035 冤罪
いざと言うときは大脱走しよう。
こんなこともあろうかとバイクの免許を取っている。
問題は、今がバイクの無い1855年前後のイギリスである点だ。
サスペンス映画で犯人が壁を爆発させて脱獄するシーンは多くない。大抵は頭脳戦で切り抜けるから。
だけど僕はリチャード。燃える屋敷の中で死んだ犯人。爆発まではやらかしていいんじゃない?
それから今の僕には最終兵器、馬車と無断お邪魔しますに長けた味方がついている。権力と金もあるし、正義をねじ伏せてみるのも悪くはないんじゃない?
「リチャード様!」
「坊ちゃん! 怪我してるんです?」
慌てた顔のエルメダさんとカイルが階段の下に現れる。華やかで見慣れた顔の登場に、肩の力が抜けた。二人を見て、僕を抱えていた警察官の一人がぎょっとしたように立ち止まる。
「僕は元気です、ありがとう。ふたりは元気ですか」
「お世辞にも気分が良いとは言えませんわね」
「びっくりしてる!」
僕も起きたら犯人扱いされてビックリです。エルマー夫妻がどうなったのか聞こうとすると、初めて腕を掴んでいた警察官が口を開いた。
「そこを退いて頂けますか」
驚きのあまり彼を見つめる。エルメダさん達を見て立ち止まった警官だ。彼は僕を一切見ていない。
見知った顔ではない。それでも、尖った頬骨や特徴的な耳の形を、僕が見間違えるはずがない。
神妙な顔を取り繕えているだろうか。ニヤッとかニタッとか笑っていないだろうか。笑ったらまずいと分かってはいるものの、我慢できそうもない。
役者は揃っている。
ならば僕がやるべきことは何も無い。
必死に我慢している間に、一階廊下奥の図書室に放り込まれた。
図書室と名前が付いているだけあって、素晴らしい蔵書量の部屋だ。
壁と同じ高さの書棚には臙脂の背表紙が規則正しく並び、天井にはフレスコ画と思わしき宗教画が細部に渡って描かれている。
部屋に負けず劣らず豪奢な書斎机の前で、バグショー署長は立ち止まった。
キャラメルカプチーノ色した年輪。滑らかな木目には切れ目が見えず、巨大な一本の樹木から生み出されたと物語っていた。側面には片手に剣を掲げた天使が彫られている。モン・サンミシェルやジャンヌ・ダルクで有名な大天使ミカエル、彼は欧州で最も有名な芸術的モチーフの一つだろう。
英国では聖ジョージに人気で負けるけれど、教会は勿論、菓子屋や軍人の守護聖人としてあちこちで見かける。
バグショー署長は机に備え付けられた椅子に座った。僕は近くにあった肘掛椅子に肩を押されて強制着席させられた。
連行してきた、もう一人の若い警官の顔を初めて見ることができた。こちらも見覚えのある顔だ。しかしどこで見たのか思い出せない。喉元まで出てきているのだけれど。ヒント、ヒント下さい。
「いつまでそこにいる」
威圧感を含んだバグショー署長が鋭く言った。
「お言葉でございますが」
凛とした声に振り返ると、図書室の扉の前にはエルメダさんとカイルが立っていた。エルメダさんは無表情で、カイルは今にもブーイングを始めそうな表情で。
エルメダさんが更に口を挟もうとしたけれど、僕が高速で首を横に振っているのを見て唇を引き結んだ。
「リチャード様」
エルメダさんは思いつめた顔をしていた。
「何があろうとも、私は貴方を見捨てません」
ありがとう、冤罪だから平気だよ。
「坊ちゃん」
泣きそうな顔のカイルがエルメダさんに寄り添った。
「カイルも待っています。だからお給料を、よろしくおねがいします」
ありがとう。二人とも僕が犯人だと思っている言動に聞こえるけれど、ありがとう。




