再出発
エレベーターの扉が開くと、刺すような冷気が頬に当たった。
すっかり冬の気配だ。かじかむ指を鞄に突っ込み、家の鍵を探す。
このマンションに越して来たのは半年ほど前のことだ。
新規プロジェクトのサブリーダーを任された為、職場の近くに住居を移した。
お陰でここ半年は通勤ラッシュを免れている。その反面、この半年。まともな時間に帰宅できたためしがない。
抜けない疲れは年のせいだろうか。それともチームリーダーの破天荒な言動のせいか。
深夜のマンションは人気がなく静かだ。蛍光灯が瞬いた。まったく、誰か管理人に連絡をしろ。
早く温かい部屋に入りたい。はやる気持ちで焦ったせいか、手から鞄が落ちる。
無情にも、鞄の中身がコンクリートの上に散らばった。
「チクショウ」
思わず悪態を吐いてしまう。どうせ深夜だ、誰も聞いていない。家の前で屈みこみ、荷物を拾う姿は哀れでいっそ滑稽だ。
スマートフォン、ライター、財布、タバコ、入れっぱなしになっていた文庫本、家の鍵。
「お前なぁ、どうせならもっと早く出てこいよ」
お陰でいらない手間がかかったが、内心鍵が見つかったことに安堵していた。ホッとしながら鍵に手を伸ばすと、気配なく反対側から青白い手がにょっきり生えた。
「うわぁ!?」
てっきり、誰も居ないと思っていたものだからギョッとのけぞる。
「びっくりしました?」
そう言ったのは若い、眼鏡をかけた男だった。笑いながら手に持った本を差し出してくる。
「ごめんなさい、いきなり出てきてしまって。驚かせるつもりはなかったんですけど」
「いや。此方こそ大声をあげて申し訳ない」
肌が青白く見えたのは死にかけた蛍光灯の光のせいで、よく見れば今時風の会社員だった。
スーツを着ているということは、仕事帰りだろうか。
エレベーターは俺の背後だ。上がってきたわけでないのなら、同じ階の住人だろう。
それにしてもこんな所を人に見られるとはタイミングが悪い。差し出された本を受け取る。
「ありがとうございます」
「……」
「何か?」
散らばったままのライターや財布を拾い上げる。男は、じっと俺を見ていた。
「いえ、その」
俺の怪訝さが伝わったのだろう。スーツの男は大袈裟に手を振った。
「今回の西山さんの本、面白いですか?」
まるで怒られることを覚悟しているように、男は恐る恐る尋ねてきた。
西山さん。俺は今しがた手渡された本を見下した。
「……えぇ、まぁ。面白いですよ」
「!?」
本格推理小説家、西山行の最新作は俺の予期していたものとは大きくかけ離れていた。
彼特有の陰鬱で重厚な文体は形を潜め、トリックといえるような物もない。
話はコミカルで、登場人物にいたってはマンガの登場人物のようだった。
今までの作風が珍味を扱う高級料亭の膳だとすれば、これは簡単に食べられるファストフード。
期待して読むと肩透かしを食らうが、はまるとクセになる味だ。
西山という作家を知らない若い世代に紹介するには良いかもしれない。
しかし驚いたのは、あの殺戮作家と呼ばれた老人が自分の主義を捨てた点だ。
「そうですよね! 面白いですよね! 良かったぁ、最近どなたに聞いても『前のほうがよかった』としか言われないものだから、自信無くなってきちゃって」
俺の返答を聞いて、男は顔を輝かせた。
恐らく、このスーツの男は西山作品のファンなのだろう。だから最新作を持っていた俺に話しかけたかったのだ。折角なので話につきあってやる。
「とんでもない。この作品は西山という作家の、大きな転換期を見せた作品ですよ」
本にかかった書店のロゴ入りブックカバーを撫でながら言う。若者に講釈をたれるつもりは無いが、本に関わる仕事をしている者として、久しぶりの趣味の会話につい口が回る。
男は、不思議そうに首を傾げている。分かっていない表情に少しだけ落胆した。話しかけてくるぐらいだから、てっきりコアな西山ファンなのだと期待してしまったのだ。
読みこんでいない新規層だったのか。いや悪く言ってはいけない。どんな形であれ読者は読者だ。
「この作品、人が死ななかったんですよ」
この『白百合警部の事件簿』は文芸誌に短編として載せられたものを集めている。
特徴としては、人が死なない。ミステリーだが、重きが置かれているのはトリックではなくヒューマンドラマ。短編の最後は必ずハッピーエンドで終わる。
