第八十幕 或る従者達の困惑
夜の裏庭は寝静まっていた。
芝生を縫うようにして造られた小さなバラ園と、青々とした人参の葉が茂る植え込み。それからほんのわずかな薬草畑。そういった背の低い植物達に囲まれた裏口の鍵が、音を立て内側からゆっくりと外された。僅かに軋みながら木製ドアが開き、その隙間から白い手が現れる。
「こっちや、こっちー」
ひそやかだが緊張感のある声は、癖のある訛りを含んでいた。
その声に導かれるように、石壁の向こうから草を踏みしだく音が数度響く。ほどなくして塀の上から、小さな黒い影が半分だけ顔を覗かせた。
ぴょこりと片手を挙げた小柄な影は、音も無く塀を乗り越えた。上から下まで黒一色で染め上げられたエプロンドレス。切れ長の眼。子供にも見える細い体躯。真っ直ぐに切りそろえられた黒い前髪と、所々に白髪の混じったお団子頭。ライン家秘書を務める李峰は無表情のまま扉へと近づいた。
「誰にも見られとらんよな?」
李はこっくりと頷くが、その眼には不満げな色が漂っている。
「いや、別にリーはんの能力を疑っとるワケやないで。念のためや、念のため。お約束、っちゅーやつやな」
扉が更に開いていく。そこから顔を出したのは、裏口とはまるで無縁そうな、身形の良い青年であった。世間ではライン卿、またはライン伯爵と呼ばれる彼は、片眼鏡をかけ直すと念入りに周囲を見渡した。コソコソと口元に手を当て、来訪者の耳元で囁く。
「そんで、あっちの様子はどないやった?」
「……」
「やっぱ見失ったか。しゃーないねん、向こうも用意しとったろうし……って、リチャードはんが怪我したぁ!? あっちはエルメダの姐さんが迎えに行ったやろ。一体全体、何でそんな事になるん!?」
「……」
「堪忍してやぁ。何でそっちもオオゴトになっとるの。上役全滅とか最悪やん?」
李が唇に一本指を当て、その仕草を見たライン卿もハッとした様子で口を押える。
マット・オブライエンは無名の喜劇役者である。本名であるマルティネスよりも愛称であるマットと呼ばれる方を好み、学もあり、社交的な青年だ。人柄も善い。
彼の際立った能力をあげるとすれば、誰にでも化けられる類まれな変装の腕を持っている事。そして、損な役回りを引き寄せるという事。この二点が際立っていると言えた。
半年前までの彼は、小さい劇場をクビになり、受けていたオーディションは全滅。蚤の市で不器用な手品を晒して日銭を稼いでは、賭け事と酒に費やし無一文、とパッとしない毎日を送っていた。
しかし、無名という事実は時に有利に働くこともある。時間があり、顔が売れていない、そして金に困っている。依頼主の求めに、運良く彼は応じることができた。
名家の当主に変装するという依頼を初めて受けた時、彼は金が尽きる寸前であった。執事服を着た美女から「当主に変装してパーティに参加してもらいたい」という依頼を受け、二つ返事で引き受けた。
思えば、鼻の下を伸ばしたのがいけなかったのだ。口止め料込みで二か月は遊んで暮らせる額を提示され、マットは何も考えずに請け負った。
役に対する生真面目さが徒となり、マットは本物以上の「本物」として完璧に役をこなした。思えば、初めて演技を褒められて調子に乗ったのもいけなかった。
気がつけば国会の貴族院で評議を聞いていた。それがどんなにマズイ事であるのか、気付かぬほど愚かでは無い。自分が「ライン卿」の偽物であることがバレたら、国家反逆罪で死刑となる。
マット・オブライエンは喜劇役者である。断じて、詐欺師などではない。ないのだが、結果、そうなった。
「周りは耄碌した爺さんばっかりやし、大丈夫やろ。老眼鏡かけても、ワシと自分の婆さん見間違えそうやで。あの御人ら」
開き直った彼の言葉を借りるのならば、そういうことだ。
なのでひきこもり貴族の代理をマットは続けている。弱味を握られたも同然で続けざるを得なかった面もあるが、本音を包み隠さずに言うならば、彼はこの仕事を楽しんでいた。もう一つ、楽しみにしている仕事がある。変装の腕を見込まれ、情報収集をする時間だ。
例えば船員に変装して酒場で酔っ払いから情報収集する、だとか。店員に化けて間抜けな警察官から捜査情報を引き出す、だとか。
最初は冒険小説に憧れた少年時代を思い出し、胸を躍らせた。スリルを楽しんでいたものの、此処最近では頼まれる回数が増え、自慢の体力も辛くなってきた。
朝には諜報、昼に議会、夜にはパーティ。多忙過ぎると白旗を挙げた。
「本物の」ライン卿の護衛である秘書の李も同意見だったようだ。滅多に意見を言わない彼女が静かに白旗を挙げたのを見て、使用人を束ねる家令にも思う所があったようだ。
人員を募集するので暫く待ってくれと言われた。
