034 逮捕
ジェラルド・エルマーにリチャード・ラインの殺害を依頼された時は耳を疑った。
コーヒーに入れるようにと手渡された毒。
ジェラルド・エルマーの殺害にはその毒を使うことにした。
自業自得だ。
まさかジェラルド自身も、今夜、妻に殺されるとは思っていなかったのだろう。
リチャード・ラインのコーヒーに入れていたのは、ただのブランデーだ。
まさか、本当にそれだけで倒れるとは思ってもいなかったのだが、良い目くらましにはなった。
良い情報をペラペラ父親に喋ってくれたコートニー・バグショーには感謝の言葉もない。もっともあの青年は、助けた相手がライン卿本人だとは思いもしていないだろうが。
マーシュホース商会は岐路に立っている。
繁栄か、衰退か。
今夜は古きを捨て、新しき支配者を認めるための儀式だった。
そして、儀式は成功した。
マーシュホース商会首長、キャロライン・エルマー。
彼女こそ、阿片を流通させ、人を動かし、水の流れにのって胞子を運ぶ土筆のように広がり続けるマーシュホース商会の裏の顔だった。
腹を裂かれ絶命したキャロライン・エルマーの死体を蹴飛ばす。彼女は目を見開き、驚きの表情のまま手足を投げ出していた。
他人を殺す指示をしておいて、自分は死ぬことはないと思っていた滑稽な姿に笑いがこぼれる。
新しいマーシュホース商会の首長の依頼は「キャロライン・エルマーを殺せ」
「正体を知られた黒幕なんて、もういらないでしょう」
まったくもってその通りだと喉の奥で笑う。
戻る前にいいことを思いついた。
そうだ、あのバカに悪戯をしてやろう。
ドンドンドン、ドンドンドン。
「……入ってまーす」
扉を叩く音で目を覚ました。
少しでも気を抜けば二度寝しそうな倦怠感。意識はまだ夢の中。そんな目覚めだった。窓際のカーテンが膨らみ、曇った朝焼け空が顔を出す。冷たい空気が頬を洗った。
「姉ちゃん、いま何時だと思ってるのさー」
僕の都合などお構いなしにやってくるのは姉しかいない。
また終電を逃したのだろうか。それとも、仕事終わりか。
どちらにせよ、便利宿扱いは止めてほしいと再三言っている此方の願いは聞き届けられないようだ。しぶしぶベッドから身体を起こす。
「分かったよ、今開けまーす」
ゾンビのような足取りで扉まで辿りつくと、鍵を回した。寝間着の肌触りがいつもより悪い気がしたけれど、あとで洗濯しようとしか考えていなかった。
「あのね、近所迷惑だからさ。もう少し静かに」
「キャアアーー!」
僕の台詞を遮ったのは悲鳴だった。驚きのあまり目がぱっちりと覚める。
視線を下げれば本場のメイドがいた。琥珀色の淡い色素の目は滅多に日本じゃお目にかかれない。まだ幼さを残した風貌に、ふわふわとした茶色の前髪がかかっている。やっぱり、どこかで見たような顔だ。
彼女は幽霊でも見たように引きつった顔をしていた。
「君、その格好は」
声のする方向へ顔を向けると、ミステリアス・トリニティでお馴染みのアルバート・バグショー署長が呆然と立っていた。
夢かな。
試しに頬をつねってみる。
「ライン卿」
そんな事をしている間に、バグショー署長が僕の左手を掴み後ろに捻りあげた。背中を押され、床に膝をつく。背中に回された手が痺れ、その拍子に手に持っていた何かが床に落ちた。
皮むき用の鋭利なペティナイフが、赤い筋を塗りたくりながら廊下を転がっていく。今まで僕が大切に握っていたものらしい。
ようやく嗅覚も目を覚ました。どこもかしこも鉄の匂いで溢れている。その元凶がゼロ距離にあった。
「ホワッツ!?」
一度あることは二度ある。二度あることは、三度ないことを願う。
顔を触ればぬるりと滑る。両手を見下ろせば、赤に塗れている。
寝間着は着心地が悪いのではなく、布地が血を吸い固まっていた。
