044 謝辞
「こ、こんにちは」
双方の間に、しばしの時間が流れる。
リンドブルーム船長が静かにシルクハットを取った。黒のロングコートとツヤの出た同色のスーツ。そして眩いばかりに磨かれた紐靴。
曇り空とは言え、日光の下でリンドブルーム船長を間近で見るのは初めてだった。鍛え抜かれた身体を正装に包んだ老船乗りは控えめに言ってもとても格好良かった。立ち方一つで、こうまで威厳が出せるものなのかと舌を巻く。
彼の隣に並んだエリザベスさんは、緩くウェーブのかかった赤毛をリボンで編み込み、レースのついた日よけ帽をかぶっていた。初めて会った時には海賊、もとい船乗りを彷彿とさせる恰好だったが、今の彼女はさながら砂色のドレスを身に纏っているフランス人形だ。
洋服の偉大さで見た目が変わる事を昨日の一件で痛感していたものの、表情一つでこうまで印象が変わるとは驚かされる。
毒気と言うべきか。すっかりと先程までの熱量を失った僕は顔を赤くした。暴走しているところを見られてしまった恥ずかしさが遅れてやってくる。穴があったら入りたい。
「ライン卿、でよろしいですかな」
リンドブルーム氏のこほんとした咳払いには、今見た事の一切合切を流そうという提案もこめられていた。一も二も無く肯定する。
「礼に来ました。先日は当家の危険に参じて下さり、感謝の言葉もありませぬ」
リンドブルーム船長はそう言って、深く頭を下げた。彼のような傑物が若輩者にお礼を言うなんて。止めてください。頭を上げて欲しい。そういった言葉全てが喉元で渋滞を起こし一つとして出てこない。
「リチャード様」
後ろを振り向くと、エルメダさんが静かな笑顔で立っていた。
「呼び鈴が鳴る前にドアを開けてはいけません」
「はい」
完全に怒っているエルメダさんの迫力に負けて一度頷く。
「それから、お客様に会った時にはきちんとしたご挨拶を」
へい、と返事の代わりに今一度首肯する。
「最後に、いつまでも玄関先にお客様を立たせておくなど言語道断です」
はい、仰る通りです。赤べこの化身となった僕は二度、三度と首を縦に振り続けた。一応僕はこの館を管理する主人なのだけれど、今の一連のやりとりで聡いリンドブルーム氏には此方の力関係がお分かりいただけたと思う。
リンドブルーム船長の挨拶は昨夜のエルマー家で起こった痛ましい事件へのお悔やみと不幸な境遇に対する僕への同情から始まった。そして一家を守ってくれた事に関する感謝の言葉へと続き、事故による記憶の喪失が一時的なものであって欲しいという願いへと変わり、英国の繁栄を祝う言葉で幕を落とした。
引用された詩や演説の元ネタどころか、数か所何を言っているのかさっぱり理解できない場面もあったが、口がポカンと開けた瞬間に小突いてくるネリーさんの肘のおかげで、最後までアホ面を晒さずに済んだ。
船長が大変博識であり、英国ユーモアを持ち合わせた紳士であることは十分は理解できた。船長は詩がお好き、と。今度詩集買ってこよう。
彼は間違いなくリンドブルーム船長であった。僕はそっと手紙の差し出し主候補から彼を除外した。年齢的にはアンデル監督と同じくらいだが、僕とリチャードのように性格の齟齬がみられない。他者が演じているなら、多少の違いを感じさせるはずだ。
もっともアンデル監督は史上最高にして最強のミス・トリマニア。僕のような新参者に正体を見破られるなんていう凡ミスはしないかもしれない。
僕はエリザベスさんへと視線を移した。
静かだ。今日の彼女を一言で現すなら、これに尽きる。エリザベスさんはリンドブルーム船長の傍らでお行儀よく手を揃え、すっと前を見据えていた。そこに路地裏カツアゲ犯の面影はなく、小さくとも淑女の教育を受けている女性の姿があった。
僕の背後には神妙な顔をしたネリーさん、そしてメイド服に着替えたエルメダさんが控えている。彼等は気配もなく立ち、視線を床に向けたまままったく動かなかった。味方として頼もしい事この上ないが動かぬ彫像のような姿に、少しだけ恐ろしさも感じる。
「友人に頼んで正解でした。まさか、こんなにも早く貴方を見つけられるとは」
そう言って、リンドブルーム船長は紅茶で口を湿らせた。友人という形で名前を誤魔化したけれど、僕の捜索を引き受けたのは恐らく探偵なのだろうという予測は付いていた。
エルマー氏の家から帰ってきたのは今朝の事だ。彼等の訃報は新聞にも乗っていないし、あの晩餐会参加者から聞かなければ僕が巻き込まれた顛末を知る筈も無い。
友好度と、頼むという単語のチョイスから考えて、一昨日以降レイヴンに僕の正体を探るように相談したか、突如として降りかかった火の子を払おうとしたのか、そのどちらかだと推測している。レイヴンにはその時、僕についての情報を語ったのだろう。アルコールに弱いという情報を漏らしたのは船長だったのか。
椅子に深く腰掛けたまま、腹の上で両の手で指を組む。今までの間、僕は一言も発していない。背後から突き刺さる余計な事はするなという圧力をひしひしと感じているからだ。
リンドブルーム船長もエリザベスさんも酒場での僕の醜態を目撃しているため、こんな静けさを今更騙ったところで、無駄なシリアスだと思っている。
「さて、今日私が来たのは他でも無い。率直に申し上げますと、マーシュホース商会の今後の扱いについて話し合うためです」
背後の執事ーズからピリっとした殺気を感じ、僕はどういう事か分からずに内心首をかしげていた。
「後処理を、当家にも押し付けると?」
ここにきて、初めてネリーさんが口を開いた。滅相も無いとリンドブルーム船長は大げさに手を振る。
「そうは言っておりません。彼等の悪事の一端を貴方達は見事に暴いた。されどそれらは氷山の一角に過ぎぬのでしょう。首を出した以上は戻れぬと、そう忠告しているまでです」
静寂。しかし先程とは確かに違う、不穏な空気が室内に漂い始めてきたのを感じた。
「リチャード様」「エリザベス」
この場で年長に値する二人の男性が同時に僕らの名前を呼んだ。
「すみませんが、大事な話がありますのであっちで遊んでいてもらえますか」
「すまんが、大事な商談がある。そこの坊ちゃんと一緒に向こうで遊んでいてくれ」
バターン! と僕達の後ろでドアが閉められる。がっちりと重く歴史を感じさせる高級な木製のドアは、先程よりも開きづらく、中で行われている空気の重さを如実に写し取っていた。
疑うまでもなく、追い出された。当事者なのに。しかもエリザベスさんと同じ、子ども扱いで。情けないやら悔しいやら。
黒幕の今後をさぐるとか、そんな面白……楽し……興味深い話題に僕もいれてよ!!
