003 教会
ハッと目が覚めた。
目が覚めたという言い方はおかしいかもしれない。
眠ったという実感がなかったのだから。
意識が戻ったきっかけは音だ。
足元に何かが落ちた音。
咄嗟に思い浮かんだのは「老朽化したパレス座の椅子のネジが落ちた?」ということ。あの古い椅子のバネとクッションはそろそろ限界にきていたし、折り畳むたびに軋んだ音がした。
え、椅子壊した!? そう思った瞬間、しゃっきりと目が覚めた。えー、やだー、開始5秒で寝るとかミス・トリファン失格だ僕ァー!
『なぜ、ここに?』
そして、間近で緑の宝石を見た。
驚きに見開かれた瞳は、本当に美しかった。
後ずさった拍子に床に落ちていた何かを蹴飛ばす。それは狭い劇場内にしてはやけに反響しながら転がった。
反響音?
恐る恐る足元を見る。ひんやりとした石畳。濡れた靴。黒いコート。ちょっと離れた所にナイフ。
そもそも僕、いつの間に立ち上がったのかな?
オレンジ色の蝋燭の炎。冷たい石灰の床。高い高い天井に薔薇窓。何本も立ち並ぶ円柱。それから。
「――ライン卿?」
目の前に立っている修道女はそう口にした。
映画通りの顔と声で、映画にはない台詞を言ったのだ。
それに対する答えはない。映画通りなら、そのセリフの前に彼女は殺されてしまうはずだから。
しかし彼女は死んでいない。恐れを抱いた目で僕をじっと見上げている。
ここにきて、僕は彼女の瞳の中に見覚えのある人物をみつけた。
頬をさわると、その人物も自分の頬に触れる。
"Where am I, Who am I ?"
【ここは何処、僕は誰?】
人生で一度は言ってみたかった台詞は、人世の中でも一番信じられない状況で正しく使われた。
▽
昔話である。どれくらい昔かと言えば、ざっと二十年ほど昔の話である。
僕が初めてミステリアス・トリニティの映画『七つのなぞなぞ』を見たときのこと。
隣で胡坐をかいていた姉ちゃんが、とある登場人物をゆびさした。
「こいつ、あんたそっくりだわ」
「え、そうかなー?」
名前はリチャード。レイヴンに助けられたのをきっかけに、事務所に秘書見習いとして押しかけて来た眼鏡の青年だ。
助手として働く彼は、書類を落としたり、死体を見て吐いたり、空気を読まなかったり、お世辞にも有能な秘書ではなかった。でも彼は凄惨な悲劇の中、笑いを提供してくれた。
シリアスの中、無能だけど貴重なムードメイカー。それがリチャードだった。
だから正直、僕は姉ちゃんに「リチャードに似ている」と言われた時、嬉しかった。
空気を読まないところや間が抜けたところが似ているのだと揶揄されたのだとしても、それはそれで場が明るくなるから良いじゃないか。
だから楽しんで受け入れた。
ナンシー側の助手ポジション、美人警察官のジャクリーン巡査に泣きつくとか。ナンシーに買い食いを注意されて、喉につまらせるとか。失言してレイヴンに蹴られるだとか。
"The Teller(語り手)"と呼ばれる殺人犯が引き起こす凄惨な殺人事件の中で、彼が出ている部分だけは明るかった。夢中になって見ていた。
犯人は世間から引きこもって姿を見せない狂人の伯爵で、どうやら父親が生粋のサイコパスだと分かった辺りで、姉ちゃんが僕から視線を外した。
「……強く生きろ?」
なぜ姉ちゃんがそんな事を言うのか。僕には分からなかった。
犯人は彼だった。
本名はリチャード・トマス・ライン伯爵、二重人格の知能犯。
間抜けは作り物で、眼鏡を外したら美形だった。
属性盛り過ぎだと思う。
そんなわけで、僕はあらゆる意味で、完全に、彼に裏切られた。
「君のことは友人だと思っていた。残念だ」
「僕もさ。本当に、残念だよ」
その会話を最期に探偵レイヴンの手によって“The Teller”ことリチャード・T・ライン伯爵は射殺され、物語は幕を閉じる。
この時のリチャードは殺人者ではなく本来の鈍感で純粋なリチャードの人格であったと信じている。友人というのは、リチャードにとって家族を意味する言葉だったから。それをあえて使ったラストシーンは涙無しには見られない。なお、姉ちゃんからは「このグロイシーンで号泣するのはあんただけ」と太鼓判を押されている。
「まぁ、フィクションだし。気にしない方がいいって」
姉ちゃんが僕に気を遣うなんていう大事件が目の前で起こっているにも関わらず、僕は打ちのめされていた。
だって僕は、まだリチャードの事が気に入っていた。
犯人だし。子供や女性を惨殺してたし。何より裏切られた。
でも、本気でリチャードを嫌いになれない自分がいた。
それは最後に見せた主演の素晴らしい演技のお蔭だったのかもしれないし、彼の背後にある悲しいストーリーのせいだったのかもしれない。
この辺りから、僕は、自分の嗜好と思考を疑うようになっていった。
悪人を、しかも殺人犯を嫌いになれないなんて、そんな馬鹿な。
小学校低学年にして、自分が許されない感覚の持ち主なのではないかと悩みぬくようになった。
ミステリアス・トリニティの原作を一巻から読んだし、七つのなぞなぞもビデオで借りて見たし、次の公開日が待ちきれなくなっていた。
そして、長い事悩みぬいても、やっぱりどうしても。リチャードを嫌いになる事はできなかった。
こうして、日本に一人の、立派なThe Tellerファンが生まれた。
それが二十年経つとどうなるかって?
