061 襲撃
夜の色は深い。
陽が沈んだ瞬間を見計らって、路地裏に潜んでいた影が一斉に這い出し始める。それらは街の色も音も全てを飲みこみ、丸々と肥え太った巨体を横たえて眠りにつく。
大道では瓦斯洋灯が寝ずの番を勤めていた。時折、憐れな火盗蛾が炎に包まれては黒い灰雪へと姿を変える。
不夜、太陽の沈まぬ帝国。民衆は自尊心高らかに叫べど、所詮は比喩に過ぎず、夜も眠りも昔と変わらず訪れる。
食事時の終わった住宅街は夢路へむかう準備に追われている。
大通りに並んだ石造りのルネサンス様式が古典的欧州の姿とすれば、裏通りに並ぶのは切妻屋根連なる懐かしきジョージ様式の家々。左右対称に並んだ邸宅は、ままごと人形の家にも似ていた。
そんなある一件の家の窓辺で光影が動いた。
癖の強いプラチナブロンドを背中に流した若い女主人がカーテンを開け空を見上げている。ゆったりとした綿の寝着の腹部には隠し切れないほど大きく育った命。少女にも見えるあどけなさで彼女は腹を撫でている。聖母のような穏やかな表情。子供部屋の壁紙は淡いミントグリーンにしようと決めていた。
「今日はね、パパ、帰りが遅いんですって」
窓辺にもたれ掛りながら、彼女は呟いた。答える声は無い。普段なら元気よく内側からの衝撃が返ってくるのだが、いまは寝ているのだろう。まだ見ぬ我が子のあどけない寝姿を想像し、イリーナ・ラムズトンは微笑んだ。
地は暗闇で満ちているが、天は覆いつくさんばかりの星が瞬きを繰り返している。だが、夜空に月の姿は無い。普段より一層暗さの増した大通りは静まり返り、遠くで案内人が照らす小さな洋灯も一瞬で建物の影へと飲み込まれる。下を覗きこんだ彼女の頭上を、一筋の影が過ぎった。
「早く帰ってこないかしら」
吹いた風の冷たさを剥きだしの肌で感じ取り、イリーナは両腕を擦った。いつもはうるさい乳母のモリーも、今は静かだ。イリーナよりも赤子の誕生を望んでいるのではないかと疑うほど精力的に活動している彼女は、一階のカウチで産着を縫いながら眠ってしまった。起きる気配の無い眠り姫に自分のショールをかけてやったのは先程のことだ。夏の始まりとは言え、夜は肌寒い。
カーテンの裾が持ち上がる。普段よりも研ぎ澄まされたイリーナの聴覚が、階段の軋んだ音を拾った。彼女は背後を振り返り、部屋の入口へと視線をむけた。扉は閉じられている。しかし、その向こう側には確かに人の気配があった。
「ルーファス、帰ったの?」
夫の名を呼べども返事は無い。休眠中の暖炉の上に置かれた時計の針は、予定の帰宅より早い時刻を指している。
「ルーファス、私は此処よ。子供部屋にいるの」
喜びに弾んだ声で、イリーナは窓辺から立ち上がった。真鍮のドアノブに手をかけようとしたが、それよりも先に扉がゆっくりと開いた。開いた扉の隙間から見えたのは、見覚えの無い男の靴。細長い影と廊下の光が薄暗い室内を照らし出す。イリーナの喉は悲鳴を上げようと大きく息を吸い込んだ。しかし、それが声になる事は無い。
結論から言うと、イリーナにとって恐怖に満ちた晩となった。
自分に何が起きているのか理解する前に、彼女はクローゼットの中へと押し込まれた。
「静かに」
口を塞がれたのは一瞬の出来事。しかし、その一瞬で育った恐怖心が彼女から声を奪った。
彼女の眼に映ったのは老いた黒豹だった。浅黒い肌、鋭い眼光、豊かに波打った癖毛の黒髪と美しく整った髭。全身を包む黒の燕尾服からは僅かにアイロンと洗濯糊の香りがした。
扉が閉まる前に見えた茶目っ気を帯びたウィンクの所為で、イリーナはこの執事の恰好をしたインド人の侵入者が実は良識ある善人なのではないかと錯覚した。
「アンタは誰。女をどこに隠したの?」
