020 女中
顔をあげた女性の微笑みは、華美な玄関ホールやシャンデリアが零すささやかな日光と相まってそれは見事なものだった。
「女中」
「はい」
執事服を着こなした彼女は答える。
「女中、頭?」
「はい」
つまり家に戻ればフリルエプロン付き女中頭巾をかぶったロング丈メイド服が「ご主人様」と出迎えてくれるのか?
「あなたは、現ライン家当主であらせられるリチャード・トマス・ライン様。私たちの主人でございます。昨晩、鍵のかかった部屋からこつぜんと姿を消され、みなで探していたのです」
使用人がリチャードを探してくれたと分かって嬉しい。
しかし、人様の家の呼び鈴を一定の間隔で鳴らし続け、最後には無断侵入して平然とした顔をしている女性を、信用はできない。
「うん」
しかしリアル女中さんに「ご主人様」と呼ばれるチャンスがあるのなら、どんな死地にだって行きますとも。スカートは黒ロング丈で頼む。
『迎えが来たので帰ります、色々とありがとうございました リチャード』
メモとエルメダさんがくれた何やら恐ろしい額の書かれた小切手を置いて立ち上がる。
「じゃあね、トリスタン」
黒猫は大きな欠伸で返事をすると、ノンビリとした動きで部屋から出ていった。
ダイニングテーブルの上に書置きとクマを残して台所へ向かう。壁にモザイクタイルの貼られたキッチンは、よく見ると煤や焦げが張り付いていた。それより目立つのは大きく開け放たれたままの木製扉。ヒュウヒュウと風に揺れている。
ジェイコブ先生が鍵をかけ忘れたのだろうか。カンヌキ型の錠が付いていたが鍵の役割を果たさずに所在なさげに縮こまっている。
「鍵が開いておりましたので失礼かと思いましたが中へ入らせていただきました」
エルメダさんが言う。いくら豪快に開いていたとは言え、許可も無く他人の家に入りこむのは良くないのではないだろうか。
「次からは気をつけます」
次からは気をつけますという言葉が、「このようなことは、もうしません」という反省の言葉ではなく「次は証拠もなく完璧にやりとげてみせます」という決意の言葉に聞こえるのは何故だろう。
裏庭には可愛い花壇が作られていて、花の名前とラテン語の学名が書かれた木札が煉瓦の区分ごとに立てられていた。ジェイコブ先生は分類するのが好きなのだろうか。診療所の整然と並べられた食器や書棚、衣装箪笥の中身を思い返して、多分そうだなと一人納得する。
「ところで、一体何を」
先程から熱心に勝手口の内鍵に細工をしているエルメダさんに問いかけた。
「施錠でございます」
引き締まった表情の彼女はパタンと静かに扉を閉め、僕の方に向き直った。器用にも、彼女はそのまま手に握った糸を手繰り、扉越しに「ガチャン!」という金属音が聞こえるまでそれは続いた。
外から黒い糸を使って施錠するなどと言うグレーすぎる芸当を見せた彼女。慣れた手つきが気になって仕方ない。
鍵が開いていたら防犯上危ないので残るという僕の意見に、「大丈夫です。お任せ下さい」と自信満々に言い切った結果がこれだ。どの辺りが大丈夫なのか小一時間問い詰めたい。
「戸締りに糸や針金を使うのは普通のことでございますよ」
そのような普通を存じ上げません。口から出そうなツッコミをとめた。
黒い糸がスルスルと扉の隙間から出てくる。戸締りに使うのは鍵である。黒い糸ではない。
なんとなく人目を気にしながら裏口を歩く。表の歩道には高そうな馬車が止まっていて、脇には眠そうな眼差しの少女がぼんやりと立っていた。
三つ編みにしたストロベリーブロンド、男物のシルクハットと黒のロングコートという御者の恰好は不思議と彼女に似合っていた。身長の高いエルメダさんが横に並ぶ。「大小」という感想が浮かんだ。きっと二人とも上から下まで黒服を着ているからだろう。
「あ、坊ちゃんー」
口元に手を当て少女がまのびした声をあげた。丈のあっていないぶかぶかの袖がくちびるに押しつけられている。
「朝帰りとは、やりますねー」
「落ち着きなさい、カイル」
肘でつついてくる彼女をエルメダさんがいさめた。
「リチャード様は記憶がないそうです」
「どうもはじめまして」
昨晩はご迷惑をおかけしましたと頭を下げる僕に、いえいえどういたしましてと頭を下げる少女。一拍おいて、ええええと盛大な叫び声が通りに響いた。
「記憶喪失ぅ!?」
あわわと声に出していたカイルが……すっと表情を消した。
「いえ、坊ちゃんの記憶や常識が無くなっても『ああ、いつものことかー』で流せるんですけど、給料未払いだけは困るんで、そこんとこは、よろしくおねがいします」
「カーイールー」
「くびっ、首とれるっ!」
ライン家の使用人、キャラが濃い。悲鳴をあげる金髪少女と、その頭をわし掴みにする黒髪美人の光景は傍目から見ると面白い。けれど、道行く人の視線を集めているので関係者としては恥ずかしい。
「ううっ、馬番と御者のカイル・アベニューです。好きなものはパイとターキーと甘い物です」
「大変残念で言葉と礼儀のなってない娘ですが御者という一点においてのみ信用できる子です」
カイルはエルメダさんに頬っぺたを伸ばされたままキリリと表情をひきしめた。
「こんにちは。ご機嫌いかがですか」
「はい、とてもいいです。ありがとう。あなたは?」
「はい、とてもいいです。ありがとう」
「茶番はいいからさっさと行きますよ」
お互いに四角四面な挨拶を交わしていると、エルメダさんに馬車の中へと押し込まれた。
ガタンとひと際大きく車輪が跳ねる。デコボコ道を馬車で行くのは二度目だけれど、この乗り心地と速度なら正直歩いても良いのではないだろうか。離れた位置に停まっていた美しい二頭立て馬車に揺られながら石の道を進んでいく。灰色の煤や砂が道の上を漂い、道の端では洗濯や散髪といった路上販売で生活する人の姿が見え始めていた。
ジェイコブ先生の診療所から馬車で五分。その屋敷はとつぜん目の前に現れた。
「あれが、緑塔館です」
不吉な塔にむかって僕は手を合わせた。
カタカタと馬車の車輪は砂道を踏みしめ玄関へと向かう。空を覆う雲の切れ間から太陽の光が差し込み、一面を覆う芝を照らした。
ファンにとってロケ地とは聖地である。
魔法使いの少年が通う学校とか、火山に指輪を捨てに行く景色は、前情報がなくてもその迫力に感動するだろう。でも、知っていたら知っていただけ、感動の度合いは変わってくる。
例えば、電車の中で隣に芸能人が座ったとする。それが知らない相手か、自分の大好きな相手かによって興奮度合いは変わる。それと同じ事だ。ここにはカメラもなく、燃え盛る情熱を伝える相手もいない。そんなときは心の中で指を組み合わせ、神に祈りながらそっと五体投地するしかない。
ああ、ようやく来たんだ。馬車から降りてその建物を間近で見た瞬間、感嘆の溜息を抑えることができなかった。まるで博物館のような石の重圧。物静かに佇むその屋敷を、僕は知っている。
栄華を誇った巨大な芸術。凄惨を尽くした悪夢の人形部屋。業火に嘗め尽くされた巨大な棺桶。何度も繰り返し見た舞台を、僕は感慨深く見あげた。




