004 逃走
外は「雨の倫敦」の名に恥じぬほどの豪雨だった。
黒一色に覆われた夜闇の中にぽつりぽつりと街燈の火が等間隔で浮かび上がっている。まるで人を引き付ける灯台みたいだ。
こんな雨の夜に出歩く酔狂な人間などいるはずもなく、歩道には誰も居ない。それは黒い外套を体に纏わせながら全身全霊で走り続る不審者に目を向ける人もいないということだ。
食べ物と海藻を腐らせ潮の匂いに満ちている。海が近いらしい。ここが本当にロンドンなら噂に名高いテムズ河が近くにあるのかもしれない。
どこからか物音が聞こえて足を止めた。道脇に積まれた樽の上に一匹の黒猫が座っている。濡れそぼる毛皮をものともせず、光る目でこちらを見ていた。
僕と目があうとぴょんと路地裏の中へ入ってしまった。
どうするべきか。答えは一択だった。好奇心に負けておいかける。
「登場人物」は、全員「何らかの役割」を持っている。
だから「雨の中、ここにいる黒猫」という異常な存在も、何らかの役割を果たす為にそこにいたのではないか?
そう考えたのだ。
まぁ、イギリスで時計を持った白兎を見つけたら、誰だって追いかけると思う。黒猫だって似たようなものだ。
泥道をすすみながら、現代社会のすばらしさを噛みしめた。石の通りは滑りやすいし、路地の泥道は悪臭が強い。水を吸いこんだ重い靴に足をとられて、あっという間に顔から泥水へダイブした。肺まで満ちる堆肥の匂い。吐き気がこみあげたけれど幸いにもえづくだけで終わった。
とにかく、ここまでくればシスター・ケイトリンも追いかけて来ないだろう。助かったとホッととした時、その声は聞こえた。
「おい、ここで何をしている?」
顔の前に二本の足。そのまま視線を徐々に上げれば黒いコートの裾が見えた。
「さっさと答えやがれ、このうすのろめ」
小さな洋燈の光が少女の顔を照らしだす。
大きな雨よけのローブ、赤毛の前髪からはポタポタと雫がひっきりなしに垂れている。鼻頭には若々しいそばかすが散らばり、間近で見た眼は爛々とした緑色。よく見ればてるてる坊主のような愛嬌のあるシルエットだ。
「えっと」
意思疎通ができればコミュニケーションとしては上々だろう。
「エーゴ、ワからないネー」
コミュニケーションスキルはある。ただし僕に英語スキルというものは無い。
しかも、此処がミス・トリの世界なら使われるのはヴィクトリア時代の英語だ。現代よりも少し古い、時代劇の言葉。僕の知っているビジネス英語は役に立たない。義務教育の完全敗北である。
ましてや修道女を殺しかけたから逃げてきましたなんて、言えるわけがない。心情的にも。……実力的にも。
「なんだ、また不法移民か」
何を根拠に彼女がそう言ったのかは分からない。起き上がる僕に向かって少女は手を伸ばした。
「アリガト」
「うるせぇ、触んな」
手助けをしてくれるのか。しかし差し出した手は振り払われる。期待したトキメキが一瞬で粉砕する。
「ゴタクはいいからさっさとショバ代払いな」
「ショバだい」
「ショバ代」とは場所代のこと。
これはもしかして、かつあげでしょうか。
はい、かつあげです。おまわりさん、大変です。殺人犯がかつあげを受けてます。
固まっていると、元々釣り気味の彼女の目が更につり上がった。
「浮浪者なら自分の稼ぎ場があるだろう? そこは私の稼ぎ場なんだよ。さっさとポケットの中をあさって金を払うか、どくか選びな!」
あ、浮浪者と間違われたのか。なーんだ、そうか。言われるままにポケットの中をさぐると冷たい丸い感触が指先に触れる。引っ張り出すとそれは銀色の硬貨だった。
「はい」
「ふん、次からは場所にも気をつけるんだな」
硬貨をひったくると、彼女はのしのしと力強い足取りで去っていった。そして数歩もいかないうちに戻ってきた。
「これはなんだ?」
鬼のような形相だ。悪いことをした覚えはないのだけれど? はてなと首を傾げているとイライラした様子で先ほど渡した硬貨を見せつけられた。
渡した時についたのだろうか。硬貨が血で濡れていた。
わぉ、ホラー。そういえば、シスターから逃げ出すときにナイフが掠ったような気がする。
気がつくと忘れていた痛みが主張を始めた。左手をそっと隠す。
黙りこんだ僕を見て、彼女の顔はますます険しくなった。さっきのショバ代とやらを請求された時よりもずっとピリピリしているようだ。
「ついてきな」ぶっきらぼうに彼女が言った。
「ん?」聞こえなかったわけじゃない。問い返したのは信じられなかったからだ。
「ついてこいって言ったんだよ!」
右手をつかみ、物凄い勢いで彼女は歩き出す。
「おじょうさん、どこいくの?」
「黙れ」
おじょうさんと言った瞬間、つかまれた右手が悲鳴をあげるほどねじあげられた。迷子になる心配はなさそうだ。ところで彼女の声というか顔に覚えがあるんだけど、誰だったっけ?