うん、立派にこじらせた。
△
そんなわけで、僕の顔が殺人犯リチャードになっている現実を受け止めきれず、ちょっと思考がトリップしてしまった。
なお、僕とリチャードの造形はまったく似ていない。
典型的な日本人サラリーマンとハリウッド俳優が似ている訳がない。
おそらくぼーっとした雰囲気や眼鏡をかけていること。さらにはだらしない髪型が(どうしてか)僕と似たように見えるだけ。いわば、僕とリチャードは雰囲気が似ているだけなのだ。
しかし今や僕とリチャードは瓜二つ。僕が動けばリチャードも動く。なぜ、と思うより認めよう。
僕、リチャードになってるね!!
夢か、妄想か、寝落ちか。
そのどれでもなければ、念願の「映画の中に入り込む」という離れわざをやってのけたに違いない。魔法のチケットも無いのに映画の中に入り込んでしまうとは。
リチャードが犯人だとネタバレした訳なのだが、もう一つ、重大なネタバレがある。
リチャードは多重人格者だ。
殺人を犯していたのは「父親」というリチャードの実の父親をベースに作られた人格だ。
リチャードの父親は息子リチャードの精神を殺して、そこに自分の人格を移植することによって疑似的な不老不死を実現しようとしていた。
目の前にいるシスター・ケイトリン・アシュバートンは、リチャードの父親の被害者であり、唯一の生存者。
夫と妹は逃げきれなかったが、ケイトリンだけはトマスの元から逃げだすことに成功した。
原作によると彼女の生まれたばかりの赤ん坊は夫の形見であるスミレのペンダントを託されて聖マリア孤児院の前に置かれたそうだけど、その後の記述がないので赤ん坊がどうなったのかは僕にも分からない。
父親が死んで平穏な生活を送り始めたシスター・ケイトリンの元に成長したトマスの息子が現れ、殺される。それが映画版ミステリアス・トリニティ第一作「七つのなぞなぞ」の冒頭。そして今、一作目のネタバレが20秒で終わった
これが「七つのなぞなぞ」のオープニングシーンなのは疑いようもない。何百……いや、何十回も見たのだから間違えるはずもない。
今、リチャードはケイトリンを殺そうとして……状況的に恐らく失敗したのだ。やったね!!
これ、ミス・トリを見た人なら一度は考えるハッピールートだよね。
僕も喜びたい。
ただ。目の前にいるシスター・ケイトリンってば「お前を殺して私も死ぬ」っていう、覚悟を決めた顔をしているんだ。
分かるよ。そりゃあね。夫と妹の仇と同じ顔した人が夜中にやって来て、ナイフ取り落したら、そりゃあ殺人鬼と誤解するよね。誤解というか正解なんだけど。
シスターは床に落ちたナイフと僕の顔を交互に睨みつけている。そのためか、「わー、シスターってば死に場所決めた人みたいな顔してるー」とお茶目な死の予感をひしひし感じてしまった。
僕はシスターを刺激しないように、ゆっくりと教会の入り口を指さした。
「かえって、いい?」
答える代わりにシスター・ケイトリンが落ちたナイフに向かって手を伸ばした。
一方の僕は、踵を返すと一目散に教会の身廊を走った。
僕の大好きなミステリアス・トリニティ。主人公以外はみな死ぬのが基本。
しかし、しかしである。
まだ、まだ死ねない!!
せっかくミス・トリの世界に夢だか何だかしらないけどやって来たのだ。
満喫するまで死ぬわけにはいかない。
そもそも、元犯人たるもの、やすやすと死ぬことは許されない。
こんな序盤で死ぬなんて、それはただの被害者。言い換えるなら、やられ役、一般人、通行人と同じ扱い。
よろしくない。それはよろしくない。仮にも今の僕は第一作目の犯人、TheTellerの看板を背負っている。
実は知的で運動能力の高い金持ち変態イケメン貴族二重人格の看板だ。
看板下ろしていいですか?
とにかく只でさえ「ミス・トリ犯人貧弱の男」「幽霊より影が薄い」「不人気投票堂々の第一位」「マイナーすぎてグッズが出ない」と言われているのだ。
そこに「開始三分で死亡」「シスター以下の攻撃力」という汚名を着せられるなど、数少ないThe Tellerのファンとして、断固として認められない。今現在、彼の不名誉な称号を回避できるのは自分だけなのだ。
扉は閉まっていた。立派な飾りがあるせいか、カンヌキがかけられていたせいか、僕は「開かない扉をガチャガチャ引く」というホラーでやってはいけないシリーズベスト10をやってしまった。
ここで「くそっ、開かない!」と口走った場合、死亡率は一気にはねあがる。しかし、時として。男には命をかけても言わねばならぬ台詞がある。
「くそっ、開かない!」
死ぬまでにやっておきたいリストの内、一つを埋めながらカンヌキを引き抜き扉を押し開ける。冷たい雨の空気がいっきに教会へと流れこんだ。
外へと続く階段には蝋燭に照らされた二つの影が並んでいる。
――迷うな、動け。立ち止まれば死ぬぞ。
「っ」
翳した掌の上を冷たい一筋の線が撫でていった。熱い。石段から飛び降りる浮遊感。足裏が痺れている。ばしゃばしゃと全身を雨に叩きつけながら、ショーシャンクの空を幻視して両手を広げた。
「ひゃっほー!」
拝啓、西山さん。
僕はミステリアス・トリニティの世界にいます。
魔法のチケットも使わずに。
魂の叫びは誰にも聞かれず、雨に溶け、消えた。