005 酒場
路地を越えた先には洋灯をぶら下げた酒場が建っていた。
戸口に据え付けられたオレンジ色の明かりは、暗闇に慣れた目には少しばかり眩しい。あいさつとばかりに中から酒瓶が三本飛んできて、僕の頭上を飛び越え土と同化した。
軒先にぶらさがった吊り看板から滝のように水が流れ落ちている。描かれているのは盾に前脚をかけた白いユニコーン。この店構えは何度も映画の中で見たことがある。酒場「ユニコーンと盾」亭だ。
「入るならさっさとしろ!」
「うるせぇ、押すな酔っ払い!」
ラムの匂いをまき散らす船乗りの一団に押され、僕たちは店の中に転がり込んだ。
店の中は外の暗さや陰鬱さとは対照的だった。琥珀色の煙と海風と焼けた肉の匂い。それら全てを上書きするほどこびりついた強い酒精の香り。
店の中は熱気で蒸していた。
ひっきりなしに何かが割れる音が響き、そのリズムにのって明るいバンジョーと笛の音が重なる。赤ら顔の低い声が見事な舟歌を歌いあげることもあるけれど、それより怒号の方が多い。
先ほどまで真っ暗な路地にいたというのに通りを抜けただけでこのお祭り騒ぎ。みな、よそ者を気にするより、酒を飲むほうが忙しい。
カード賭博に興じる集団、店の隅で占いをしている女性、フードを目深にかぶった顔に傷のある男。一癖も二癖もありそうな顔ぶれがそろっている。
床には砂が敷き詰められていて、干からびた野菜クズとパンの欠片があちこちに落ちていた。誰かの飼い犬なのか、あばらの浮いた茶色の犬が掃除機顔負けの熱心さで回収している。石炭の入った樽の上には一匹の黒猫が座っていて振り子時計のようにゆらゆら尻尾を揺らしていた。
「このクソ野郎!」
「ひっ!?」
猫に気を取られていると僕の横にいた男性が消えた。遅れて後方から凄まじい破壊音が聞こえてくる。先程まで彼がいた場所には派手なドレスを着た女性が立っていて、胸元の広く開いたドレスから零れんばかりの双球を見せつけ腕を組んでいた。
「私を買う前にまずはそのお粗末なモノを一人で磨いたらどうかしら」
ここは魔窟だ。そうでないなら、古の剣闘士が集う地下闘技場だ。
僕をそんな地獄へ連れてきた少女はいたるところで「スー」と呼びかけられていた。あるテーブルを通り過ぎる時、無精髭に眼帯をした初老の男性が僕のコートをつかんだ。
「スー、また男を変えたな?」
酔っ払いだと一目で分かる赤ら顔。呂律の回らない口にガブガブと琥珀色の液体を流し込んでいる。
「アンドリューじゃあ不足か」
「黙ってろ、バーク爺」
バーク爺と呼ばれた老人はヤニで黄ばんだ歯をむき出しにして笑った。一方で僕は首を傾げる。彼の顔をどこかで見たような気がしたからだ。誰だったのだろう。思い出せない。
「愛想がねえなぁ、兄ちゃんもそう思うだろ?」
話題をふられ、思わず日本人特有と言われる曖昧な笑みを浮かべる。
「僕には分かりません、ミスター・バーク」
そう言った瞬間、バークさんから表情が抜け落ちた。次の瞬間、彼は顔を真っ赤にして笑いはじめた。僕の肩を乱暴に叩き酒瓶を掲げて乾杯しはじめる。なんだ、これ。
「何トロトロしてんだ。置いてくぞ」
スーさんはバークさんを透明人間として扱うことに決めたらしい。再び床に転がる泥酔客を避け、カウンターへ進みはじめる。
白布の巻きつけられた後頭部をおいかけながら、慣れた森を駆けるウサギみたいだと思った。僕は慣れていないので人の頭や足を踏みまくった上、暴言と思わしき言葉を山ほど頂戴している。
