第八十一幕 或る家令の過去(1831年)
【1831年 英国領/オリッサ州】
「私、子供が出来ましたの」
妻からその報告を聞いた時、冷静な傭兵隊長である筈のネリー・アッシャーは文字通り飛び上がって喜んだ。二人目の子供の祝福を讃える聖句を口ずさむが早いか、愛する妻であるオフィーリアを抱締めた。
「素晴らしい、素晴らしい吉報です、オフィーリア。白磁と蜂蜜色の美しい君。今日は何と素晴らしい日か!」
彼らの住むムガル帝国オリッサ州は事実上、英国の植民地として扱われている。
ベンガル、オリッサ、ビハールの三州は、ムガル帝国より行政徴税権が英国へ譲渡されていた。しかし本来は州の徴税や財務を担うその役職を英国は「州統治権」として行使し、すでに三州はムガル帝国から実質英国支配下へと移行していた。故にオリッサには英国人が多い。ネリーの妻、オフィーリアもその一人であった。
本来なら強引な英国の植民地化に難色を示す筈のムガル帝国は、見てみぬふりを続けている。というのも度重なる内部分裂や各地の反乱により各州、各藩が分裂し、それぞれ首長を冠する独立王国が帝国内に乱立しはじめていたのだ。
もはや「ムガル帝国」としての権威が及ぶ範囲は首都デリーとその近辺のみ。国内の崩壊を止めるのが精いっぱいであり、その混乱に乗じて領有箇所を増やす英国に口を出すほどの力はなかった。
そういったムガル帝国の弱体化を失望すると同時に、各地では英国からの侵略を防ごうと叫ぶ地元民が続々と決起していた。国のあちこちで戦の火の手が上がり、それはネリー達の住まうオリッサ州も例外では無かった。
ネリーは、イギリス商人に雇われた傭兵だった。傭兵でありながらも武力を用いずに和平を結ぶ情報戦を得意とし、仲間からの信頼も厚い男であった。その功績が認められ、オリッサ州財務庁守護隊長を任されている。
ただし、翡翠の戦士と呼ばれ敵から恐れられるネリーも、家に帰れば同じ民族同士で争う事に辟易とする、ただの本が好きな男であった。
気の滅入る話が続く中、新しい命が生まれるという報が舞い降りる。イギリスと、ムガル。繁栄と滅亡を象徴する異なる二つの国と、異なる二つの人種の間に生まれる子。一触即発の現状に不安が無いとは言い切れないが、ネリーの中では不安よりも喜びが勝った。
「前の子供には次期英国女王の名を頂きましたわね」
「ええ。おかげで、ヴィクトリアは芯が強い、立派な子に育ちました。もしかしたら、貴女に似ただけかもしれませんが」
まぁ、と言ってオフィーリアは少し頬を染めた。
「次の子の名は貴方が決めて下さい」
「私が?」
ネリーは驚いたように長い睫毛に縁どられた黒目を瞬かせた。そうして、暫く悩んだ後に二つの名前を口に出した。
「男子なら、ウィリアム。女子なら、シャーロット」
「あらまぁ」
今度はオフィーリアが驚いたように目を瞬かせる番だった。
「まさか。ウィリアム・シェイクスピアと、アーサー王伝説のシャーロット姫から取る、だなんて言いませんよね?」
図星を付かれたのか、ネリーは気恥ずかしそうに頭を掻いた。
「い、嫌なら考え直します。ただ、貴方と私の子供と考えた時、真っ先に出たのが、その二つの作品で……」
「そうかしら。どちらも私の名前から連想したようですけれど?」
オフィーリアは頬を膨らませ、腰に手を当てた。
「私が嫉妬すべきは、シェイクスピアかしら。それとも、トマス・マロリー?」
「すみませんすみません、やはり今すぐ考え直します!」
「もう、冗談ですよ。本当に本がお好きなのですね。仕方のない貴方」
顔を見合わせて互いに笑い合う。
それが、彼らにとって最後の平和だった。
遂に、ネリーとオフィーリアが揃って我が子の顔を見る事は叶わなかった。
戦火は勢いを増していく。英国領に住まう傭兵たちは、命令のまま侵略する同族を追い詰め、殺していった。
日々、ネリーの抱く見えぬ荷物の中に重い罪悪感が詰め込まれていく。工業化するように、いっそ己の思考も機械化できればばいいとネリーは願った。反乱軍の指揮する一軍が、越境したとの報が入ってきたのはそんな時だ。
愛する妻と、愛しい娘、そしてまだ見ぬ我が子。ネリーに一欠けらの情が残る理由を挙げれば、それは家族の存在であった。二人の身に危険が及ぶことを恐れた彼は、密やかにイギリス大使へと手紙を送った。ネリーと結婚した事で今は絶縁関係にあるオフィーリアの実家、ライン伯爵家へ。
妻子が疎開できるよう恩情を求めた手紙は確かにイギリスへと渡り、彼の申し出は拍子抜けするほどあっさりと受理された。瞬く間にイギリスへと出立する準備が整えられた。共に居たいと渋る妻を、ネリーは必死に説得した。君達の為だと。そちらの方が安全なのだと。
「ネリー、兄の元へは行きたくありません。あの人の元へは帰りたくないのです。私は既にラインの名を捨てた者。最期の瞬間が訪れようとも、貴方と共に居たい。ヴィクトリアも分かってくれる筈だわ」
「何を言っているのです、オフィーリア。今のライン伯爵は、君のお兄さんではありませんか。彼は、私達の結婚を貴女の家族で唯一認めてくださった。信用に足る人物ですよ。彼ならば、貴女を、ヴィクトリアを、そしてお腹の子供を預けられる。ヴィクトリアも、もう六歳になる。大丈夫、きっと大丈夫です」
縋りつくオフィーリアの手をそっと解きながら、ネリーは最後にこう告げる。
「三年、三年だけ待っていて下さい。必ず君達を迎えに行きます。どんなに離れていても、貴女達だけは守りますから」
彼の約束が果たされる事はなかった。




