第七十五幕 油断
そう、僕はイリーナさんの家を知らないどころか、顔すら分からない状態。名前すら監督に教えてもらったばかりなのだ。
こんなことなら、アンドリュー君に家族のことを聞いておくべきだった。いや、怪しんで喋らないか。彼は初見の相手にペラペラ身内のことを喋りそうなタイプに見えない。どちらかと言うとガードの堅いしっかり者だ。不審者的には困るけれど、近所のおじちゃんとしては頼もしい。
ちらりと後ろを振り向く。こうなったら戻って監督に聞こうかな。いや、それはダメだ。嬉々として煽ってくる。絶対そうだ。そしてエルメダさんが実力行使に出る。駄目だ、ストッパーとしての役目を果たせる気がしない。洒落にならないので、他の案を考えよう。
「何とかならないかな」
「ウィリアムには近づかない。私から言えるのはそれだけでございます」
「適当に走り回っていたら見つからない?」
「無、理、で、す。お忘れですか? リチャード様も昨晩、彼女に命を狙われた一人なのですよ」
「そのようなことも過去にはありました」
探偵登場に全力を注いでいたのですっかり忘れていたけれど、投げやりな感じで鎌が落ちてきたね。首スパーン未遂だったね。ウィリアムが妊婦さんメインに狙うと聞いていたから、完全に自分への警戒を忘れていたね。だが、それがどうした!
どうやって丸め込もうか考え込んでいると、目前に別の人参をぶら下げられた。実際には一枚の紙。
「先程の書斎から興味深い資料を数点持ってきたのですが」
「見たいです!」
控えめに言ってエルメダさんの実力は凄いものだ。警察署長から機密文章を盗み出し、なおかつ僕の注意もそらしてみせた。時代が時代ならスパイになれる。いやぁ、優秀な部下に恵まれて幸せだな。
彼女は僕の目の前でヒラヒラと紙を宙に泳がせ、わざとらしく畳んで内ポケットの中へと入れた。
「帰ってから」
行動パターンを読まれている? まだ実質二日しか付き合っていないというのに、もう僕への対処法を確立したのか! 戦慄する。
「勝てない!」
「私に勝とうなど、十と三年早いですね」
随分と微妙な年数で勝てるらしい。
「前から思ってたけど、ネリーさんもエルメダさんも凄い人だよね。何で僕に仕えてるの」
もっと良い雇用条件のところがあるんじゃないでしょうか。
その疑問に、彼女は応えなかった。
「一度屋敷へ戻りましょう。万が一、入れ違いとなった時のため、みんな他の場所も見回りに行っております。二度手間にならないよう、リチャード様は屋敷で待機しておくのが一番です。料理女の件は、此方で対応いたしますから。心配するような事は何もございませんわ」
「はーい」
バグショー署長のお屋敷には、誰もいなかった。廊下を走っても、階段を一段抜かして飛び下りても、咎める人は誰一人として居ない。ぽつん、ぽつんと置かれた蝋燭の灯りだけが光源で、周囲どころか自分の足元すらも見えにくい。
息が切れてきた僕を気遣って、一階の玄関ホールまで来たところでエルメダさんが止まった。
「通用口には人の気配がありますね」
人の気配があるって、あれかな。察知能力かな。人間の感覚の限界に挑戦中かな。シックスセンスかな。同じ状況下にいる一般人代表として言わせてもらうけれど、人の気配なんて、まったくしないよ!?
「じゃ玄関から出て行こう。邸宅全体が巨大な密室になってるとか、ないよね」
監督ならやりかねない。
「大丈夫です。正面の鍵をこじ開けて入りましたので、密室ではありません」
エルメダさんならやりかねない。正確に言えば、やってた。
この際、方法が黒かろうが白かろうが見ないふりをしよう。普段なら人の居る通用口方面に突っ込んでいきたい所だけど、今は時間が惜しいからと歩き出す。
ふと、誰かに見られている様な気配がした。ぞわと首筋の産毛が逆立つような気味の悪い感覚。その寒気は前を歩くエルメダさんではなく背後の暗闇から向けられているように感じた。立ち止まって、ゆっくりと後ろを振り返る。
誰もいない。
いや、いた。正確には誰かではなく、何かがいた。あれはイゾルデだ。階段の踊り場から、じっと此方を見下ろしている。光る目しか見えないけど。
君に会えて光栄だったよ。また会おう、アニマルセラピスト二号店。軽く手を振る。
「さっ、早く帰ろ……」
開いたドアを見ながらそう口に出し、足を止めた。
エルメダさんがさっき言った言葉を思い出したからだ。
イリーナさんの事を、料理女と呼んだ。彼女は知っていた。イリーナさんがエルマー家で料理を作っていたと言うことを。さっき監督が話したのはダニエルの姉としてのイリーナさんであって、エルマー邸で料理をしたのが彼女であるとは言っていない。どうして二人を同じ人物だと結び付ける事ができたんだ?
あともう一つ。これ、非常に大切だ。
僕は開いた扉を見て何を思った? 安心した。そう、出口を見て「外に出る事ができる」と安心した。
「どうか、されましたか?」
このパターン知ってる。ダメなやつだ。




