018 物販
「ところで服の他に……クマは必要か」
さきほども聞かれたが、自分の人生にクマが必要か必要ないか、と聞かれたら、必要ない。
しかし、文脈から考えるに「クマ」という英語に服装に関係する別の意味があるのならば、ここでノーと答えるのは躊躇われる。
他人の目から見て僕には服の他にクマが必要なのだろうか。そうだと判断したのなら、一体どういう条件でそう思ったのか。しきりに首をひねって悩んでいるとフワッとした布の塊を押し付けられる。
「貸してやろう」
押し付けられたそれは、クマのぬいぐるみだった。
大変手触りが良く、茶色に黒い目の、姉ちゃんが喜びそうな、可愛らしい一品だ。
テディベアとは、1900年代にアメリカを中心に広まったクマのぬいぐるみの呼び方である。ヴィクトリア朝を基盤としている「ミス・トリ」の世界では恐らく「テディベア」という名称は使われず、単に「ぬいぐるみ」や「クマ」という扱いで問題は無いだろう。
「トリスタンを持ち運びされては迷惑だ」
「……」
幼い子供に対し、人形やぬいぐるみが与えられる事は多い。精神的な友人、支えとなるためだ。小学校五年まではぬいぐるみと一緒に登校しても良いと未だ定められている地方もある。
日本では男子甘えるべからずなる概念が未だ強いため、ぬいぐるみ離れは幼少期に完了する。ただ、人形フィギュアや玩具プラモに関しては大人になっても付き合っている人が多い。
「…………」
また精神的に不安定な患者に対しても、人形療法が使われる場合がある。自分より弱い物を管理下に置く事で庇護欲を刺激し、柔らかな手触りと単純接触を繰り返す事で安らぎを司るセロトニンの分泌量を増やすのだと言う。
「………………」
そう言う観点から見て、ふわふわなクマのぬいぐるみは穏やかさや安心を与えるのに最適なアイテムだ。問題なのは、僕は幼稚な言語能力さえ除けばごく普通の感性を持つ成人男性であり、多少の不安定さや精神薄弱に目をつぶれば、ぬいぐるみを渡されて安心する期間はとうに過ぎているという事だ。
くまのぬいぐるみだ。可愛い。可愛いが、それがどうした。
考えれば考える程、先生の意図が分からん!
いや素直に考えて認めればいい。そうだ、本当は僕だって分かっている。先生が僕に対する接し方を大人用から子ども用へと切り替えたってことは。でも認めてしまったら、流石にトイレットペーパーより脆いと有名な僕のプライドが破れさってしまう。
多少はしゃいでいたのは認めよう。小学生より酷い「アップル」の発音だったとも認める。
それでもそれでも最後の一線を越えてしまうことは出来ない。それが、三十路前の自尊心だ!
「ジャッキーの友人だった人形だ。大切に扱え」
「わーい! くまさんだ嬉しいなぁーー!!」
自尊心など、捨てるためにある。
映画の物販というものは、一部需要と供給の割合を無視してでもやらなくてはいけない、不思議な法則と魅惑の世界。
パンフレット、ボールペン、キーホルダー、タオルにTシャツ。映画の世界をモチーフにしたもの、シンプルにロゴだけ入っているもの、何で作ったのか分からないアクセサリー。国によっての品ぞろえは異なっているものの、時に魅力的な品が並ぶこともある。ちなみに僕はドラゴンや剣の形をしたボールペンに弱い。普段使いをすると、すぐ壊れてしまうのが難点だ。
話を戻そう。物販の中には登場キャラクターの小物を形作った物も売られている。レイヴンが使っている鴉の羽ペンやシスター・ナンシーの絹のハンカチーフは何度も再販されているため、相当な売れ筋だと思われる。
しかしジャクリーン巡査部長やリチャードのような、出演が一度限りのキャラクターグッズが出る事は少ない。下手をすればまったく無いときもある。
サスペンスやミステリーものはただでさえ販促グッズが少なく映画のミス・トリシリーズで僕が持っているジャクリーン巡査部長グッズはたった一つだけ。ポストカード五枚組の中の一枚だ。
しかし英国と米国では数量限定で「七つの謎々」キャラクターグッズが売られたらしい。その一つにジャクリーン巡査部長や他のキャラクターをモチーフにしたクマのぬいぐるみがあったと思い出したのは、さきほどのことだ。
恥と引き換えにクマのぬいぐるみ現物をゲットした。これは祭壇を作って御神体として祀ろう。抱きしめるだなんてとんでもない。
「早く選べ」
犯罪者の思考回路に突入していた僕を止めたのは、苛々と足を鳴らした先生だった。古着と聞いて僕の心は躍る。ようやくシャツ&ズボン姿から進化する時が来たようだ。クローゼットの奥まで進めば、雪の降りしきる別世界が広がっているかもしれないけれど、今の所ミス・トリ以上に行きたい世界は無い。靴下か、上に羽織る何かがあれば、満足なんだけどうわああああああああああ。
クローゼットを開けると、そこは高級ブティックでした。
古着とは何かという自問から始まった悩みは、医者という職業を甘く見ていたのかもしれないという答えへと帰結した。いや、大英帝国の財力をみくびっていた。はたまた、ミス・トリの製作費を低く見ていたのか。何にせよ、自分の予想をはるかに上回る場所まで飛んできてしまった。
ジェイコブ先生が「古着」と言ったのは正しくクローゼットの中にあったのは小さいサイズの服ばかりだ。
中には女の子の洋服もあった。
幼少時代に着たのか、それともジェイコブ先生がいつか出来ると思っていた自分の子供の為に買ったのか。想像するとちょっとだけ切なくなる。
そして、小さいサイズだと思っていた服がぴったり丈で更に切なさが増した。
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私は、父の存在を思い出していた。
私には血のつながった二人の弟がいる。
目の前の青年が運び込まれた時、幼い方の弟が運ばれてきたのだと思った。
その想像は非常に馬鹿げたものだったのですぐに笑い飛ばした。
しかし、である。その馬鹿げた想像が、次第に真実味を帯びはじめた。
飼っている猫の名前を聞いた時に確信に変わった。
この男は私のことを知っている。
驚きは警戒へ、そして恐怖へと変わった。
もう一匹の黒猫のイゾルデは人見知りで滅多に出てこない。ふらりと出かけて、別宅があるのか二、三日は戻ってこない。私が黒猫を二匹飼っていると知っているものは僅かだ。
なので、試すことにした。
酔い覚まし。
クマのぬいぐるみ。
彼が着ている服は義理の妹が着ていた服だ。
運命の悪戯か。サイズがあつらえたようにピッタリだった。幼い頃から顔がよく似ていたが、背丈も同じになるとは誰が予想するだろう。
かつては反応したそれら全てに、彼は戸惑った反応を見せた。
正直に言って、肩透かしであった。
彼は私の思っているような存在ではないのか?
ただ似ているだけなのか?
それとも無害を演じているのか?
あの、おぞましい化け物と同じように。
どうしたものかと悩む私の耳に、何度目かになるみっともない鳴き声が聞こえた。
どうやら服の着方が分からないらしい。
「じっとしていろ、貸せ、見ていられん!!」
襟まわりを直しながら、今ならこいつを簡単に殺すことができる、と心の中の悪魔が囁いた。
茶を出せばためらうことなく飲み干した。食べ物を渡せば口にする。警戒心とはおよそ無縁の存在。
今の私なら、今のこいつなら、簡単に消せるであろう。
私は、今の生活を、ジャッキーを愛している。
それを脅かすものは……。