マットと李の二人は、飛び跳ねて喜んだ。まさかその翌日、巷で有名な探偵が現れて「よろしく」なんて言うとは、微塵も思いもせずに。
とにかく、久しぶりの休日がやってくると二人が浮足立っていた事は否めない。
社交パーティに出席していたマットは、家令のネリーから「ラムズトン氏から目を離すな」という指示を受け、それに従っていた。理由は聞かなかった。聞いても、あの執事が素直に教えてくれるとは到底思えない。
なので「ラムズトンの旦那、可哀想になぁ。こんな遅くまで爺さん婆さんの無駄話に付き合わされてしもうて。たしか若奥さんは身重なんやったっけ。よっしゃ、このワシが一肌脱いだろ!」という親切心から行動を起こしたのはマット自身の判断だ。
何故なら、その日のマットは、世界に対してとても優しい気持ちになっていたので。休日とは偉大である。それが良かったのか、悪かったのか。結論から言えば、マットと李の休日は消えた。
ラムズトン家の窓の下に倒れている人影を、最初は誰もが酔っぱらいだと思った。しかし、近くでその姿を見たマットは素に戻り叫ぶ。相手は顔見知りで、夕刻に言葉を交わした家令のネリーだった。
何故、どうしてと思う前に駆け出していた。その時、何と叫んでいたかは記憶にない。今は周囲に正体がばれていなければ良いと願うばかりだ。
特に、道端で会ったあの二人。最近の「本物」を知っている人間ほど苦手な相手はいない。マットは密かに頭を悩ませる。
「これから、どうしたらええんやろ」
李は何も言わずに肩をすくめた。
見張るよう指示された人間の家に、偶然手配中の人殺しが現れ、偶然居合わせた知り合いがそれを止めた。一階で倒れていた乳母は意識が混濁し、ラムズトン夫人に怪我は無かったがひどくショックを受けたようで今は眠っている。それが本当に「偶然」起こった事だとは思えない。
「そうは言ってもなぁ。こんな格好しよるけど、ワシはただの素敵でハンサムで紳士な、めっちゃ面白い芸人さんやで。お家の事にも、使用人の事にも、口出しできへん。しかし都会は怖いとこやなー。毎晩、こんなことが起こるん? 我慢できません、もう実家に帰らせてもらいますぅ」
李は弱音を吐く目の前の眼鏡に喝を入れるべく静かにファイティングポーズを取った。
「今のはジョークや、ジョーク!」
慌てて取り繕ったものの、折角構えたのでという理由から、結局マットはデコピンを二発ほど喰らう羽目となった。
「ほな、リーはん。そっちの二人は頼んだで。ワシはこっちでネリーはんの容態を見とく。今夜が峠や医者のセンセが言うとるけど、あの御人がそう簡単にくたばるとは思えん。せめてカイルの嬢ちゃんが此処におったらエエんやけどなぁ。屋敷に電報打ったけど、家には料理人のオッチャンしか戻っとらんし。まさか教会でも何かあったんやないな」
李の顔が少しだけ曇った。彼女にとってカイルは唯一の友人だ。マットは慌てて自分の言葉を否定する。
「なーんてある訳ないわな! カイルの嬢ちゃんに足と馬で勝てるようなやつなんて、おらへん。どんな化けモンと出くわしたって、逃げきれる。そうやろ?」
「……」
「あんたと違ってカイルは大丈夫……って、一言余計や! ほれ、さっさと行き。ワシも戻らんと、あの顔面凶器な警察の兄サンと、えろうべっぴんなシスターはんに睨まれてまう。あの二人には、どうにも睨まれとる気がするんよな、ワシ。何ぞ恨まれるような事でもしたんやろか」
疲れた様子で語るマットの肩を、李が軽く叩く。
「慰めてくれるん?」
違うと彼女は首を横に振り、マットの後ろをチョイチョイと指さした。
「リーちゃん、一つ聞いてもええかな?」
だめ。李は静かに両手をクロスさせると、大きく後方に跳躍した。そして壁を飛び越えるや否や、通りを挟んだ向こう側の曲がり角から軽い足音をさせ遠ざかっていく。
「顔面凶器、な」
「べっぴんとは」
「い、嫌やわー。なんや突然、後ろ見たくなくなったわー」
「変な訛りで叫んでいたから見張っていて正解だった。どこかで聞いた事のある声だと思ったが、お前、紳士服の店で会った仕立屋だろ」
「いやいや、何か誤解されているのではありませんか? グイグイいくタイプは女性に嫌われるでー」
「昨夜のライン卿はシークレットブーツ特有の金属音が靴音に交じっていましたが今夜は何の仕掛けもない普通の靴。一晩で六センチ近く身長が伸びた理由をお聞きしても?」
「こっちのねーちゃんは、動物か何かかいな。もー、嫌や。この二人の相手」
「「それでは、あちらで詳しいお話でも」」
「離してやー! 嫌や、死にとうないー!」
襟ぐりを捉まれた青年が、引きずられて消えた。扉は静かに閉まり、夜中の裏庭は再び静けさを取り戻した。




