第七十八幕 覚醒
彼はゆっくりと目を開けた。
真っ先に考えたのは、今が「こんばんは」に当たる時刻なのか、それとも「おはよう」に近い時刻なのかという事であった。しばらく考えていたものの、挨拶する相手がいない以上、どちらでも良い事かと立ち上がった。
外は暗かった。月は無く、風が涼しげに吹いている。こういった爽やかな初夏の夜が彼は好きだった。闇が深ければ猶更。大きく深呼吸をして土の匂いを楽しんだ後、少し離れた場所にいる二人の女性へと眼を向けた。
彼女達の会話を聞きながら(不毛だ)と彼は思った。答えが無く、彼女達の哀れな会話をこれ以上聞くのは忍びないと彼は扉を閉めた。鍵が壊れていたのは、実に残念なことだった。そうして順に灯りを消していく。
階段の上から、この哀れな会話を見守っている奇特な観客が一人いることには気づいていたが、大して興味を抱くことはできなかった。これからのショーを共有してやるのも吝かでは無いが、随分とご無沙汰なので一人で楽しみたいと彼は考えている。玄関ホールは闇に包まれたが、見える、見えないという事は、彼にとって些細な違いであった。
腹部に刺さったナイフを左手で抜く。手のひらに馴染んだ懐かしい感覚に少しだけ笑った。先日はあともう少しの所で邪魔をされたが、今夜こそはと手遊びがてらにナイフを回す。右手は使えない。重い肉が右腕の先に付いてると感じるだけだ。だが左手の握力に問題はない。十分だと彼は判断した。
「雑音が顔の真ん中についているのは何故でしょう」
誰からも答えは返ってこなかった。予想していた淡白な反応に、肩を竦める。
「雑音(noise)が、顔の真ん中についているのは、何故でしょう」
彼にしては珍しく親切心などを出してみた。此処最近「彼」であった別の「彼」の影響かもしれない。そんな事を思いつつ、一歩、近づく。
「何の真似だ、リチャード。何故、歩ける?」
ナイフを持つ一人の少女が憎々し気に言い放った。彼は落胆した。その名前で呼ばれる事には慣れているが、目の前の彼女ならば自分の事を分かってくれると僅かに期待していたからだ。彼は重い溜息を吐いた。
何故歩けるかなどという愚問に対してまで、親切に応えてやる義理はない。彼はマリファナ、阿片、大麻、そういったもので育てられた。耐性ができているのだと少女は知らない。
「答えは」
彼が答えを言う前に、ナイフを持った少女が飛び出した。上半身を逸らして刃先を避ける。すれ違いざま、ウィリアムと呼ばれている彼女の頬に刃を添えた。瞼を撫でて、じっと見つめる。
ナイフ、血、女。自分が出てくる条件が揃ったのは素晴らしい事だが、揃えたのが顔見知りである点だけは不満だった。
「目(i)が無くなったから」
「あああああああああああッ!!」
眼窩に深々と突きたてられたナイフを引き抜いた途端、悲鳴を上げて彼女は後ずさった。必死に右目を覆うウィリアムを彼は無感動に見つめている。飛び散った血で濡れた親指を舐め乍ら、呆れたように吐き捨てた。
「色気の無い」
アッシャー家の人間に対して、自分は過剰に期待をし過ぎていたのかもしれないと彼は考えを改めた。そうして、駆け落ち同然でアッシャー氏へと嫁いだ自分の妹、オフィーリア・ラインの顔を思い出そうと努力してみたが、自分によく似ているとしか思い出せなかった。
兄妹仲は悪く無かった。悪くないどころではない、相性は実に良かった。
その妹が欲しいと思った時、彼女は遠い異国の地にいた。
手に入れる為の労力は惜しまなかった。アッシャー氏の徴兵を仕組んだのも、隠れ住んでいた村の近くで反乱を仕組んだのも、妻子の疎開先として自分の家を提案したのも、当時の彼である。何も知らないアッシャー氏は提示された条件に対し、慈悲深いことだと涙を流して感謝を示した。あれは実に滑稽だったと彼は懐かしさに目を細める。自ら生贄を差し出すとは、本当に馬鹿な男だ。
当時の彼にとって誤算があったとすれば、妹の腹には既に子供がいたこと。そしてアッシャー家の長女である幼いヴィクトリアが本気で自分を愛してしまった事だろう。だが失敗は巡り好機へと変化する。幼い恋心ほど操り易いものはない。ほどなくして、アッシャー氏の娘が生まれる。名は、シャーロット。加減を知らずに慕ってくる幼い姉妹は良い暇つぶしになった。
「ああ、それにしても。君はなんて悪い子なんでしょうね、シャーロット・アッシャー」
自分を求め、自分の力になりたがるあまり、性別すらも捨て去って自分の息子だと思いこんだ少女に、彼は知らず愛着を覚え初めていた。
(オフィーリアとハムレットの子供たちなど、最初から幸せになれる筈がないのに。その上、知らず、自らの父親を殺し。知らず、自分の血を否定するとは。素晴らしいな。この盲目な少女の無知と運命を、悲劇と呼ばずに何と云う? 気に入った。欲を言えば、もう少し知的さが欲しかったのだけれど)
「さぁ、ぼくと賭けをしませんか? 貴女が驚いたら、僕の勝ち。驚かなかったら、貴女の勝ち。どうです、簡単でしょう?」
真実を知った時、シャーロットはどんな反応をするのだろう。ネリー・アッシャーの正体に気がついておきながら泳がせておいて正解であったと、彼は自分の判断に満足する。
ハムレット。そう、彼はハムレットと名乗り、顔を変えてやってきた。
(これを笑わずに、何を笑う?)
