040-2 或る傍観者達の幕間
【アルバート・バグショー】
ウィリアムという子供はまったく従僕になる為に生まれてきたような少年であった。
「まったく信じられないよ、あの女。突然豹変したんだぜ」
ふわりとカールした栗色の髪。少女と見まごうばかりの顔。天使のように無垢な笑みを浮かべ、長椅子の上にだらしなく身体を横たえていた。健康的な細い脚を組みなおす様はさながらギリシアのアドーニス神か、悪戯好きのパン神を彷彿とさせる。
「それが計画を変更してまでキャロライン・エルマーを開腹した理由か」
私の問いかけに、彼は起き上がると花がほころぶようにふわりと微笑んだ。
「怒った?」
「別に。エルマー夫妻が死んだことに代わりはない。仕事には何の問題もなかった」
「オレ、あなたのそういうトコが好きだよ」
このウィリアムという少年が先天的な、はたまた後天的な精神の欠陥を患っていることは誰の目からみても明らかであった。
そもそも、彼が本当に「少年」なのかどうかも定かではない。彼の内面の醜さは、外面の美しさと反比例している。そこが何よりも好ましかった。
その愛らしい唇から次々と紡がれる言葉は退廃しており、その歪みきった慈愛の精神すべてが、私の悩みの種であった。
「ウィリアム」
「なあに」
先刻まで彼はシャーロットと呼ばれるメイドの少女であった。彼が、あの内気な少女の姿で私の目の前に現れた時の驚きといったら!
「君はよくやってくれた」
「本当? ふふっ」
椅子から飛び降りると、少年は規則正しいメトロノームのように、部屋の中を往復しはじめた。嬉し気に噛み続ける親指の爪は皮膚から解離しようとしている。
私は彼から目を離し、自らつけている日記のページをひらいた。
マーシュホース商会に消去の二文字を記し、下に書かれた名前を斜線で消していく。
リンドブルーム家は残り、エルマー家は脱落した。比率は些か崩れたが、ロンドンにおける輸入業者と商人の力を適度にそぎ落とせたと思えば、程よい力関係が保たれる。
商会、有力な船団、輸入業。この条件さえ満たせば、消えるのはどちらの家でも良かった。
中庸とは、均衡とはすばらしい。今や大英帝国の威信は世界に轟き、薔薇の栄華が咲き誇っている。
この平和な英国を続けなければ。末永く、永遠に。
私にとって最優先事項は、愛すべき街をどう守るかにある。私は悩み、考え、答えを出した。どんなに排除しても悪が消えないのならば、責任を持った第三者の手でコントロールすべきだと。
治安を守る警察署員すら、いまや半分が正義の為に動き、半分が悪事の為に動く人間で構成されている。その結果、これ以上ないほど巧く街が機能していた。
黒の駒である警察官は金を渡せばいくらでも、それこそ何でもやった。私にとって、素晴らしい成果をみせてくれることもあった。例えば今回のように。
舞台を整え、要らないものや証拠を見て見ぬふりをし、無能に見せかけ犯人を逃がす。そういった側面からみると、彼等は無能ではなく優秀な手駒達であった。私は満足げに息を吐く。
「結局、あの青年は殺さなかったのかね」
私の言葉が彼が機嫌を損ねたのは明らかであった。ウィリアムは鼻歌を止め、苛立ちを押さえずに足を踏み鳴らした。
「いつかはやるよ。けど方法が決まらなかったんだ」
「彼がどうやって帳簿の件を知り得たのか知りたかったのだがね。まぁ、君が嫌ならしばらくは放っておこう」
私はそう言って日記を閉じた。
「あいつ、さっさと消えればいいのに」
ぼそりと囁く声に問い返す。
「消えるとはどういう意味だね?」私は尋ねた。
「そのままだよ。どうせエルメダとネリーが阻止してくるんだろうなぁ、あいつらも変な義理もっちゃって。あーあ、面倒くさい。苛々する。そういえばエルマーの家に来てた料理女、腹が膨らんでたな。ちょうどいい、あいつ殺そう。そしたら二人分は楽しめる」
