第百三十六幕 再開
さわやかな六月の風が吹いた。陽の光はキラキラしていて、バラやフジの花の匂いを運んでくれる。とてもすてきな初夏の夕暮れだった。
こういった景観に不釣り合いな存在、具体的に言うと柵の向こうにいる人々をパッと消し去ることができたら、どんなに素敵だろう。
土の中に全部埋めたら庭の見映えが良くなるに違いない。ただスコップが足りないだろうし、近所のハニーベルさんに見られでもしたら心臓発作で亡くなってしまうかもしれない。なのでこの案は廃案とした。
「君は、誰?」
「私が誰でもあなたには関係のないこと」
ナンシーは質問に答えず、けれどもさくらんぼみたいな唇で続けた。
「しかし、あなたは、私が刺そうとしたことに驚きませんでしたね。なぜですか」
それは、ぼくが彼女の本名がアンナだと知っていたから。
アシュバートン夫人率いる悪の嚢が奉っていたのはマリアの母親、聖アンナ。
名前が一緒なのは単なる偶然だと思いたかったけど、どうしたって連想してしまう。
その後、ナンシーはお菓子屋さんから出てきた。偶然にも、天使ミカエルをドアに掲げたお菓子屋さんから。
ミカエルは菓子職人の守護聖人だから、軒先にぶら下がっていても不思議じゃないけれど、最近よく似たミカエルの彫り物をエルマーさんの書斎机で見ていた。
不思議に思ったのだ。エルマーさんの家に、お菓子屋さん。警察の守護聖人もミカエル。偶然にしては最近目にすることが多すぎると。ミカエル流行してんの? と疑問に思う程度には気になった。
店中に、ナンシーしか居ないのも不思議だった。あの菓子屋はいつも子供たちで混んでいたのに、今日は誰もいない。
マッチポンプ。意味は自作自演。
ナンシーがお菓子屋さんから出てきたとき、もしかしたら警察も悪の嚢も、教会も全員がグルになっていて、ぼくたちを騙しているんじゃないかと考えた。
ぼくは疑わなかったけれど、長年疑心暗鬼で生きてきたトマスはナンシーを疑っていた。祖母が死んでいるのに、ひょいひょい外を出歩いているのはおかしい、と。
糖蜜に混じって覚えのある薬の味がした時、やっぱりなと納得した。そしてぼくに薬品耐性があるという事を知っているナンシーが、この程度で済ませようとしていることを疑問に思った。
中途半端だ、何もかも。彼女らしくない。
ぼくは持っているナイフのなかで一番頼りにしているそれを正眼で構えた。銀色のナイフ。雨の日に手渡された、人殺しの道具。
「勇敢なのは結構ですね。ならば一つ、良いことを教えましょう。ショウは死にました」
「はぁ、そうですか」
亡くなったって、誰が?
正直に言えば、言われたことを理解するまでに少し時間が必要だった。
「ある意味、父親に殺されたようなものですから本望だとは思いますが」
分からない。けれどもガキン、と音がして我に返った。勝手に手が動いて、ナイフを突き出している。
難なく受け止めた彼女に嘘だよねと訊ねると、残念ですと彼女は返した。
彼って、死ぬんだ。
死なないと、勝手にそう思っていた。
何故なら何をやっても死ななかったのだから。
同時にふざけるな、とも思った。
幽霊に違いないと思ったから、殺すのを諦めていたのに。
「私が殺したわけではありませんよ」
「うん、知ってる。今日はやけにお喋りじゃないか、ナンシー。僕を気遣ってくれているのかな」
怒っているのだろうか。
だとすれば僕は何に対して怒り、何に対して落胆しているのだろうか。
帰って来ないと告げられたショウに対してだろうか。
訳知り顔で何も答えないナンシーに対してだろうか。
素知らぬ顔をして家から逃げた兄に対してだろうか。
それとも、僕の殺すべき者を盗んだ不埒者に対してだろうか。
そう考えるこの意思は誰のものだろう。
この思考回路は誰の模倣なのだろう。
誰でもない、起点だ。僕のなかには、ぼくしか存在しない。
あいつが大人しく殺されるタイプに見えますか?