血に塗れているリチャードの姿は正しい。しかし、今は正しかったら困る。
何が起こったのか、理解できなかった。
例えばプロムで豚の血でも浴びせられたとか。
例えば意識が無い内に誰かを殺してしまったとか。
浮かび上がる「もしも」は多重人格殺人犯のボディを借りている身の上として、笑えないものばかりだった。
一人の警官が床に落ちたナイフを拾い上げた。彼は、悍ましい化け物を見るような顔で僕を見下ろしている。
「リチャード・トマス・ライン卿。ジェラルド・エルマー、及びキャロライン・エルマー殺害容疑で逮捕する」
「ホワッツ!?」
言われた内容を吟味する間もなく二人の警察官が両脇をしっかりと抱える。彼らの手によって部屋の外へと引きずり出されるまで、一秒にも満たなかっただろう。あっと言う間の出来事だった。
「あの、説明、せめて」
「エルマー夫人の遺体が発見された」
「まじで!?」
声を荒げたバグショー署長に、そう言うのが精いっぱいだ。
普段の僕ならば多少は余裕のある反応ができただろう。しかし、いまは猛スピードで状況に流されることしかできない。
徐々に記憶が戻ってくる。この流れ、僕が起きるたびに繰り返されるのかな?
とにかく僕が覚えているのはジェラルドさんが死にかけていたところまで。その後の記憶は無い。
そして起きたらキャロラインさんも死んでいて僕が容疑者になっている。
まったく安心できない状況だけど、少しだけ安心した。
何故ならバグショー署長に逮捕されたから。
このうっかり刑事に逮捕されたという事は真犯人じゃない。ミステリアス・トリニティで真犯人を捕まえるのはいつだって探偵だ。
これは、二転くらい話が転がったあとに探偵が登場して最重要容疑者の無実が証明されるパターンだと思われる。少なくともドラマならこれが典型的なパターン。
僕は全身血塗れ。そして凶器と思わしきナイフを手にしている。
直前までの記憶がまったくなくアリバイはなし。
おまけに、本体は記憶が無い内に子供を大量に殺して発狂する多重人格者。
犯人ではないとは思いたいけど、トリックが暴かれて開放された最初の容疑者が実は真犯人だったというオチもよく知っているだけに油断はできない。
幸いなことに、ここには主人公組の片割れ、シスター・ナンシーがいる。
探偵が来なくても、彼女が僕の無実を証明して真犯人を見つけ出してくれるかもしれない。少なくともリチャードが殺人鬼としての本性で暴れたとしても物理的攻撃力で封じ込めてくれるはずだ。
……その場合、僕もしんじゃうなぁ。やだなぁ。
刺さる程の視線を浴びながら警官に引きずられていく。途中、ドアの前に立っていた幼いメイドと目が合った。彼女は口元を押さえて震えている。恐怖に満ちているはずなのに、どうしてか僕には彼女の隠れた口元が笑っているように思えて仕方なかった。
推理マニアの直感を舐めたらいけない。僕はこれでも監督と脚本家さえわかれば、あとはキャスティングで犯人当てるメンバーの末席に座っている。絶対にこの子、何かある。
「ミス・アビゲイル。鍵が有り、取り調べが出来る部屋を用意してもらいたい」
バグショー署長は高圧的な声を出した。彼が場を仕切りたがっているのは明白だった。
「一階の図書室を使うと良いでしょう。ミランダ、鍵を」
エルマー夫婦の死亡に伴って、館の所有権と使用人の命令権はキャロライン夫人の血縁であるアビゲイルに移行していた。この中でエルマー家と血縁関係があるのはアビゲイルだけなので当然彼女が当主代理として指示を出すことになる。
アビゲイルは気丈に振る舞っていたが、目が真っ赤だ。昨晩と違って、動きやすい地味な茶色のドレスを着ていた。乱れなく纏めていた髪の毛も、あちこちがほつれている。