何とかして中の会話を盗み聞きしたいが、何の話か理解できるかどうかも怪しい。
途方に暮れた僕は、そっと隣の彼女を見下ろす。前に見た時と印象の違う楚々とした彼女に、どうやって話しかけて良いのか分からない。再度、改めて途方に暮れる。
「あの、スーさん、だよね?」
「ふぅ」
軽い溜息の音が聞こえた。しゅるしゅるというリボンをほどくような音と共に、彼女の頭半分を覆っていた帽子がふわりと宙に浮く。
生き物は動くものを自然と目で追いかけるというが、僕の場合もまさしくそうだった。投げ飛ばされた高そうな帽子に慌てて両手を伸ばす。しかしその隣では次なる放物線が描かれようとしていた。
隣で聞こえる衣擦れの音が幻聴であって欲しいと願うが、ふわりと舞い上がった大量の布地は砂漠のような色合いで僕の目の前にパッと花を咲かせた。
「ッしゃ!」
ばさり、と頭の上に大量の布地が降ってくる。隣で小さく掛け声をかける彼女が一体どんな服を着ているのか。はたまた着ていないのか。見えないから分からない。
幼い少女に興奮する性癖は持ち合わせていないが、裸を見たから訴訟賠償責任をとれ等と言われたら、今扉の中で何やら白熱議論している年長者組に合わせる顔がない。
エリザベスさんがアビゲイルのように押せ押せパターンで求婚をちらつかせるような女性では無いと分かってはいるものの、突然のドレス脱皮に僕の頭はついていかなかった。何だか驚いてばかりだ。新鮮なような。楽しいような。心臓に悪いような。
「オラ、いつまで私の服ひっかぶってんだよ。このウスノロ!」
ずるりと大量のレースがカツラのようにひん剥かれる。
「さっさと行くよ!」
半分だけ、眼鏡越しに見る視界が明るくなった。高そうなレースのスカーフを下っ端海賊のバンダナみたく頭に巻きつけた彼女は、まさに僕の知っているチンピラ然としていた風貌。シャツに、ズボン、革のベストに革の編み上げ靴。見覚えのあるカツアゲ犯が隣で胸を張っているスーさんの姿。たった二日前の出来事なのに、何だか懐かしくも感じる。
そうか、彼女は生きているんだ。二日間色々あったけど、肝臓は死にかけるし、得体の知らない人達はいっぱい出てくるし、黒幕がいきなり退場したりもしたけれど。元気な彼女の姿を見られただけで頑張った甲斐があった。道を違えていたとしても、多分、僕は後悔しないだろうな。
「ちょっと時間が無いんだから……何を笑ってんだよ。気持ち悪い」
「そうですか?」
多少顔が緩んだ事については否定できない。
もしも監督に出会って怒られたっていいじゃないか。こうやって、エリザベスさんと話せるのは僕が起こした様々なハプニングの結果だ。そして今まで無かった未知の世界。そうやって自分の中で納得できたのなら、誰に何を言われたって平気な気がする。
「まあいいや。気持ち悪いのは今に始まった事じゃないし」
まだ頭にドレスをかぶった状態の僕の手を引いて、エリザベスさんがずかずかと廊下を歩き始める。
「あ、あの。行くって、どこに?」
小さい子に手を引かれ、頭にドレスをかぶっているだなんて通報待ったなしの状況。慌てて残ったレースを振り落とした。背後で行われている暗黒会議の進行具合はどうなっているのか後ろ髪を引かれる思いだが、僕の身体は前方、玄関に向かって進んでいる。
「そりゃあ、あんた。金曜日なんだから、毎週恒例行事に決まってるだろ?」
そんな当たり前の事も知らないの? そんな表情を隠しもしないエリザベスさんが僕を見上げた。
「死者の手足を買いに行くんだよ」
毎週金曜日に、なんてもんを購入してるんだ。君は。




