002 開演
【七つのなぞなぞ】
有名な貴族議員から、家出した娘を探してほしいという依頼を受けた探偵レイヴンは渋々ながらも調査を開始する。その頃、教会のシスター・ナンシーもまた、孤児院の子供が次々と消えている事件について幼馴染のジャクリーンから相談を受けていた。独自に調査を進める二人だったが、家出少女と孤児の失踪事件には密接な関係があり、過去に起こった修道女殺害事件をきっかけに次第に二人の事件は交差していく
(持寄新聞、水曜シネマナイト本日の映画紹介欄より抜粋)
のど飴の袋をカバンに入れて、冷えきった両手を紙コップで温めた。
劇場一面に広がる真っ赤な椅子を見るたび、魔法にかけられたような気分になる。
奇術使いが飛び出しそうな緞帳。非常口と書かれた緑色の電飾。
薄暗い階段を昇り、最後列の真ん中の席を確保した。ここが、いつもの席。頭上から一直線に、映写機の光が舞台めがけて照らされているのが好きだから。
仕事用のカバンを床に置いて、コートとマフラーを膝の上に乗せる。
今夜は両隣が誰もいないので、いつもより広い。隣の席を荷物で占拠してしまおうかという考えも一瞬頭をかすめたけれど、もしかしたら遅れて誰かやってくるかもしれない。
コートを膝にかけなおして、ドリンクホルダーにコーヒーを置いた。
食べ物や飲み物を口にするタイミングは、いつも悩みの種だ。といっても、幸せな悩みといえる。
サスペンスやミステリー映画を観ながら大きな音をたててむさぼるのも気まずいし、冷めたり氷の溶けた液体をスタッフロール中に流し込むのも集中できない。
だから映画が始まる前に半分ほど、量を減らしてしまうのが僕の流儀だった。あとは映画を観ながらチビチビ飲む。
けれど、今日は気にすることはない。さっそくコーヒーを口にする。なにせ今夜は徹夜上映。もしかしたらロンリーナイト。
飲みなれた苦いコーヒーは映画のお供ではなく集中するためのカフェイン摂取用だ。
これから見る映画はとても長くて、休憩を挟んでも三時間はゆうに越える。
アンデル・バーキンダム監督作『七つのなぞなぞ』
匿名作家、トム・ヘッケルトンによる推理小説「ミステリアス・トリニティ」シリーズを映像化した記念すべき第一作目だ。
舞台は産業革命が収束しつつある十九世紀中期の大英帝国、煙深き都、大都市ロンドン。
主人公は探偵レイヴン。これは偽名だ。読者も誰も、彼の本当の名前を知らない。
優雅な物腰と甘いマスク。巧みな話術と豊富な知識。金髪で美形の名探偵。
とても毒舌で皮肉屋だけど、時折みせる寂しがり屋なところや、仲間に甘いところを含めて、老若男女に人気がある。
相棒はシスター・ナンシー、感情を表に出さない美しい修道女。
本当は冒険が好きで趣味は投げナイフと射撃という破天荒さ。その上、近接格闘はプロ顔負けだ。見た目とのギャップから、ミス・トリファンからボディガーディアンとか除雪車シスターなんて愛称で呼ばれている。
この二人が他のキャラクターと共にロンドンにはびこる犯罪を暴いては投げ、時には暴かずに投げ、そして容疑者はことごとく死んでいく。
ミス・トリの感想でよく聞くのは「長い」そして「後味が悪い」だ。
僕のように原作大好きな者から見れば、前編後編で六時間という恐ろしい尺を使い、原作を改変せず忠実に救済措置無しバッドエンドをなぞったアンデル監督には拍手と花束を贈呈したいのだけれども、世論は違ったらしい。
とにかく、僕はこの「ミステリアス・トリニティ」という作品に一目惚れした。あの時、僕はまだ小学生だった。テレビの再放送。ブラウン管の前にかじりつき、CMにやきもきし、一喜一憂した。
