041 差別
月並みな台詞だが、たった一晩の外出がこれほどの大冒険になるとは。主役の二人には、もっと元気な時に出会いたかった。
ようやくたどり着いたマイホーム。馬車から見えたポプラ並木は一枚の絵画に見える。門番用屋敷の周辺には朝日を浴びて黄色がかった若芽が勢いよく葉を伸ばしていた。
馬車の窓枠に肘を乗せ、どこまでも続く真っ直ぐ明るい散歩道を虚ろな眼差しで見つめる。やばい。この逃避行感。癖になりそうだ。
玄関前に到着し、手すりにつかまってヨロヨロと馬車から降りる僕に、御者台に座っていたエルメダさんが急いで手を差し伸べてくれた。だだ漏れるアンニュイかつ病弱薄幸な空気を察してくれたのだろうか。
「ここで吐きます?」
とても嫌そうな顔だった。なのでここでは絶対に吐くまいと誓う。
「問題ない。ただの二日酔い」
「二日酔い、でございますか」
不思議な事に、僕の答えを聞いたエルメダさんの目が輝いたように見えた。
「そういう事なら、お任せください!」
「いや、待っ!」
胸を叩く彼女に何を任せろというんだ。少し開いていた距離を詰められた。この勢いには覚えがあるぞ!? 嫌な覚えがな!
「あのですね」
「秘蔵の酔いざましをですね」
「はい」
「遂にお披露目する日がきたようですわ」
「ヘイ、聞いてよレディ」
リメンバー・ジェイコブ診療所鍵閉め事件。
あのセーフか、アウトかと聞けば「デッドボール」と答える一件を忘れた訳ではない。彼女の大丈夫は、ちっとも大丈夫じゃない。僕だって一応は学ぶのだ。今のところ、彼女の止め方が分からないだけで。
心配してくれる気持ちは嬉しい。だから、こっち見て。空を見上げて拳を握らないで。冷静に話し合いで解決しようじゃないか。
「じゃ、私は馬車を置いてくるんでー!」
「カイル、ありがとう」
「お安いごよーうー」
エルメダさんを止められる唯一の人間が行ってしまった。静止しそこなった手が、宙ぶらりんに浮いている。わきわきと動かしてみる。
馬車で遠ざかる彼女の声はドップラー効果と共に小さくなっていった。カタカタと回る車輪の向こうで、小さく振られる手が見えた。
「凄いねー、馬車の扱い」
次第に遠くなっていく彼女は、自分の手足のように大きな馬車を操り曲道を曲がって消えた。
「彼女はアメリカの農場で育ちましたから馬の扱いに慣れているんです。騎乗はもっと凄いですよ」
言った後で、エルメダさんは口を押えた。
「申し訳ありません。失言でした」
カウボーイ、いや、彼女はカウガールなのか!?
どの辺りが失言だと云うのか。もっと詳しく聞きたい情報だ。
「カイル、アメリカから来たの? 凄いね! 西部? 西部?」
非常に由々しき事態である。本物のカウボーイハットの、保安官の、西部劇の、荒野のアウトロー所属の人間に会えるかもしれないなんて。まるで荒野の……マグニフィセント……くっ、セブンがくっ付く呪いには屈しないからな!