ケラケラと笑い、絶え間なく続くウィリアムのお喋りに興味は無かった。価値のない人間など掃いて捨てる程いる。それらが一人や二人消えたとしても、大国という枝や幹が直接傷つく訳ではない。私の正義にとって何の関係も無いことだ。
「程々にしろ。女子供とて、労働力だ。あまり間引きすぎると支障をきたす……おや、イゾルデか」
にゃあと微かな鳴き声が聞こえる。私はこの上なく幸せな笑みを形作ると、新たな来訪者に手を差し伸べた。
何にせよ、今回の依頼は成功だ。
私はキャロライン・エルマーから「夫ジェラルドエルマー殺害」を打診され、ウィリアムを紹介した。
その後で「別の依頼人」から受けていた「キャロライン・エルマーの殺害」をウィリアムに実行させただけである。もっとも、我慢できなくなった依頼人本人が直接手を下したらしいが、どうでも良い事だ。
「私が殺人鬼の派遣業をしているなどと聞いたら、君は驚くだろうな。探偵」
静かに笑みを浮かべ、膝の上の猫を撫でた。
【レイヴン】
「それでは、手伝いをありがとう。シスター・ナンシー。クロード牧師によろしくお伝えください。それから、シスター・ケイトリンにも」
「それでは失礼致します。御機嫌よう、マザー。御機嫌よう、探偵。良き一日を」
そう言って去って行った彼女は、今まで見た事が無いほど美しく、まるで感情を感じさせない氷人形のように冷たい女性だった。
「本当に美しい人でしたね。整い過ぎてて恐ろしいくらいだ」
「あら、レイヴンともあろう人が珍しい。もしかして彼女に惚れました?」
まさか、と私は慌てて否定する。
「今日は本当に助かりましたわ」
おっとりとした微笑みを浮かべ、彼女は私の手をとった。先程まで車椅子に乗っていたとは思えぬほど、彼女の足取りはしっかりとしていた。
「屋敷の外を見張っていてくれと頼まれた時には何事かと思いましたけれど、正解でしたね。殺人が起こると知っていたのですか?」
ふふ、と彼女は皺の中に神秘的な笑みを刻み込んだままだった。
「それで、貴方が探していらしたのは彼なのでしょう?」
彼女はあえて話題を反らし、この件は終わりだと警鐘を鳴らした。反論するなどと言う無様な真似はせず、私はごく自然な流れで感謝の言葉を口にする。
「はい。どれもリンドブルームの書いていた特徴に一致しますから、間違いないでしょう。やはり貴女に訊ねて良かった、マザー・エルンコット」
夜からの出来事は思い出すだけで頭が痛くなる。ああいった無能で幸せな輩は、私が一番嫌いとする類の人間だ。
「一晩中、笛の音が聞こえただなんて、一晩中警察に追いかけられていましたと言っているようなものなのにね。私はあの子の事が好きだけれど」
「私はバカが嫌いです」
彼女の好きは「操りやすいか、否か」だ。あの無能さ具合は腹ただしいが、彼女に気に入られたという一点においてだけ、かのバカに同情をよせてやろうと云う気にもなる。始終あの調子なら、例え利用されていたとしても気づかないだろうが。
「あら、私はてっきり別の理由で彼を嫌っていると思ったのだけれど」
「何のことでしょう」
即座に切り返した私に、マザーは目を細めた。
「リチャード・ライン」
告げられた名前に私は今度こそ眉をしかめた。
「あの子は見ていて面白いわ。少し危なっかしいけれど」
「まるであれが本物のライン卿であったかのような口ぶりですね」
「貴方は違うと思っているのかしら」
「あれは偽物ですよ。間違いありません。それでは、友人に報告して参りますので。失礼」
ロンドンの街には蜘蛛が一匹住んでいる。
蜘蛛の巣のように至る所に網を張り、器用に手繰り、神の奇跡のように神託を続ける蜘蛛の事を、ある者は聖女とあがめ、ある者は毒婦と呼んだ。
