016 宿酔
「それを聞いて安心したよ。我々はそろそろ職務に戻らねば」
「トリスタン、また会いに来るッスよ」
ジャクリーン巡査部長が立ち上がり、それに続いてバグショー巡査も名残惜しげに肉球から手を離した。
「もう少し休んでいったらどうだ?」
ジェイコブ先生が引きとめようと言葉をかけたが、警察官二人は穏やかに断った。
実を言えば、僕ももっとジャクリーン巡査部長を拝んでいたかった。
帽子をかぶった二人は扉から出ると一度だけ振り返って敬礼する。遠くからでも分かると思っていた黒い警察のコートはあっと言う間に見えなくなった。
玄関まで出てきた僕とジェイコブ先生は、二人の姿が見えなくなっても遠ざかる硬い靴音をじっと聞いていた。
ハートフォード診療所は高級住宅街の一画に建っている。玄関先の看板がなければ診療所とは思わないだろう。四階建ての立派なタウンハウスだ。朝焼けがオレンジと白壁の街路を照らしている。行き交う人の姿は少ないが、遠くに見える幾筋もの細い煙が生活の気配を感じさせていた。もう少しすれば道にも馬車が行き交いはじめるのだろう。
灰が少ない清々しいロンドンを堪能するのもいいけれど、そろそろ沈黙を貫いたまま僕を見下ろすジェイコブ先生への対処を考えないといけない。先ほどから痛いほど視線を感じる。漏れ出てくる圧迫感で息が詰まりそうだ。先生を見る勇気がない僕は作り笑いを浮かべたまま、ジャクリーン巡査部長の消えた路地に向かって手を振り続けている。そろそろ右手に限界がきそう。
僕と先生は、言葉や立場や次元や世界の違いといった細々とした差異はあるけれど、共にジャクリーン巡査部長愛好会に所属している。きっと良い関係を築ける筈だ。僕は英国紳士のモラル、そしてジェイコブ先生の優しさを信じている。
勢いをつけて、隣を見上げた。
「ほんとうに、なにも、おぼえて、いないのか?」
訂正しよう。僕を見下ろしているのは英国紳士にあるまじき殺意の塊である。目がマジである。冷や汗が止まらない。いくらジャクリーン巡査部長を徹夜させてしまったからといって、こんなに怒ることないじゃないか。控えめに言って今そこにある死。我が心の琴線よ、今だけは鈍感であれ。
「へっぶしょん!」
「……フン」
空気を読まない不随意運動が僕を救った。
ジェイコブ先生はそれ以上の追及をせず、家の中へと引っ込んだ。続いて僕も入る。タイミングは重要だ。
貴族別邸で暮らしていることから分かるようにハートフォード家は金持ちである。上流貴族の血縁らしく爵位もある。それが何で町医者なんかをやっているかというと……何でだろう。あまり気にしたことがなかった。
円形絨毯に階段に手すり、脇には花瓶に花が活けてあって心の安らぎを演出している。玄関ホールは吹き抜けで豪華なガラスの芸術品別名シャンデリアが天井を埋めている。
先生はレイヴンの探偵事務所前で喧嘩しているか、シスター・ナンシーと街で偶然出会うか、ホテルのロビーでアフタヌーンティーをしているかのシーンしかない。家や診療所の描写は一度も無かったから目新しい。いつかドレス姿のジャクリーン巡査部長も見られるだろうか。
「そこから動くな」
今のは「あんまり動くとまた気分が悪くなるから椅子に座っていろ」だろうか。
フフフ、ジャクリーン巡査部長のおかげでジェイコブ語(中級)までは何とか理解できるようになってきた。足元を見るとトリスタンが「そうじゃよ」と言いたげな丸い目で僕を見上げている。可愛い。この気遣いの出来る老猫こそ、真の英国紳士に違いない。
真なる英国紳士を抱え、先程まで座っていた椅子に再び腰を落ちつける。軽い音を立てて僕の目の前に新聞が投げ落とされた。これでも読んで待ってろクズ虫が、という事なのだろうか。
僕はそんな暢気な事を考えながら勝手にディディエ・ラインなる新聞を広げ、膝の上のトリスタンと戯れながらページをめくった。昨夜の馬車事件は乗っていなかったが、リンドブルーム船長が帰港したという一報は小さなイラストと共に載っている。
新聞に夢中になっていた僕は、恐怖が足音を立てずに忍び寄っていた事にまったく気がつかなかった。
「飲め」
ジェイコブ語が理解できた。そう思っていた時期がありました。
髪を固め、灰色のスーツを着こなしたよそ行きモードのジェイコブ先生は、一見すると貴族の嫡男といった容姿で入って来た。今にも競馬場かダンスパーティにでも行きそうな彼の手にあるのはシャンパンではなくまさに「It」と呼ぶにふさわしい物体である。
禍々しい液体から妖気が漏れ出している。コップに入っているから、恐らくは飲み物なのだろう。薬かもしれないし、薬殺用の液体かもしれない。
ジャクリーン巡査部長を徹夜させた罪で死ぬとは。流石の僕も予想外過ぎて対処方法が浮かばない。間違いなく妹思いの度が過ぎている。無害そうな顔をして、今まで何人を土に戻したんだ、先生。ジャクリーン巡査部長が独身だったのは、親族のガードが堅過ぎるせいだったのか?