答えはノーだ。
心配するだけ無駄な事。
そうだ、彼は好きに生きて、好きに死んだに違いない。
むしろ清々したではありませんか。煩いし面倒だし邪魔ですし、何の役にも立たないくせに悪びれもせずに居座って……。
思考が混在し、混乱していく。
「思い出すだけで腹が立ってきました」
「あなたから、そのような台詞が飛び出すとは思いませんでした」
大抵の人は隠しているけれど、誰もが心に天使と悪魔を飼っている。
トマスとしての僕は怒り、此処にいる全員の首を切りたいと願っている。
暴力的な感情。
認める。血飛沫、苦痛に悶える人間を見たいと思う。死への憧れは強く甘美だ。気に入らない人間を排除したい。
「貴族の義務なんて忘れていましたけれど、改めて思い出す必要があるみたいですね」
しかし中には不思議な人間もいる。僕にとって、それはナンシーやショウ君。それにレイヴンやエルメダ姉さんといった友人で、彼らからの好ましい影響を取り入れることに何の躊躇いもない。
「正直に言えば、最近まで人を遊戯用畜生としか思っていませんでしたから。そう、うん、一応は女王の所有物で大切な労働力なんですよね。僕が守る義務、ありますよね」
言い聞かせる。
怒る、という感情の根源は悲しみだ。
理性ではない原始の感情。子供の我が儘。母が死んだとき、泣きたかった。兄がいなくなったとき、泣きたかった。
父が死んだときは……嬉しかった。そう、敬愛する父が死んで僕は喜んだ。そして罪悪感から、死を喜ぶべきものとして認識した。本当は、父の事が嫌いだった。
素直に認めてみようか。
一、僕は血が見たい。
二、ショウ君が他人に殺されたのでイライラしている。
三、ナンシーのことは好きだが、アシュバートン氏は嫌いなので血祭りにあげたい。
四、アシュバートン家は英国に対して脅威をもたらす危険人物なので合法的に殴ることができる。
ほら、簡単だ。
「悪人を殺したら英雄ですよね! 良かった、正々堂々これでアシュバートン一族を腑分けする理由ができました!」
吹っ切れた、のだろう。とても清々しい気分だった。
あまり感情を表に出さないナンシーが思わず後ずさる程には、清々しい気分だった。
そんな時だ。ガラガラと大きな音を立てて、何かが近づいて来たのは。
「娘が欲しいなら、私を倒してからにして頂きましょうか。どなたか存じませぬが若い方」
「おう、兄ちゃん。エルメダはんにちょっかいかけときながら、うちのカイルにも手ェ出すとは。ええ根性しとるな?」
「違います違います誤解です! わー、こうやってリチャードと人格交代してたのかー、なんて言うと思うたか! 思ったわ! 感心したわ! ズルいよ、そういうの! 後で覚えていろよ、ショウォォォォ!?」
道の前をエレクトリカルではないパレードが通りすぎる。
通過していく馬車を見送っていると、一羽の小さな鴉が風に乗ってスルリと飛んできた。
(ただいまー)
「おかえりなさい」
まるで僕の頭の中に響くその声が聞こえたように、ナンシーが告げた。ため息と共に色々なものを吐き出し、ナイフを下ろしている。
鴉は一周頭上で回転すると僕の肩に止まった。この、一見レノーアにも見える鴉がなぜ聞き覚えのある声で喋っているのか。そしてなぜナンシーにも見えているのか。僕を置いてきぼりにして、会話は進む。
(やっぱりリチャードはいいよね。実家の様な安心感)
「あなたの実家、今しがた呪詛を吐きながら馬車で運ばれて行ったように見えましたけど」
(弟さんは犠牲になったのだ)
ピョンと鴉は差し出されたナンシーの腕に飛び乗った。
(それより、ナンシー。約束は守ったよ。たぶんね)
「分かっています」
(リチャードも、ただいま。ちょっと見ぬ間にトマス化が進んじゃって)
「だから、トマスは僕なんだって」
もう、彼が何をしようと驚かない自信があった。最初からおかしかったのだから、最後までおかしいのだろう。
なんで、鴉になってるの?
