017 診察
効果はあるのは分かった。が、酔いが治る前に死人が出るかもしれない危険なレシピだということも分かった。即刻歴史の闇に葬り去った方がいい。勝手に表情筋がひきつる。
「適当に診てやる。ジャッキーに頼まれたからな」
グラスを片づけ終わった先生がペンと紙を片手にそう告げた。診療代。そういえば全財産が入った小銭入りのローブはどこに消えたのだろうか。
「あの」
「黙れ。崩壊した英語は聞くに堪えん」
強い調子で止められたので、それ以上喋るのは戸惑われた。代わりに内臓を売れと言われたらどうしよう。子供用なら実家に沢山ぶら下がってますのでご自由にどうぞとでも言おうか。ハハハ、これぞまさにリチャードジョーク。笑えない。
金策を巡らせている間に診察は進んでいく。舌を見たり、頭を揺らしたり。現代医療とさほど代わりないように思える。
一通り調べ終わると今度は問診的な質問が多くなった。分かりませんと答えるしかない。
「記憶は」
「ない」
「気分は」
「悪い」
「名前は」
「リチャード」
形式的な質問が続くなか、いきなり先生がペンを止めた。
「リチャード」
確認するように、もう一度言った。
「名称不明と言われた」
「……そうか。それでリチャードか」
先生はなにやら考え込んだ。
あの酷くおぞましいものを飲んだ後からジェイコブ先生の態度が軟化した気がする。いや、これ以上あの液体について思い出してはいけない。例の飲み物のおかげと考えるより「先生はシャイな人で、次第に初対面の僕にも慣れて来たんだな」と考える方が精神衛生上良い。そう思うことにしよう。
「ならば形式上君の事はジョン・ドゥと呼んでも」
「ダメ」
「いや、ジョン・ドゥと言うのは」
「けっこうです」
「ジ」
「めっそうもない」
ジョン・ドゥ、ジェーン・ドゥという名前も身元不明者に対して暫定的につけられる名前だ。
先生が持ち出してきたのも分かる。
分かるけれど、殺人鬼でジョン・ドゥという名前は特別なものだ。他の殺人犯が気軽な気持ちで名乗って良いものでは無い。ただでさえ七という数字がかぶっているのだから、呼び分けはしっかりしていきたい。
なおリチャードにはちゃんと"The Teller"という殺人鬼名がある。まあ今の僕は信用デキナイ話し手なんですけどね! 一人称の信用できない語り手とザ・テラーの日本語訳との二つの意味をもたせるジョーク。こんど西山さんに聞かせよう。
「では、リチャード」
体調を問う質問が再び行われたが、先刻死滅した味蕾以外は回復していた。あの液体が効いたのだろうか。そうだとしても、二度目はないと信じたい。
「ところでリチャード、君はいつから眼鏡をかけている」
「むしろ知りたい」
「ん?」
「知りません」
おっと危ない。素が出てしまった。
「そうか。ならクマは好きか?」
人を食う体長二メートルの樋熊は苦手だが、テディベアみたいな可愛いクマなら好きだ。はちみつが好きでも、マーマレードが好きでも。アダルトビデオが好きなやつでもかまわない。
「はい?」
それは疑問形で「どういう意味だ」と問うたつもりだったのだが、ジェイコブ先生は難しい顔でペンを走らせ、添削する教師のように斜線で消してしまった。
先程の質問はいったいどういう意味があったのだろうか。一度、横から紙を覗き込んだのだが達筆過ぎてどれが文字でどれが線かすら判別できない。医者が字が汚いっていうのはどうやら本当らしい。
診察らしきものはそれで終わりだった。
「古着が二階に置いてある。ついてこい」
左手の包帯を取り換えてもらい、その後告げられた前振りの無い優しい言葉は僕を更に混乱させた。風邪をひかれ長居されては困ると無表情で告げられる。ジェイコブ語ではない、一度で意味が分かる英語だった。
何。この、やさしさ。
気持ち悪いと思ってしまう僕は、やはりミス・トリに毒されているのだろうか。
本編でリチャードとジェイコブ先生が出会うことなど一度も無かったから比較しようにも対象が無い。ただふだんの毒舌が出てこない以上、異常事態だとは思う。カメラ回っていない時は良い人なのか!?
膝の上で安心感をもたらしてくれる存在トリスタン氏に助けを求める。彼はふわふわサラサラな黒の毛皮で安心しなさいと慰めてくれた。偉大なり、アニマルセラピスト。
例の豪華な廊下まで戻り、シャンデリア眩しき階段を昇った。そうして案内された部屋を見た僕は咄嗟に口を押える。部屋が豪華過ぎて、再び胃がひっくり返ったのだ。
「そこのクローゼットの中だ。勝手にもっていけ。どうせ使わぬものだ」
腕を組んだまま部屋を歩く先生の説明は、半分も耳に入って来ない。
廊下のシャンデリアを二回り小さくした透明なガラスの雨粒が天井に垂れ下がっている。木目に艶の出たオーク材の書棚にはみっしりと革の背表紙が並んでいて、煉瓦で丸く縁取りされた暖炉には火が入っていないにも関わらず、黒い墨の代わりに香りの良い薪が井形に組み上げられていた。紫色の天蓋付寝台の下にはダマスク織りの絨毯が敷かれ芸術的空間を生み出し、ぶ厚いカーテンは、くびれたウェディングドレスによく似ている。
「患者用の病室がそんなに珍しいか」
「いやいやいやいや」
老舗ホテルのスイートルームがそこにはあった。
そうとしか思えない。いや、個人宅にスイートルームも何もあったもんじゃないけれど、六畳一間家賃六万二千円に慣れたこの身には、いささか辛過ぎる華美さ。せめて「美術館かマナーハウスレベルの豪華さです」という前置きがあれば、心構えもできたのに。