扉の向こうから別の声が響く。男にしては随分と高く、女にしては低い声だ。
僅かに空いたクローゼットの隙間からイリーナが外の様子を窺おうとした時、重苦しい衝撃音が二度響いた。共鳴した底板が僅かに震える。
「別に誰でもいいけどぉ、とりあえず、ソコどいてくんない?」
今度は少女が父親におねだりするような甘いソプラノ。見つけた小さな覗き窓へと片目を押し当てれば、ナイフを持ち構え、片足の重心をずらす小柄な影が僅かに見えた。
「全く、生意気なのは誰に似たのやら」
対するは呆れ混じりの低いテノール。大柄な人影は徒手空拳にも関わらず、不可視の西洋剣を握っているかのように行儀が良い。
対極的な人物同士の会話は冷たく、隠れたイリーナの背筋を凍らせた。
「いるいる。そうやってさ、人の事何にも知らない癖に、いかにも自分は全部知ってますよーって顔してる奴。一番ムカつくんだよね。そういうの」
僅かな星明かりに照らされた少年の横顔はこの世ならざるモノと見間違うほどに白い。ふわふわとした焦げ茶色の髪は妖精のようで、若い従僕が着るような短い丈のズボンを穿いている点だけが、やけに現実的だった。
ふと、イリーナはその顔立ちに見覚えがあるような気がした。
しかしそれが、いつどこで見たものだったのか思い出せない。
もっとよく見ようとイリーナがクローゼットの木板に手を押当てると、湿度含んだ木材の軋む音が大きく響いた。ぎょろりと少年の目が動く。親指の爪をかじりながら、猫のような眼は確かにクローゼットの中へと隠れたイリーナの姿を捕えていた。
「ヒッ」
慌てて口を押えるが、既に遅く。
少年は笑みを浮かべた。次の瞬間、イリーナの視界は黒く染まる。頬についた暖かい水が、ぬめりを帯びながら伝っていった。
【Side:ラムズトン邸宅前】
ダニエルは問う。
「あいつは一体、何なんだろうな」
アンドリューは応える。
「兄ちゃん。答えのないぎもんをいだくのは、じかんのむだだぜ」
シスター・ナンシーは変わらぬ表情のまま。
「そうですね」
街燈の灯りよりも疲れ果て、今にも消えそうな影と語尾。
数時間前、「ユニコーンと盾」を襲った不幸について、彼らは言及しなかったし、深く聞きたくも無かった。
乱闘で荒れ果てた店を見た瞬間のマスターの顔は一見の価値があったが、それ以上に悪徳質屋と名高いデルマン・トナーが簀巻きにされ袋叩きにされているのは大変な見物であった。
そしてマスターに裏口へと引きずられる、やり遂げた男の顔をした船乗り三人。彼らは清々しく、頭にこぶをこさえて、路地裏に散った。
連帯責任と称する酒場に居合わせた客を巻き込んだ強制的な後片づけが終わったのは、つい先ほどの事だ。日は沈みきっていた。夕食どころか、晩餐の時間すら過ぎた時刻。
羊の煮込みとビスケット、そして林檎と心労を片手にダニエルとアンドリューは姉のイリーナの家へと向かっていた。
エリザベスとは酒場で別れた。さすがの彼女もハリケーンの如き勢いで走ってきた祖父の熱い抱擁からは逃れられなかったようだ。
いくらエリザベスの眼が「助けて」と言っていても、無理なものは無理なのだ。家族の絆を引き裂くなんてできっこない。シスターは静かに十字を切った。
三角屋根が連なる通りへと差し掛かったところで、シスター・ナンシーが最初に足を止めた。彼女の視線の先には通りに停まった一台の馬車。そこから降りてきた男の姿にそそがれていた。
自然と他の二人も歩みも止まる。
「ラムズトン、さん」
「ああ、誰かと思えばダニエル君じゃないか。久しぶりだね、今晩は」
馬車から降りた見事な口髭の紳士が振り返った。軽く帽子に手を当ててにこやかに挨拶をするのはルーファス・ラムズトン。イリーナの夫であり、ダニエルの新しい義兄にあたる人物だ。
