007 誘拐
傍らのエリザベスさんを見下ろす。僕は、この小さな女の子のことがすっかり気に入ってしまった。
たった数行で退場した、性格も容姿も記述がない、可哀想な少女。彼女の性格を深く知れば知るほど、この何とも愛らしくて思いやりのある、口が悪くて、手が早く、お金持ちの淑女にも関わらず夜に弱者から正々堂々と金を巻き上げる、様々な身体的特徴から今は男の子にしか見えない少女の存在を失うのは惜しくなっていく。
「何か失礼なこと考えているだろ」
追記、勘が鋭い。
「明日には家に戻ると伝えたはずだが」
「だって、早くお爺ちゃんに会いたかったんだもん」
頬を膨らませる孫の姿に祖父はあっさり白旗を上げた。やれやれと続けた船長の声に責める色はなく愛情や優しさ、そして嬉しい気持ちに溢れている。
「ダック!」
「へい!」
船長が一声かけると、床から男性が起き上がった。さきほど、女性に見事な平手打ちを食らって幸せそうな寝顔を見せていた人だ。千鳥足で歩み寄ってきた彼は船長の横で見事な敬礼を披露した。
「お呼びになりましたか、サー!」
「寛いでいたところをすまない。ひとっぱしり、馬車を呼んでくれないか」
「すぐに見つけて参ります!」
走って店を出たダックさんの背中にからかいの声が幾つもかけられる。その中に、あのセクシーな女性はいない。どこに行ったんだろう。
「それで、この男は何者だ?」
道に落ちていたとエリザベスさんが紹介し、俺は知らんとマスターが続けるとリンドブルーム船長はそれ以上の説明を求めず、話を遮るように片手を上げた。
「スー、お前は帰りなさい。いまなら家から抜け出したことにも気づかれていないだろう」
有無を言わせぬ強い口調だった。リンドブルーム船長がエリザベスさんの小さな肩に大きな手をおく。
「おじいちゃん」
「心配するな、全ておじいちゃんに任せておけ」
「こいつ、海に沈めたりしないよね?」
「……」
沈黙が怖い。今の会話は聞かなかったことにしよう。
これ以上の沈黙に耐えきれず手をあげた。
控えめに上げた手に、三者三様の視線が突き刺さる。
『リンドブルーム氏、ぼくと賭けをしませんか?』
「賭けをしませんか」というのはリチャードの口癖で、子供を殺す時の決め台詞といってもいい。
そして僕の十八番。リチャードのモノマネで一番ウケるセリフでもある。少なくともパレス座の西山さんにはウケた。
そんなおっかない台詞を持ち出した理由は一つ。話を僕にとって都合の良い方に進めるためだ。
自分の言葉で喋る事が難しいのなら覚えている映画のセリフをつなげて会話すればいいじゃないかと、使えそうなセリフを頭の中から引っ張り出す。
『貴方が驚いたら、僕の勝ち。驚かなかったら、貴方の勝ち。どうです、簡単でしょう?』
突然、話し始めた僕に船長は当たり前のように警戒心を強めた。
「ずいぶんと一方的だな。何が目的だ。金か?」
『いいえ。この素晴らしい淑女と共に過ごす時間を、少しだけ、頂きたいのです』
「えっ」
「えっ」
「えっ」
全員が一斉に妙な声を出した。
先ほどまでの敵意ある眼差しから、威嚇行動をとってきたアマゾンの珍獣を見るような眼差しへと変化した。
「お孫さんを誘拐してもいいですか」をかなりオブラートに包んだ台詞だったと思うんだけど、何か間違ったのだろうか?
「コホン。では私が勝ったら君には今すぐに消えてもらおう。それで何と言って驚かせるつもりだ? これでも船乗りだ。人生における荒事のほぼ全てを乗り越えてきた。多少の脅迫では動じんぞ」
妙に長い沈黙ののち、リンドブルーム氏が賭けを承諾した。
僕が丸暗記している台詞は主人公と犯人、そしてチンピラのものが殆どだ。長々と話すとボロが出る。
さっさと切り上げてしまおう。
『あなたは、アタスン・テイラーを知っていますね?』
船長の表情が恐怖にゆがんだ。先程まで敵意しかなかった頑強な眼差しの中に、恐怖や畏れが忍び込んだ瞬間を見た。
『びっくりしました?』
ずらりと並んだ子供の死体を見せて被害者を驚かせるお決まりの台詞が、日常会話で使えるとは。世の中何が役に立つか分からないものである。僕は二歩、三歩、後ろに下がる。酒場の間取りと配置はすでに頭に叩き込んであった。
「船長、馬車が見つかりましたあ!」
しかし逃げようと思っていた出入り口がふさがれる。先程馬車を探しに行ったダックさんが戻ってきたのだ。彼は手も早いが仕事も早い男だったのか。まだ出て行ってから二分も経っていないのに!
それって、おかしくない?
エリザベスさんを「誘拐犯より先に誘拐しよう」としていた僕に生まれた思考の空白。
船乗りのルーヘンダック、外科医のキースランド、未亡人、ミス・ワイズ、会計士のテイラーの四人。
誘拐犯の名前は知っている。あとは姿形が分かればいい。
僕を思考の世界から現実の世界へ引き戻したのは、手首に巻きついてきた冷たい指の感触だった。黒いてるてる坊主がニタリと笑う。
「賭けはこいつの勝ちだね、お爺ちゃん」
「ま、待て! そいつを放しなさい、エリザベス!!」
「いつまでぼーっとしてんだ。逃げるよ!」
「はーい」
しまらないなぁと呟くエリザベスさんと共に、僕らはごったがえす店の中を走り出した。