048 悪人
突如現れた眼鏡の男にその場にいた者たちは驚いた。
『こんにちは』
薄汚れた港町の外れ、人気のない倉庫。正確には、普段人気のない倉庫。
泣いた子供が二人、黒いボロを身にまとった巨漢と痩せぎすの男に捕まれている。新たな訪問客を含め、木箱で構成された舞台には五人の人間が存在していた。
『ハーバーさん、そしてゴドウィンさんですね』
来客は、この場に似つかわしくない小奇麗な身形をした男であり、やけに馴れ馴れしい調子で片手を挙げた。ヤニで汚れた歯とギョロ目を持つ男、ハーバーは挨拶代わりに唾を吐き捨てた。
「誰だ、お前は」
酷いロンドン訛りが来客を迎えた。ハーバーはコートの胸元に触れる。ハーバーと付き合いの長いゴドウィンはそれが臨戦態勢だと知っていた。コートの裏ポケットに隠された肉厚のナイフがぎらりと姿をのぞかせる。
ゴドウィンの武器は彼自身だ。数度打ち鳴らしてみせる両の拳は、木箱の一つ二つ、時には人骨すらたやすく砕いてみせた。
荒事が日常の二人にとって、目の前の細身の男は脅威ではなかった。
『リチャードと呼んでください』
リチャードと名乗った優男は道化のように笑って告げた。
「それで、そのリチャードさんがよう、俺達に何の用だ」
生い茂った黒いひげを撫で付けながら、ゴドウィンは自らの恵まれた体躯を見せつけるように一歩前へと足を踏み出す。
「酷いな」とリチャードは背中に両腕をまわしながら言った。
『探したのですよ、貴方たちが待ち合わせ場所にいないから』
ハーバーが胸元に伸ばした手を下ろした。
「代理が来るとは聞いてねえぞ」
『こちらこそ、子連れとは聞いてません』
ハーバーが不服気に鼻を鳴らし、傍らで怯える子供を顎で示した。
「トランクの中身を見られた」
『その子達に?』
大人三人から見下ろされ、小柄な少年とふくよかな体躯の少年が揃って悲鳴を上げる。
『困ったねぇ』
人差し指を口に当て、大して困った様子を見せずにリチャードは言う。
『処分しようか』
「えっ」
朗らかに告げられた提案に上ずった声をあげたのは、その場にいた全員だった。
『行ってもらう、消えてもらう、死者の腕に抱かれてもらう。呼び方は様々です』
にこやかに繰り返して、リチャードはハーバーとゴドウィンの傍まで歩み寄ってきた。
『遅れたお詫びに僕がやりましょう』
「いやああああ!!!」
「人殺しいいいい!!」
泣いて暴れる二人の子供を難なく抱え、リチャードと名乗った男は倉庫から出て行った。
直後、空気を切る高い音が二発、倉庫の中のハーバー達にまで聞こえた。やってきたのは泣き声の消えた、気味が悪いほどの静寂。
『えぇ、それで。どこまで話しましたか』
赤黒く染まったハンカチで手を拭きながら、眼鏡の男は再びハーバー達の前に姿を現した。
『どうして子供に見られるなんてヘマをしたんですか?』
初めて入ってきた時とまるで変わらない笑顔のまま、リチャードは質問をなげかけた。その笑顔の裏に潜んだ、蛇のような冷たさを二人の男は感じとった。
「お、お、俺達のせいじゃないぜ。拾った時には、トランクの鍵は壊れてた」
「そう、あのガキどもにぶつかったら、勝手にトランクの方から開いたんだ!」
ハーバーが言った事は事実だった。持ってくるようにと依頼されたトランクは最初から留め具のネジが緩んでいた。しかし言い訳めいた口調になってしまったのは否めない。
「おまえ、本当にガキを殺したのか?」
不安そうな顔でゴドウィンが訊ねた。
