026 深夜
「普段はオブライエン様が代わりに出ていらっしゃいますが、いつかはリチャード様ご自身が外に出られるようにせねばなりません」
ネリーさんの話を要約すれば、そういうことだ。
今まで外に出られなかったリチャードが記憶を失った事でホイホイ出歩けるようになった。
なら、今の内に外を歩いて、外への忌避感を薄れさせよう。
タイミングよく、明日は晩餐会に招待されている。ごくごく少人数で行われる小さな晩餐だ。全員が初対面。慣れるには丁度良い舞台になるだろう。
晩餐も終わり、歯磨きも終わり。
皆と別れて一人、広い寝台の中央に座している。
自室は封印……もとい、今日は客間に泊まりたいと駄々をこねて、部屋を用意してもらった。
寝ている間にネズミが地下から出てきたらどうしようと気が気でなかったので、大変ありがたい申し出だ。けして例の人形たちに尻尾まいて逃げ出したのではない。
じりじりと燭台の芯が燃える音が聞こえる。
黒幕の晩餐会に招かれてしまった。
いきなりラスボスと会えるなんてラッキーを通り越して、作為的なものすら感じる。
思ったよりも緊張はしていない。
何故なら、本当の黒幕がそう簡単に出てくるはずないと分かっているから。
どうせ表に出てくるのは会長ジェラルド・エルマーを名乗る影武者とか、僕みたいに用意した身代わり君なんだろう。
それでも、憧れの黒幕に一歩近づけるのだ。これが興奮せずにいられようか。
その上、リチャードが屋敷から出られないなんて爆弾発言を聞いてしまったら興奮で眠れそうもない。
「七つのなぞなぞ」では、リチャード、ホイホイと外を歩いていたのに。
無情にもカットされた本編前の行間部分に色々あったらしい。
映画でも原作でも「リチャードが外に出られなかった」なんて話を、聞いた事が無い。
そこのところを詳しく知りたかったが、お茶を淹れてくれたエルメダさんには苦笑いでお茶を濁された。お茶だけに。あ、面白い。って、そうじゃないんだ。そういった細かいギャグを探している場合じゃないんだ。重要な事なんだ。
部屋で見つけた赤い表紙の手帳とリチャードからの手紙は持って来ている。
しかし、一つ問題があった。
それは全文が読めないということ。
言い換えれば、僕が、むずかしい英語を読めないのだ。
1855年といえば日本は安政。日露和親条約がオランダ語で締結された年。
つまり……日英辞典などというものが英国に存在するはずもない。
読めない単語で辞書を引いても更に読めない単語が増えるだけ。
そう、普通ならスラスラ読めるであろう英文も、僕の視点から見れば暗号も同然!!
こんなことなら時代劇を見て、本気で中期や近代英語を学んでおくべきだった。
リチャードの手紙は易しい英語で書いてあったから大体読めた。
問題なのは地下牢で見つけた、この赤い表紙の手帳だ。
文字がぎっしり。だが読めぬ。
餌を前にして、何というおあずけ。
インクが水を含んで滲んでいたり、文字が汚いことを差し引いても、分からない単語が多すぎる。
これ、アルファベットで書かれているけれど英語じゃない。
フランス語でもないし、ドイツ語でもない。
判別できたのは『アーサー』『ジャック』、『トマス』『リチャード』という名詞。
読み進めていくと、よく登場する名前がいくつかあった。
ハムレット、メアリー、シャーロット、ウィリアム、ヴィクトリア、ケイトリン、メイベル。
とりあえず最後までめくってから、手帳の横にリチャードの手紙を並べた。
まずトマスはトマス・ライン卿の事だろう。
それからハムレットは、恐らくネリーさん。
彼以外にそんなけったいな名前の人がいるとは考えづらい。
英語ではなく外国語で書かれているということは、この手帳、一見してインド系と分かるネリーさんなら読めるかもしれない。デクワンさんは来てから日が浅いと言っていたから関係ないだろう。
ケイトリンとメイベルの名前があるってことは、この手帳は二人がまだ女中として働いていた……生きていた十五年以上前に書かれたものだ。
リチャードが母親の名前としてあげているオフィーリアさんは手帳の中にそれらしい名前がない。
てっきりリチャードの母親は前ライン卿の妻であるメアリー・ラインだと思っていた。
メアリーさんの旧姓はハートフォード。
原作では一切言及がなかったけれど、ハートフォード家の人だ。養子であるジェイコブ先生とジャクリーン巡査部長にとっては義理の叔母さんにあたる。