「おい、マスター。安酒くれ」
スーさんが銅貨を数枚カウンターテーブルの上に置いた。酒棚が並ぶ西部劇のようなカウンターには筋骨隆々、いかつい風貌の男性が立っている。グラスを磨きながらぎょろりと僕らを見下ろした。エラが張った顔はよく日に焼けていて、鼻の下に切り揃えられた黒髭がたくわえられている。
「ガキには売れねえ」
そして彼は顎で僕を指しこいつは誰だと続けた。答えたのはスーさんだった。
「知らね。でも怪我してる。だから消毒用に酒よこせ」
「いたたたっ!?」
スーさんが、カウンターテーブルの上に僕の左手を勢いよく乗せた。突然のことに慌てたけれど、琥珀色の液体が小さなグラスに入って出てきたから良い判断だったのだろう。
「厄介事か?」
「分からん。そこに落ちてた」
「エリザベス、こいつは男だ。しかも子供じゃねえ。お前が手を貸すような義理はないんだぞ。もし、こいつが人殺しや狂人だったらどうするんだ」
僕の掌はマスターの手であっという間に止血が施された。口は悪いが協力的で面倒見のよいおっさんは、世界を問わず素晴らしいものだ。
「フハッ、ロバ屋のダニー爺に似てるこいつが人殺し? 天地がひっくりかえったって無いね」
馬鹿にした笑いを湛えたスーさんが肩をすくめるが、実はマスターが大正解である。
ダニー爺と言う聞き覚えのない名前にそんな登場人物いただろうかと縺れまくった記憶の糸を辿る。最近使っていなかった検索エンジンが答えを出す前にマスターが言った。
「先月老衰で死んだダニー爺か」
「あぁ、こげ茶色のうねったタテガミ、ぼーっとしていて餌を食いそびれるドンくさそうな面構え」
「確かにあのロバに似ているが、それとこれとは話が別だ」
しんみりした二人には申し訳ないが、見ず知らずのロバ(故)に似ていると言われたこちらの心境は複雑だ。しかし僕を見る二人の眼差しに少しだけ哀愁と同情があるので、僕はロバのダニー爺(故)に感謝するべきなんだろう。
「ところで、お前さんの名は?」
「……リチャード・ロウ」
とっさに匿名で使われる名を言えばマスターは太い親指を立てた。そして、そのままグルリと地面へ向けた。
「エリザベス、今すぐこいつを捨ててこい」
「エリザベス」なる可憐な名前が目の前のスーさんの本名であるという事実が受け入れられない僕をおいて、会話は進んでいく。
「今夜は雨だし寒いし。明日でもいい?」
「駄目だ。一晩過ごすと情がわく。飯を食わすと懐かれる。いいか、いますぐ捨てろ。それがお前のためだ」
「情なんてわくはずないだろ!? こんなボンクラ相手なら玉ねぎ相手にしてた方がマシさ!」
「バカ言うな! 玉ねぎに謝れ!!」
顔は良いはずなのだが、中身のせいでリチャードの株価がノンストップ急落中。こればかりはどうしようもない。リチャードの間抜け扱いは僕の中で「原作通りだからセーフ」判定が出ている。覆す努力はしない。
「捨ててこい」
「いやだ!」
周りが興奮し過ぎて、当人の存在が忘れ去られるのはよくあることで。
マスターとエリザベスさん、二人の口論に入るタイミングを逃した僕はカウンター前に行儀よく座った。感情的な言い争いに下手に口を出すとかえって火に油を注ぐ、というのは長年の経験から理解していたので、燃え盛る炎が落ち着くまで待とうと決めている。
「ウチじゃあ飼えません!」
「いやだ!」
まるで捨て犬をひろった親子の会話だと思いながら、この長い闘いはいつまで続くのだろうと店内を見ていた。