そうですねと歯切れ悪くエルメダさんが応えた。
「リチャード様。興奮しているところ申し訳御座いませんが、カイルがアメリカから来たという件は、できるだけ口外しないで下さいまし」
声を潜めて言う彼女に、はてと僕は首を傾げた。
「アメリカ人というだけで、彼女の父親は殺されましたから」
そうか。この時代は、まだ人権なんてものが無いんだ。
選民意識、差別格差、戦争。
アメリカは英国から独立した国だ。現代では大国であるアメリカも、二百年前は貧民や清教徒が逃げていく僻地だった。
エルメダさんいわく、カイルの一家は、十年ほど前に英国にやってきたそうだ。カイルはアメリカで生まれたけれど、彼女の両親は駆け落ちしたイギリス人だったから、いわゆる出戻りってヤツになるのだろう。
ふるさとに帰って来たカイルの両親を待っていたのは周囲からの侮蔑と拒絶、そして貧困だった。カイルの幼い二人の弟は長い船旅の疲れから体調を崩し、そのまま冷たくなった。
こんな事ならアメリカで牛を追いかけていた頃の方がまだ良かった。小さかったカイルはそう言ってよく泣いていたそうだ。
けれどカイルの父親は頑張った。馬を操る技術を見込まれて、御者の職を手に入れた。辻馬車から始まり、もう少しで貴族のお抱えの運転手になれるという所までたどり着いた。大出世とも言える躍進だ。
「彼女の父親が死体で見つかったのは、そんな時でした。同業者から妬みを買ったのでしょう。複数人から殴られ、蹴られ、遺体は酷い有様でした」
「泣いていいかな?」
「こらえてください」
犯人は、捕まらなかった。幼いカイルとカイルのお母さんは借金と共に英国に取り残された。
「カイルというのは、お父様のお名前なんですよ。彼女の本名はケリーと言うんですが、女の名を使うと恨みを買いやすいので、お父様の名を使っているんです」
「かなり泣きそうなのですが」
「こらえてください」
ぴしゃりと言い切られ、仕方なく歯を食いしばる。
「おかえりなさいませ、リチャード様……戦争帰りですか?」
「そのようなものでした」
出迎えに出てきたネリーさんは、ボロボロの格好で歯を食いしばり上を向く僕を見るなり呆れてしまった。
「ライン家で働く者は皆、カイルのような出自です」
血の付いたシャツを処分しながらネリーさんが笑って言った。
「私にはインドの血が混ざっています。エルメダの母はスペインの踊り子で、料理人のデクワン一家はアフリカ大陸から渡ってきました。秘書の李は中国のサーカス団員でした。本来ならば、私達は職に就く事も難しい人間です。それが貴族の家来として伯爵家に仕えているのですから、常人から見れば腹立たしいこと、この上ないでしょうね。私どもは異端中の異端。それだけで殺される理由になるのです」
「怖っ」
「いまは無理にお分かりにならずとも、良いことですよ」
用意してもらった新しいシャツの袖に腕を通し、心落ち着く大きな眼鏡を渡してもらって、ようやく普段のリチャードに戻れた。やっぱりお洒落より、普段のスタイルが一番だ。
現代日本の就職戦線も相当辛いと思っていたけれど、英国就職戦線はもっと戦線だった。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、従者とは貴族の身につける装飾品の一種だということだ。でもネリーさんに自虐の色は見えないし、むしろそれが誇らしいと言わんばかりに胸をはっていた。
「前ライン卿は地位があり、金がありました。私たちのような装飾品でも、物珍しいからの一言で済まされましたよ。世間での評判はどうあれ、あの方は私達を拾い上げて下さった」
おっ!? おーっ!
殺人鬼父親にも良い時代があったのだろうか。先代に恩を感じているから、次代が多少の僕でも家の没落を防ぐために家来の皆さんが頑張るという美談だろうか。よかったね、トマス卿、救済措置がちゃんとあったよ!
「あの御方が欲しかったのは《生きる為なら何でもできる》人間だったようですが」
救済措置じゃなかった! 追撃だった!
今の気持ちを一言であらわすならテンションジェットコースター。お屋敷の人みんな前科者の可能性が出てきてしまった。だからと言って、彼等を警察につきだすわけにはいかない。
リチャードの友達だし、一番黒いのが僕の父だから。告発すれば全員仲良く首吊待ったなしだ。
「唯一の跡取りであるリチャード様がいなくなれば、私達は完全に後ろ盾を無くします。結果、今までの罪を贖わされるでしょう」
雲行きが怪しいどころか、突然の大雨だった。イギリス人は傘をささないというけれど、あれは小雨の場合は傘をさすほどではないの略なので、豪雨の場合は保身のための傘が欲しい。
連座か。屋敷の人が皆死んでいたのは、それが一番楽な死に方だからという理由ではないだろうか。そうだとしたら、まったく笑えない。けれど意志に反して口元にひきつった笑いが浮かぶ。
「主人は従僕を人間として扱いません。そういうものなのです。我々は空気になるよう育てられ、主人となる御方は空気の存在を視界にいれても無視するように教育を受ける。一流のメイド、そして執事とは息をひそめ、気配を殺し、視界に入らない様に極力気を配らねばなりません。今、リチャード様は私共に話しかけて下さいますが、本来はあまり褒められたことではございません」
話しかけちゃダメだろうが、知ったこっちゃない。
家の中では平気だし、今の僕には早急に優れた先生が必要なのだ。
ネリーさん。メイドと執事は英国における忍者の隠れた姿だったんだね。僕は色々と納得した。さすがはMI5とMI6を有する国。島国で隠密や諜報が育つのは、伝統文化なんだろうか。