『トランクを見せてもらいましょう』
リチャードはゴドウィンの質問に答えなかった。
ハーバーが控えめな手つきで後ろに置いてあったトランクを差し出す。
リチャードは大切そうにトランクの表面を撫でた。革張りのトランクの表面は傷つき、大きく刻まれたMの文字にいくつもの線が走っている。
「それで、約束の報酬は?」
そわそわとしながら、ハーバーが足を鳴らした。
『暫くしたら、他の者が金を持ってやって来ますので』
「話が違うじゃねえか!」
「おい、やめろ」
殴りかかろうと拳を振り上げたゴドウィンをハーバーが止める。そんな二人を見ながら、リチャードはトランクを抱えて笑みを浮かべた。先ほどまでの穏やかさの消えた、酷薄な笑みだった。
『暇潰しに、ゴドウィンさん。ぼくと賭けをしましせんか? 貴方が驚いたら、僕の勝ち。驚かなかったら、貴方の勝ち。どうです、簡単でしょう?』
「こいつ、何を言ってるんだ?」
「わっかんねえよ」
ゴドウィンとハーバーは顔を見合わせた。
『ゴドウィンさん。貴方、リンダ・ストックを御存知ですね』
「誰だぁ、リンダって」
キョトンとした顔で答えたのはハーバーだった。
ゴドウィンは巨体を震わせていた。まるで悪魔を見たかの如く、全身を強張らせていた。
『びっくりしましたか? それでは、約束を守ってください』
御機嫌よう、と告げてリチャードと名乗った男が背を向けた。
「まて!」
殴る前に一言叫ぶのは、不意打ちに向かない。
ハーバーはかねがね口を酸っぱくして相方に注意をしていたが、その約束は今日も守られなかった。
リンダ・ストックなる名前のどこに、ゴドウィンを激昂させる要因があったのだろうかとハーバーは考えた。相棒は、幼い子供を殺しておきながら何の呵責も見せない目の前の男を、殴る理由を探していただけかもしれない。
ゴドウィンの拳が男へと届く前に、リチャードが振り向き、同時に黒い蛇が一匹現れた。
振り下ろしではなく、横なぐり。
リチャードが背中から取び出したそれは、勢いをつけて側面からゴドウィンへと襲い掛かってきた。遠心力の乗った蛇は太い喉に容赦なく巻き付き、締めあげていく。
「よいしょー」
左腕に抱えていたトランクを、男は床に置いた。不釣り合いな軽い掛け声だった。
いくら遠心力の助けがあっても、巨体なゴドウィンを引きずり倒すには少し力が足りない。ピンと張ったままの蛇を両手に持ちなおすと、眼鏡の男は蛇の長く伸びる胴へと踵を乗せ、思い切り踏みつけた。
革の軋む音が響く。倒れない巨体の喉元深くに蛇が食い込み、必死に指を喉に這わせるゴドウィンの口元に泡が見えはじめた。
するり、と蛇がゴドウィンから離れる。地面で一跳ねした後、蛇はばね仕掛けの玩具のようにリチャードの手に戻ってきた。黒なめし革の牛追鞭は倉庫の闇の中に溶け、じっと周囲を窺っている。
バコンッと間抜けな音と共に、床に置かれたトランクケースが勝手に大きく口を開けた。中に詰められていた蝋燭の塊がバラバラと倉庫の床に転がっていく。
「あー、うん、確かに鍵が壊れてるね」
ゲホゴホと咳き込むゴドウィンを見下ろしながら、リチャードは少しだけ残念そうにつぶやいた。
生気を取り戻した黒革の蛇が蠢く。倉庫に反響した摩擦音は銃声によく似ていた。
「それじゃあハーバーさん。これ決め台詞なんで、一応聞いておきますけれど―……」
男はこの状況を楽しんでいる。それだけは確かだとハーバーはナイフを構えながら思った。
『ぼくと賭けをしませんか?』