そういえばジェイコブ先生とジャクリーン巡査部長は、今となっては仮となってしまったリチャードママと面識があるのかな。
メアリーさんが亡くなった時、リチャードはまだ幼かった。なら死んだ当時、先生と巡査部長の年齢は十五歳前後。葬式の様子を覚えているかもしれない。原作では死因がどこにも書いてなかったんだけど、もしかしたら覚えているかもしれない。
気を取り直して、もう一度手紙を読みなおす。
わざわざ「同じ父」と「同じ母」と分けて書いてあるのが気になった。
普通は、両親と書くはず。
ここから考えられる仮説は「トマスは妻メアリーとは別にオフィーリアという女性を囲い、リチャードを生ませた」ということ。
私生児ってことですか? しかも父親が違う姉二人って、あきらかにオフィーリアさん別の人と結婚していましたよね。
実にただれておる。ミステリーはこうでなくては。
リチャードと「同じ母」から生まれた義理の姉、ヴィクトリアとシャーロット。
父親は前ライン卿ではないけれど、一応はリチャードのお姉さん。
「父」と「母」についてわざわざ分けて書いたのは、そこを強調したかったのではないだろうか。
此処で気になるのはヴィクトリアとシャーロット、オフィーリアは、今どこにいるのだろうってことだ。
前ライン卿がこの三人を放っておくとは思えない。
オフィーリアにリチャードを生ませることが目的だったとすれば、用が済んだらオフィーリアさんはどうなるか。
此処が推理サスペンスの世界で、なおかつ過去話であるならば亡くなられている可能性が高い。でもヴィクトリアさんとシャーロットさんは生きてるパターンに一票。此処に希望はある。
過去編の話を聞く、希望が。
家族と言えば「同じ父の種から生まれた二人の兄弟」も気になる。
ジャックとアーサー。こっちは義理のお兄さんになるのか。
同じ名前は手帳にも存在している。
リチャードは父親の次の身体として作られ、父親は優秀と言われる兄二人を消してまで、リチャードを当主に据えちゃった。
けれど、手紙を信じればリチャードの兄ジャックとアーサーはどこかで生きていて、それをリチャードは知っている。
いやぁ~、リチャードの実父さんは三度くらい滅びればいいと思うね!
手帳の方にフィーリアの名前は手帳にない。
他の名前は一致しているから……単純に考えれば、この手帳はオフィーリアさんの持ち物なのかもしれない。
ところで「ブラザー」や「シスター」をごくごく自然に兄や姉と翻訳したわけだけど。
妹弟っていう可能性もあるのに、微塵もそれを考えないのはリチャードの本能なのだろうか。
どうやら「何の気なし」にやる事には、リチャードの考え方や癖が反映されるらしい。
とにかく。今日はここまで。
五個並べてある枕の内、四つをベッドの隅に置く。枕は一つで十分だ。その下に赤い手帳とリチャードの手紙を入れた。夢の中で持ち主が出てきてくれたらなぁと願うけれど、そう上手くはいかないだろう。
明日の午前中は晩餐会に向けての特訓が行われる。特訓といっても、ナイフとフォークの知識や、同席者の情報といった基本的な内容だ。僕にとってはちっとも基本的じゃない。基本的に死に物狂いだ。
明日の晩餐会で合格をもらえれば、今後、他のパーティや晩餐会に行くことが出来る。
今後、被害者たち、そして主人公たちと出逢う機会を増やすためにも負けられない。
ふふふ、我ながら完璧すぎる計画。
その前に死なないように気をつけないと。
そういえばスーさんやテイラーさん、それに船長は今頃なにしてるかな。
シスター・ケイトリンはリチャードの抹殺を諦めてくれただろうか。
それから「ユニコーンと盾」で見かけた娘さん。
彼女がシスター・ケイトリンの実の娘だとしても、今の家族から離れる気はなさそうだった。
アンデル監督からの手紙。僕と同じように、この世界に来ている人がいる。
しかし、どうやって僕がリチャードではないと見破ったのだろうか。
もしかして、今日までに出会った人の中に手紙の差出人がいたのだろうか?
気持ち悪いジェイコブ先生の態度。
部屋に繋がっていた不気味な地下室。
リチャードから残されていた手紙。
人形だらけの部屋。
赤い革の帳簿。
赤い表紙の手帳。
赤い柄のナイフ。
赤い壁紙。
赤多いな……
「ぐぅ」
疲れていたのか。夢路へ旅立つのはあっという間だった。