先ず、今までの西山作品からは考えられないエンディングだ。一体作者にどんな心境の変化があったというのだろう。
「それに肩肘をはらずに楽しめました。最近疲れているせいか、あまり難しい話が入ってこなくて」
以前のようにトリックを生み出し、死体を作るための消耗品として扱われていたキャラクターとは違う。
西山が書いた彼らには血肉があった。
泣いて、笑い、驚き、怒った。
共に協力しあえる家族と仲間がいた。
趣味に奔走し愛ゆえに暴走する過ちもあった。
彼らは、家族があり、感情があり、仕事をもち、趣味に生きる人間だった。
俺は、作中に登場する癖のあるキャラクターを思い浮かべていた。
主役の足をひっぱる。すぐ他人に泣きつく。映画となると周囲を巻き込み、見境が無くなる。そんなキャラクターだ。イライラもしたが、妙に同調してしまう自分がいた。現実にある推理小説、ミステリアス・トリニティの犯人が好きと、そのキャラクターが公言して憚らなかったのも一因かもしれない。
だってそうだろう? 普通は犯人が好きだなんて言えない。
言えるのは相当イカれてるやつか、正義感が壊れているか、とんでもないひねくれ屋の物好きだけだ。それを堂々と言い切る胆力だけは一丁前にある。
作中で言及されていないが、あの男の好きな犯人とは一作目の二重人格男ではないだろうか。名前は忘れたが、似た雰囲気を感じる。
お陰でそいつは……高畑章はレギュラーでは無いものの、そこそこ役に立つ情報ソースとして数話にわたって登場していた。少しは人気があるのかもしれない。そうだと良いと思う。
自分の趣味に命かけるような阿呆は見ていて気持ちがいいものだ。初めて、西山作品で生き生き動く馬鹿を見た。それだけで、この小説には価値がある。
「ですから、こういった話をもっと読みたいですね……あ」
目の前にいる男の複雑そうな表情を見て「しまった」と思った。西山作品なのに、人が死なない。これはある意味最悪のネタバレを口にした形だ。
「お構いなく。僕、ちゃんと一通り、ぜんぶ、読みましたから」
男は、むず痒さに耐えるように口と目を一文字にひき結んでいた。
今まで気がつかなかったが、男の傍には巨大なスーツケースが並んでいる。
「今からご旅行ですか」
「はい」
触らぬ神に何とやらだったが、俺は話を変えるためにスーツケースに話題をむけた。興味が無いと言えば嘘になる。
「友達に呼ばれまして」
「はぁ」
これだけ大きな荷物ということは長期の旅なのだろう。しかし呼ばれるとはどういうことだ?
質問するほど親しくもないし、興味もない。
早くビールを飲んで暖かい部屋で眠りたい。
「それじゃあ、僕はそろそろ失礼します」
「あぁ、おやすみ」
相手から別れを切り出され、嬉々として手をあげた。同じ階なのだから、また会う事もあるだろう。簡単に挨拶を済ませてお互いに歩き出す。
「そうだ、三井さん」
鍵穴に鍵を挿していると、ごろごろとスーツケースを引きずる音が背中で止まった。
「大きなシュレッダーには近寄らないでください。危ないですから」
俺は疲れも忘れて振り返った。
男の姿はどこにもない。
エレベーターは来た時のままぼんやりした電気をつけているし、廊下の蛍光灯は相変わらず明滅している。
そもそも、最初からおかしかったのだ。
いくら焦っていたとは言え、近くのドアが開けば気がつく筈だし、あのスーツケースを引きずる音を、真正面に来るまで丸っきり無視できるとも思えない。
引越してから家には表札をかけていないし、そもそも、本の表紙はブックカバーで見えなくしていた。
どうして中身を見ずに西山作品だと当てたのか。
「まるでミステリー小説だな」
時間が時間だけに、下手すりゃホラー小説みたいな出来事だ。
だが理由をでっち上げることはできる。
俺は人の気配に気づかないほど疲れていたし、この階に住む誰かと話した覚えもある。それ伝いで名前を聞いていのかもしれない。
本は、拾うときに中身が見えた。
不思議な出来事には大抵、聞いたらがっかりするようなオチが待っている。
「そういや名前を聞くの忘れた」
あの調子ならしばらく会うこともないだろう。飯はビール飲んでからだなと、俺は誰もいない玄関で靴を脱いだ。