彼女は善でも悪でも無い。中立であり、それ故に不可侵の存在であり領域。
託宣者であり稀代の情報屋、マザー・エルンコットは修道院の前で静かに微笑んでいた。
私はライン卿のことをよく知っている。
いや、本当は知らないのかもしれない。
知ろうとも思わない。
私の母を殺した者の事など。
【マザー・エルンコット】
「うふふふ、面白くなってきたわねぇ」
「そうでしょうか」
レイヴンが立ち去った後のマザー・エルンコットに声をかける人物がいた。
「あら、アンナ。帰っていなかったのね」
それは先ほど立ち去ったはずのシスター・ナンシーであった。
「その辺を一周回って帰ってきたんですよ、母さん」
「あら、あらあら! まぁまぁ!」
マザーの顔に喜色が浮かぶ。
「……二人きりの時なら。別に、そう呼んだって、構わないじゃないですか」
「そうね。本当はもっと呼んでもらいたいのだけれど」
「祖母と孫。それくらい年が離れすぎているのに、と。下手に勘繰られるのは拙いです」
「ええ、分かっているわ。気付かれてしまう。それでもね、それでも、やっぱり嬉しいじゃない」
老婆と女性。二人は語る。
「あの子の事は、どう思う?」
「惜しい、です。見かけはともかく、まだ中身が伴っていません」
「そうね」
「でも、惜しい」
ナンシーの瞳に、光が灯る。それを見ていたマザーは静かに目を伏せる。
「アンナ、もう少ししたらお父さんを迎えに行くわ」
「……そうですか」
「クロード牧師によろしくね」
「はい」
母娘がそれ以上言葉を交わす事は無かった。
【アビゲイル・アシュバートン】
「やーっと終わったわねー! バグショーも面白い手駒を持ってると分かった事だし重畳重畳。これでロンドンでの阿片販路がアシュバートン家のものになったことだし、秘密会員倶楽部も育つわね。次は何をしようかしら。見目が良い孤児でも集めて社交クラブを作ろうかな。意外と需要がありそうなのよね」
馬車の中でのびのびと体を伸ばすアビゲイルは、先程までの淑女らしさを靴と共に脱ぎ捨てた。
「ミランダも長年潜入お疲れ様。それで阿片の入ったスーツケースはちゃんと例の二人組に渡せたんでしょうね?」
「はい、夜が明ける前に屋敷の外で渡す事ができました。運び屋の二人が夕方、廃倉庫に持ってくる手筈となっております」
そう言って目を伏せるのはエルマー家のメイド、ミランダだ。
「うん、良かった! 運び屋はそこで口封じしましょう。そうすれば問題ないわ。テムズ河も近いし、死体の処理も今回は楽ね。それにしても」
手を鳴らし無邪気に笑っていたアビゲイルが突然顔を曇らせた。
「肩透かしだわぁ。有名な探偵だと言うからスッゴク期待していたんだけど、実際会ったら大したこと無いし。顔はいいけど、貴族はまだ腰抜けだし。あれならウチのお父様の方がまだマシよ。家出は中止かな」
アビゲイルは髪を纏める髪飾りに手を伸ばす。銀の装飾が引き抜かれ、長い金糸がうねりながらコンパートメントに広がった。簪状の長い針の先端にはべったりと赤黒い染みが纏わりついている。それこそ、キャロライン・エルマーの命を奪った犯人だった。
「困ります。キャロライン様には毒で死んで頂く予定でしたのに」
「だって、一度やってみたいじゃない。親族殺しなんて」
「刺し傷を誤魔化し、血の付いたお嬢様の洋服を処分させるため、シャーロットに要らぬ手間を取らせました」
「いいじゃない。おかげで楽しくなったと思わない? 見立て殺人っていうの、やってみたかったのよ」
流れていく街並みを見ながら、アビゲイルは上機嫌で口笛を吹いていた。
(スーツケースとは、イケメンとは。お嬢様は一体何の事を言っているのでしょう……)
昨夜から様子の変わったアビゲイルを前に、ミランダは困惑した眼差しを送っていた。