「二日酔いに効く飲み物だ」
そんな僕の葛藤を察したのか、先生にしては珍しく分かりやすい注釈が入った。目を合わせてくれないのは、単に気恥ずかしいからなのか、それとも今から毒殺する相手に罪悪感を抱きたくないのか。
どっちなんだ。覚悟が変わって来るから教えてくれ。
「私の父が、唯一教えてくれたものだ」
先生のお父さん、何を教えたの!? 酔っ払いに止めをさすドリンク!?
受け継がれて良いものじゃないよ、これ。絶滅すべき飲料だよ!!
いや、僕は信じよう。意外と面倒見が良く隙があり、探偵のレイヴンと後ろ姿が似ているという理由で間違って殺されたジェイコブという男のパパさんを!
前ハートフォード医師は子供に恵まれなかった夫婦で、年をとってから二人の子供を養子にとった。
それがジェイコブ先生とジャクリーン巡査部長。映画には登場しなかった夫婦だけど、さっきダイニングでそれらしき夫婦の写真が飾られていた。
そう写真!! この時代、もう写真機あるんですよ!! 欲しいですね!!
そんな風に現実逃避しても、目の前の酔い覚まし(仮)が減る事はなく。じっと僕を待っている。
覚悟していっきに喉の奥へと流し込んだ。
舌に残る魚介類の磯臭さ獣臭さと卵の硫黄臭さ。得体の知れないえぐみと苦みが飽和状態で喉を貼り付き、喉元から胃の腑まで通り過ぎた後も存在感を主張する。
生煮えのスライムを飲み込んだような触感の悪さの中に、香辛料を手当たり次第煮詰めてタバスコ一本入れたかのような酸味がほのかに、否、ほのかなどというレベルをはるかに通り越し、例えるならば満員電車に無理矢理押し乗って来た時のように存在を主張している。
まずい、とか、おいしいとか、味覚には荷が重すぎる。殴られた時に痛いとかショックを受ける感覚に近い。怪我した直後は痛くないけど、時間がたってくると打撲した部分が痛くなる、みたいな。味についての感想がまったく出てこない。
いや、やっぱり言おう。まずい。ありえないレベルで不味い。どうして不味いのか。何がまずいのか。それを説明するのは不味い理由を理解してからだ。だけど、それもできない。何だか不味い。なぜだか不味い。経験したことがないまずさ。未知なる世界だ。
毒物とかまだ可愛いものだ。凄すぎて頭痛が治った。凄い。恐らく死に瀕した際に分泌されたアドレナリンの力だと思う。凄い。不味い。飲み物とは言っていたけど、飲める物とは一言もいってなかった。
期待をこめた先生の眼差しをスルーしながら、必死に頭をめぐらせる。
「き……効きました?」
「我が家の秘伝レシピだ」
ジェイコブ先生が自慢げに胸を反らした。反応するほど精神的な余裕が無い。胸中にあるのは虚無だけだ。




