023 宿敵
燃料投下という言葉がある。
その名の通り、燃えさかる情熱の炎に燃焼促進剤を入れることだ。
リチャードの書いた手紙を持ったまま、壁にかけられたタペストリーをひっくりかえした。
そのまま石造りの螺旋階段を降りていく。
「わあああーい!」
勝訴、勝訴でございます。
全国、全世界百万人(推定)のリチャードファンの皆さま。直筆手紙です。お喜びください。
ついに油田を掘り当てた。
いますぐインターネット環境が欲しい。絞殺犯、もとい考察班にこの情報を流さねば!!
さりげなくネリーさんが前ライン卿を殺害していたことが判明しちゃったし、手紙の最後の方、さりげなーくホラーだったけど、まぁ、いいや!! 今ならホラー要素が来ても殴って何とかなりそうな気がするっ。
ぐるぐると螺旋階段を折り続ける間、冷静になるかと思えばそうでもなかった。
リチャードが密室から消えたのは、隠し部屋の地下通路から出て行ったのか。鍵穴関係無かったな、テヘ。とは思ったけれど、今はそんな些細なこと、どうでも良い。
冷たく薄暗い石の階段はどこまでも続く。手に持ったランプが熱い。
目が回ったので、途中からは歩いて降りていく。手紙に合った通り、階段の最後には扉があった。持ってきた鍵を差し込むとカチリとした手ごたえが伝わる。あの手紙、最後のホラー力、凄かったな。
「おぉー!!」
ロンドンにはたくさんの地下牢があると聞いたことはあったものの、実際、来るのは初めてだ。カビ臭く、湿っぽく、鉄の匂いで満ちている。手元に明りがあるにも関わらず、暗すぎて二メートルより先が見えない。
迷路に入ったら左手を壁に添えて歩けばいつかは外に出られるという噂に従い左側の壁をさがした。
手に触れたのは鉄格子。どうやら道の両脇には牢が並んでいるようだ。
牢の中を照らすと大きな木製の糸車のようなものが見えた。
それから木で出来たぶら下がり健康棒のようなもの、バールのようなもの、クサビのようなもの。
僕は平和な日本で暮らす一般市民なので、その拷問器具がいったい何に使われるものなのか、まったく、ぜんぜん、想像もできない。
次も、その次の次も、牢の中にはいろんな木工品が置いてあった。中には爪で引っ掻いたような跡も残っている。地下牢に染み付いたこの鉄の匂いは、きっと古びた鉄格子の匂いに違いない。そうでなかったら、一体何なんだろう。ワカリマセンネ。
「わー」
あっ、これ「魔女狩りの頭巾」で異端審問官が使ってたやつだ。
「げー」
この床にこびりついているの、血の跡かな?
「おえっ」
ここは蜘蛛の巣がはっている。あまり使わなかったんだろう。
「それからここは……」
「ちゅー」
牢の隅に固まっていた一群がざっと音をたてて振り返った。
「……」
「「「ちゅっ」」」
暗い地下牢の中、ぴかぴか光る何十というネズミの目玉。さっきもこんな事あったなぁ。
「……」
「ちゅ」
お互い、深く深く。黴臭く湿っぽい空気を肺に取り込む。
「ぎゃああああああー!?」
「ぢゅううううううー!?」
互いの絶叫が地下に反響する。耳を塞ぎ、ワンワン響く声をやり過ごした。
しばらくたって薄目を開けると、そこに奴らの姿はなかった。きっと逃げてくれたのだ。よかった、襲ってこなくて。ほっと胸を撫でおろす。
世の中にはどうしても好きになれない、または生理的に受け付けない、もしくは前世から宿命づけられた(と思っている)天敵というものが存在していて、僕の場合、魔王でも殺人犯でも勝手にロッカーを開ける人事部でもなく、ネズミなのだ。
牢の中には、赤い表紙の手帳が落ちていた。
そーっと牢の扉に手を伸ばす。つつくと、扉は錆びついた音をたてて開いた。
何もいないことを確認してから、手帳を拾いに中へと入る。
ゴワゴワした手触りの手帳を拾い上げても、牢屋の扉が勝手に閉まることはなかった。
手のこんだギミックが無くて良かった。普通は無いけど、あるように錯覚してしまう。
「よし!!」
手帳を胸に抱えて戦略的撤退だ。
地下牢探索はまた今度にしよう。いつ、奴らが戻って来るか分からない。
階段を駆け上り、タペストリーをめくって隠し部屋に滑り込んだ。
「どこからか悲鳴が聞こえましたが!?」
「ここは一体……」
肩で息をしていると、僕以上に血相を変えたエルメダさんとネリーさんが隠し部屋へ飛び込んでくる。これ幸いと奴らのことを言おうとした。
「ちかっ、下にっ!」
ぜったいネズミの巣があるって!
一匹見かけたら三十匹。三十匹いたら……考えついた結論に血の気が引いて行く。
「もしや、あれを……見てしまったのですか」
「もう大丈夫ですよ。怖いものは去りましたから」
厳しい顔でネリーさんが、優しく微笑みながらエルメダさんが言う。
いや、去ってないよ。いま現在下にいるよナウ。
あれは、館のどこかに一族ごと住み着いているパターンだ。
大丈夫な人は気軽にあの哺乳類に向かって「可愛い」とか「ふわふわ」だなんて言えるけど、それ、高所恐怖症の人に「バンジージャンプなんて怖くないよ」と言うのと同義だからね。
最初に目があったアイツは明らかに普通のサイズではなかった。
コーヒーに例えるなら、ビッグ、ラージ、トール、グランデサイズ。
地下には魔物が潜んでやがる。
「地下室、二度と、ない!」
地下を物色するのはネズミがいない時にしよう。
そうしよう。怖気づいたワケではありません。戦略的撤退です。
「あの抜け道は……閉めておきましょう」
そのあと、ほとんど聞き取れないくらいの声でネリーさんが付け加えた。
「……忌まわしい記憶は、忘れ去っても心のどこかに残るものなのですね」
ええ、そうですとも。
幼い頃から僕と奴との確執は始まっていました。
始まりは思い出せませんが、二十八年にわたる長い、ながい戦争なんです。
ですから、エルメダさん。そんな可哀想なものを見るような目で見つめないでください。
「さぁ、嫌な事は忘れて食事にいたしましょう!」
「その前に湯浴みでございますわね」
明るい調子でネリーさんが振り返り、僕の前髪にからまった埃や蜘蛛の巣を見ながらエルメダさんが苦笑した。
言われてみれば、泥んこだ。気絶ついでに昼寝をしたのか、置き時計は八時を指している。
外はまだ明るい。どうやら、ここは僕が知っているより日が沈む時間が遅いようだ。