神経が細く押しに弱いところもある男だが、善き夫としてダニエルは彼を認めている。
「やぁ」
続いて馬車から降りてきた姿を見て、三人は固まった。
「ああ、紹介するよ。此方はリチャード・ライン卿。私が今夜のパーティから抜け出すのを手伝ってくれたんだよ」
それは、若い貴族であった。
「どうも。ラムズトン氏を理由に、年寄りの長話から抜け出してきた避難者です」
そう言って微笑むタキシード姿の青年を全員が凝視した。焦げ茶の髪を後ろへと撫で付け、片眼鏡の青年が軽く微笑む。
「やあ、シスター・ナンシーにダニエル巡査部長。昨日は大変世話になったね」
「え? はぁ、どうも?」
全員を代表して、最初に青年の握手に応えたのはダニエルだった。
「シスターのねえちゃん。この兄ちゃんは誰」
「ライン卿です。昼間、あなたたちと一緒にいた」
「この兄ちゃん、昼間のメガネ!? 嘘だぁ」
素直な少年は驚きにカッと目を見開き、ライン卿として紹介された青年は少年を見ておっとりと微笑んだ。
それから、とリチャードは視線をダニエルへと合わせた。
「えぇっと、すまないね。此処の所ひどい事件が続いたものだから記憶の混乱がひどくて。昨夜の謝礼の件についてだが追々署長を経由して払うよ」
「お気遣い……痛み入ります?」
何とか言葉を紡いだものの、この時、ルースター兄弟の心は一つであった。
((いや誰だよ))
ダニエルが見たライン卿は二日酔いに苦しむ姿と血塗れで引きずられている姿だけだ。
どう思い返そうが目の前の紳士とは印象が一致しない。
同じ名前、同じ階級、同じ顔の別人が二人いる。そんな事がありえるのだろうか。顔と挙動と振る舞いが違うだけで目の前を歩くのは立派な紳士だ。
「集合」
「はい」
「おう」
ダニエルの号令でアンドリューとナンシーの三人が顔を突き合わせた。
「シスター、あんた。昨日ライン卿と話したんだろ。あんな感じだったか?」
「見た目は同じですが、中身はまるで別人です」
「だよな。俺が見たのとも別人のようだ」
普段の皮肉を忘れてダニエルがストレートに同意した。
「おれたちと遊んでた時はガキみたいだったのに、いまはしんしだ」
アンドリューの言葉にシスターは頷き、件の人物を上から下までまじまじと眺めた。
「おや?」
「どうした」
「いえ、大したことではありませんが。彼、昨日とは重心が違いますね」
「は?」
「靴音が違いま――……」
「三人とも、ぜひイリーナに顔を見せてあげてくれ。喜ぶから」
シスター・ナンシーの言葉を遮り、自宅へと招いたラムズトン氏が呼び鈴を押した。だが数秒待ってもメイドが出てこない。ラムズトンは不安げに表情を曇らせた。
「おかしいなぁ。普段なら」
言い終る前にガラスが割れる音が通りに響きわたる。おっとりとしたラムズトン氏を突飛ばし、ダニエルがドアノブを握った。
「どけっ!」
嫌な予感がする。姉の身に何かが起こっているのではないかと感じたのは、過剰な心配か。はたまた、虫の知らせなのか。
腹を裂かれて死んでいたエルマー夫人。
数年前、腸を切り裂かれて死んだ娼婦の姿が記憶の中で重なった。
「鍵が、開いている!」
呆気なく開いたドアの向こうには暗闇が広がっていた。姉の名を叫び、ダニエルは迷うことなく暗闇の中へ飛び込む。先程までの些細な違和感など、今はどうでも良かった。
「ネリーはん!」
振り返る余裕はない。外の悲鳴が一体誰のものなのか気にしている余裕もない。
「アンドリューはそこに居ろ!」
ダニエルは再び無音となったラムズトン邸に、叫びながら飛び込んだ。警官としては短絡的な、しかし家族の安否を気遣う弟としては当然の行動だった。