シャーロットの父親は真実を自らつきとめた。そうして、わざわざインドからイギリスまでやってきて、妹と、腹の子を探し続けた。探すまでも無いのだ。彼の妹は今もちゃんとロンドンのあの屋敷に住んでいる。正確には、埋まっているのだが。
死を信じず、ラインの家に止まり続けた執念が、遂にアッシャー氏を死の淵へと追いこんだ。
彼の前の身体を殺したのは復讐に燃えたアッシャー氏だったが、咎めるつもりなど無かった。むしろ感謝したいくらいだ。前のは年老いて随分とガタがきていたので、遅かれ早かれ新しい身体に乗り換えるつもりだった。
シャーロットは依然として怒りに飲み込まれていたものの、幾分戸惑った様子を見せていた。
「私の子供は、この子だけだ。君の血のつながった父親はさっきの殺したと言っていたインド人ですよ」
少女は困惑した様子で首を傾げた。幼い仕草に笑みがこぼれる。
初めて「これ」を観た時、ようやく次の自分を作る事ができたと彼は歓喜した。
同じ身体に同じ精神を引き継げば、それは即ち不老不死だ。それが彼の持論でありライン家という研究の成果でもある。
焦茶色の髪と飴色の眼はオフィーリア・アッシャーに似た訳ではない。両親共に、そうであったため必然とそういう風に生まれるしかなかった。
最初からそうすればよかったのだと彼は後に後悔した。他人との間に作った子供はどれも自分とは似つかなかったが、最後の子供は幼い頃の彼に瓜二つであった。血は何よりも濃い。
申し分ないと彼は思い、末子を後継者として定め、溺愛した。反対する者、異を唱える者、邪魔する者、真実を知る者は全て排斥した。排斥した、つもりだった。
(今も数人が生き残っていたのには驚いたが、まぁいい。良い教材になる。目くらましに似たようなのを数人消せば、誰がそうなのかは分からないだろうし)
つぎは。つぎは。つぎは。視線を巡らせた彼は、床に座り込んだ執事服姿の女性を見つめた。否、あくまで見られた当人が見つめたように感じられただけだ。琥珀色の瞳を、暗闇の中で猫のように細めていると感じただけだ。
(ヴィクトリア・アッシャー。こいつも随分と生意気になったものだ。どれだけ教育してやったと思っている。まあ、いいや。僕に反抗するようなら首を切って死ぬだろう。持ち物にはそうやって、ちゃんと印をつけてきた。ネリーの目の前で首を切らせるのも面白そうだったのに、見られなくて残念だ。しかし良い女に育ったなぁ。こちらは父親に似たのか。混血でさえなければ次の僕を産ませていたところだよ。本当に、惜しいなぁ)
「ヴィクトリア。シャーロット。君たち姉妹に聞きたいのは、一つだけです」
呼ばれた名前に女は答えない。反抗的に睨みつけたものの、恐怖は隠せていない。彼はこめかみを数度押さえ、眉間に皺をよせた。
「僕はね、父のように君たち二人をで育てたつもりです。そのことに対し恩義を感じろと言っている訳ではありません。怒るつもりも、ないんです。皆、自分の行動に責任が持てる年齢でしょう? しかし、いつまでも二人して義理の弟をいじめるというのは、どうなんですか。二人でリチャードの眼に熱湯を流し込んだときも、僕は言いましたよね? 協力してあげなさいと。それなのに、まったく進歩が無い。それに、リチャードもリチャードです。何故、姉をまだ殺していないんですか? 不良品達がここまで成長したなんて、信じられないな」
冗談などでは無く、本当に信じられないと言った様子で彼は首を振った。
「まぁ、いい。全部、父さんに任せなさい。全部、やってあげるから」
彼は穏やかに笑った。痛みには慣れるのが一番だ。その為には親しい人間を殺めるのがてっとり早い。そうすれば、あとは坂道を転がり落ちるように良心は消えていく。そうして強い人格だけが生き残り、ライン家として生きるのだ。かつての彼がそうであったように。
しかし、手を振り上げた姿勢のまま、彼は動きを止めた。
「……角材が一体どうしたと?」
其の呟きの意味を知る者など誰もいない。しかし、確かにそれは言葉として紡がれた。彼は苛立たしげに虚空を見つめた。ネジの人形が動きを止めた時のように唐突だった。
なぞなぞ) noise(雑音) - i(eye) = nose(鼻/顔の真ん中)




