に固まっている少女に目を止めた。一瞬、値踏みするかのような色が浮かんだがすぐに霧散する。
「初めまして、小さいお嬢さん。僕はライン伯爵家十四代当主のトマス・ラインだ。君の伯父さんにあたる。この家にいるときは、君も僕たちの家族だ。困った事があったら、何でも相談してくれ」
手の甲に小さくキスをされ、ヴィクトリアの顔色は一瞬で林檎のように赤くなった。走り出して逃げたい彼女をその場に繋ぎ止めたのは、嫌われたくない、という思いだった。ヴィクトリアは必死に母の真似をする。
「お、お会いできて、光栄です。ライン卿。ヴィクトリア・アッシャーと、申します。このたびは、ご厚情、に感謝、いたします」
ぎこちない挨拶であったが、ライン卿は気にした様子も見せず「うん、よくできたね」とヴィクトリアの挨拶を褒めた。
「ふん、混血って言うからどんな奴が来るかと思えば。髪も目も真っ黒じゃないか」
しかし直後に聞こえた嘲笑う声に、ヴィクトリアは何が起こったのか怒りすら忘れて口を開けた。
ライン卿の後ろから美しい少年が歩み寄ってきた。金色の髪の下から、生意気そうな目がじろじろとヴィクトリアを観察している。
「おまえ、鴉にそっくりだな」
続けざまに少年はそう言い放ち、上向き加減だったヴィクトリアの機嫌を落とした。
「……無礼なお前は、誰だ」
ヴィクトリアが低い声で唸るとヘェ、と面白そうに少年は口笛を吹く。
「アーサー! すまないね。僕の息子だ」
ライン卿からの叱咤の声に、ヴィクトリアは驚いた。この礼儀知らずの金髪野郎が、目の前の紳士と同じ血を引いているとはにわかには信じられなかった。
アーサーと呼ばれた少年はつかつかとヴィクトリアの前に進み出ると片手を出した。
「アーサー・ラインだ。お前ら余所者がこの家に住むのは癪だが、形式上よろしくしてやらなくもない。くれぐれも僕達に迷惑をかけるなよ」
「好きで来たわけじゃない。だが名乗られたから、名だけは名乗る。ヴィクトリア・アッシャーだ」
差し出された手を渋々握り、ヴィクトリアは応えた。
「知ってる。聞いてた。今日からお前のあだなは鴉だ」
「はッ!? 何だ、それは!?」
ヴィクトリアは裏返った声を上げた。アーサーはつんと澄ました顔のままだ。
「何ってお互いに名乗る秘密の名前だ」
「そんな名など必要あるか! 私には女王に因んだ立派な名がある。だから、もう一度言うぞ。次に私の事を鴉なんて呼んだら、そのバカみたいに高い鼻をつまんで、ねじりあげるからな!」
アーサーはヴィクトリアの反応を見ると、面白そうに眉を上げた。
「僕はキングアーサーだぞ?」
「ただのアーサーだろ」
敵意をむき出しにするヴィクトリアとは正反対に、アーサーはますます面白いといった笑みを深くする。
「おいおい、僕は爵位継承順列第二位だぞ。居候が、何て言い草だ」
肩をすくめる余裕の態度に、ヴィクトリアの苛立ちは一層加速する。
「そもそも、アーサー王だと言うなら、そっちこそ鴉じゃないか。ロンドン搭の言い伝えは知ってるんだからな。ロンドン搭の鴉はアーサー王の生まれ変わりだって!」
「お前、意外と物を知ってるんだな。ジャックが気に入るぞ。着いてこい。女が来ると知ったらあのガリ勉、驚くぞ」
「さっきからお前は一体何様のつもりだ金髪野郎ー!」
「ガァガァ煩いなぁ」
「……許してやってくれ、アーサーは、あれはあれで、意外と面倒見が良い子なんだ」
「そのようですわね。緊張していたヴィクトリアが、すっかり普段通りになりました」
額を押さえるライン卿の隣で、オフィーリアが笑った。視線の先には拳を振り上げるヴィクトリアの姿と、両耳を押さえるアーサーの姿がある。
「私の宝石、そろそろ中に入りましょう?」
オフィーリアの呼びかけに、ヴィクトリアは目を吊り上げて睨みつけた。
「ママ! その名前で呼ばないでって言ってるでしょ!?」
「エルメダ? 誰だそれ。つか、女言葉で喋れるなら、最初から喋れよ。その方が女らしいぞ」
「エ、ス、メ、ラルダよ! あぁ、調子が狂う。鴉野郎は少し黙って!」
「ふーん。この僕を鴉なんて呼ぶのは、世界広しと言えどもお前だけだぜ、きっと」
【1855年 英国/ロンドン/聖メアリー病院】
刃先が喉骨を抉る直前、青年が掠れた声で言った。
「死ぬのは覚悟しています。でも、最期に一つだけ。貴女に伝えないといけないことが、あるんです」
ケイトリンは何も言わなかった。返事がない代わりに、刃が肉にねじ込まれることもない。青年はそれを許可と受け取った。
「ユニコーンと盾。貴女の娘さんはそこにいます。とても幸せそうに暮らしています」
ケイトリンは柄を構え直した。怒りからか、カチカチと歯から音が漏れている。
「それを私に伝えて、どういう心算かしら」
「別に」
青年はどこか楽しげに目を細めた。
「死ぬときは、重要な情報をまとめて伝えるべきだって。そう教えてくれた友人がいたんです」
「リチャードさん、何か変わったことはありましたか?」
巡回の医者にそう問われ、青年は緩やかに首を振る。
「いいえ、何もありませんでしたよ」
「それにしては、ご機嫌ですね」
白いシーツの中にはナイフが隠れている。明日の朝にはシスターに見つかってしまうだろう。
疑う医者の視線から逃れるように、青年は視線を外へと向けた。そして、夜の闇に溶けるようにそっと目を閉じた。