優しくて好きだった女性の警察官が殺されてしまった時には泣いたし、犯人が分かった時には大きすぎるショックでしばらく放心状態になった。
あの姉が心配するくらいだ。相当だったのだろう。
そんな衝撃的な出会いだったけど、今でも僕は「ミステリアス・トリニティ」が大好きだ。映画も、それからもちろん原作も。インターネット上で知り合った熱狂的なファンほど、考察力も熱意も無いけれど。
愛だけは負けていないと思っている。
今夜は最新作の試写会の日だった。そもそも、全世界で一斉に先行試写会が行われるのは珍しい。日本は翻訳の手間があるせいか、試写会の公開が遅れがちだ。
なのに、外れた。ぜひとも参加したかったのに、抽選に外れてしまった。
良い風に考えるなら、それだけ日本にもミス・トリファンがいるという事だ。
そこは素直に嬉しい。
でも最速で観たかったんだ……。
いやいや、未練がましいぞ。復習する時間があって良かったと思えばいいじゃないか。
最近残業続きで作品を観ている時間がなかったから、今夜のオールナイト上映は本当にありがたい。さすがは西山さんだ。
特に第一作目の「七つのなぞなぞ」は一番好きな話だし、初めて僕とミス・トリを結び付けてくれた大切な作品だ。
大好きな作品の中に入りたいと願ったことはないだろうか。
キャラクターと語れたら素晴らしいと思ったことはないだろうか。
「原作が好き」と言いながらも「もしこうだったら」とハッピーエンドを夢想したことはないだろうか。
僕はある。
それだけ言えば、熱意があると充分分かってくれるはずだ。
熱い液体をすすりながらのど飴の袋を開けるのに苦心していると、開幕を告げるブザーが響きわたった。
劇場内の照明が溶けるように消えていく。暗闇と静寂。現実と虚構の世界が切り離される緊張の一瞬。スクリーンのむこうから、始まりの雨音と雷鳴が聞こえはじめていた。
銀幕の向こう、霧雨に霞んでいた建物が輪郭を結んだ。
乳白色の石で築かれた高い尖塔。歪真珠様式。窓上部を彩る花の石黄色連続装飾。並んだ巨大な尖頭形窓。巨大な石柱には何重にも細い筋が刻まれている。
石段を登り、つた飾りの付いた扉を抜け、前室を通り抜けた先には幻想的な光景が広がっている。
天を支える荘厳な穹窿天井、ラテン十字を模した三廊式教会。身廊の脇には木製のベンチが並び、袖廊へと伸びる真っ直ぐな道筋を取り囲んでいる。最奥にたたずむ巨大なバラ窓は来訪者を見下ろしていた。パイプオルガン奏者がいないにも関わらず、あの荘厳な音が聞こえてきそうだ。
祭壇の前では一人の女性が祈りを捧げていた。
第一の被害者、シスター・ケイトリンだ。
カメラは無音のまま白い束ね柱の横を通り抜ける。女性は無防備な背中を晒したままだ。侵入者にも気づかず、熱心に祈り続けている。
献灯された蝋燭が招かれざる客の気配で揺らめいた。バイオリン、ヴィオラ、チェロ、弦楽器が奏でる不協和音が神経をざわめかせる。存在しないはずの雫が、てんてんと床へと落ちていく。
彼女は振り返った。鳶色の瞳が驚愕に見開かれる。
"My Lord"
【神よ】
字幕や吹き替え版では「神よ」で統一されている彼女の台詞。
しかしこのLordは、本当に神へ助けを求める言葉なのだろうか。もしかしたら目の前の犯人、卿へと向けた呼びかけだったのではないだろうか。どちらともとれる演出で、僕は好きだ。
余韻を楽しむように目蓋を閉じると、停止ボタンを押されたかのように意識が黒く塗り潰されていく。
劇場特有の埃臭さ。
密室の息苦しさ。
何かがコトンと手から離れた。
ザァザァ響く、雨の音。
流れた液体が靴を濡らしていく。
"Why, Are you here?"
【なぜ、ここにいるの?】
雑音だらけのその声は、やけに近くで聞こえた。