泣きそうな顔で笑うナンシーが、初めて見る彼の姿と重なる。
よし、それじゃあと鴉が両翼を擦り合わせた。
それの意味するところを悟って、僕とナンシーは揃ってアビゲイルを見つめる。
「何よ、二人揃って。ナンシー、あなた裏切るつもり? 終わりが見たいと泣きついてきたのはそっちじゃない。引き継ぎ者が二人も同時期にこの世界を訪れるなんてチャンス、もう二度とないわよ。この機会を逃したら、二度とミステリアス・トリニティの最終回はやってこないけれど、それでもいいのかしら?」
今まで傍観者として見ていたアビゲイルは突然舞台の中心に引っ張り出されて混乱していた。対してナンシーは静かだった。静かに笑っていた。
「はい、その通りです。ですが、もう終りました」
「終りましたって、何を言ってるの」
「最終回ですよ、ミシェル。貴女の世界で原稿が見つかったんです。ですので貴女たち、用済みです」
がくんとアビゲイルの顎が外れた。
(ナンシー、言い方ってものがあると思う)
僕は無言で頷いた。
「それから、今まで黙っていたのですが。私、ミステリアス・トリニティであると同時に、貴女の義理の姉にもあたるんですよ。いつかネタとして使っても良いですよ、フフ。義理の兄は、後で紹介しますね。生きてたら」
ニコニコとご機嫌なナンシーの顔を見た僕は、彼女の腕に止まっている鴉を見た。この鴉は本物なのか幻覚なのか。それすら分からない。
「ちょっと待ちなさい。何を言ってるのかしら、ナンシー、あなたはフィクションの中の登場人物でしょう?」
鴉とナンシー。今の二人の雰囲気がとてもよく似ていると言ったら、怒るだろうか?
「後で詳しいことは分かりますよ。きっと。ハッピーエバーアフターデスワールドと言うでしょう?」
「言わないわよ」
(わーい、夢の過剰戦力だー!)
「バカ言わないで!? ゴリラとアナコンダが手を組んだところで共闘とは言わないわ。ただの災厄よ。ところで今の声、誰!?」
アビゲイルは突然叫んだショウ君の声にヒクリと顔をひきつらせた。聞こえていないはずなのに、その声は彼女の運命を予言したようにも思えた。さらっと僕を数に入れているところを見ると、断られるなんて微塵も考えていないのだろう。
(ねぇ、リチャード。今から僕が言うことをアビゲイルに言って欲しいんだけど)
いいよと僕は答えて、一言一句、その通りに伝えた。
「ところでミシェル監督、日本料理は好きですか?」
「その前振り、貴方に言われるだけで、すごーく嫌な予感がするわ!」
そこからは、乱戦だった。
ミスター・アシュバートンを馬車から引きずり下ろし、ナンシーははしゃいでいた。
いつの間にかネリーさんやエルメダ姉さんも加わっていた。一層混乱し、楽しかった。
惨劇の片隅で、鴉とサーカスの団長服を着た青年が取っ組み合いの喧嘩をしていたけれど、最後の方は二人揃って花壇に腰掛けて此方を見ていた。彼らが一体何のためにそこにいたのか、一体何で取っ組み合いの喧嘩をしていたのか。正直僕には分からない。
騒ぎが収まると二人は、一人と一羽はこつぜんと姿を消していた。ナンシーも居なかった。まるで最初から存在しなかったかのように。
青ざめ、息をきらしたレイヴンが代わりにやってきて、何の騒ぎだと大声で怒鳴った。
その頃にはすっかり僕たちは冷静になっていて、ミノムシにしたアシュバートン親子と、動かない数人の男たちを前に自分達のしたことに頭を抱えていた。
あの熱狂と狂乱はなんだったのか。誰かに諭されてやった気がするのだが、誰に諭されたのかは思い出せない。
レイヴンが手に持っている仮面や、カイルの持っている長鞭を見ると訳も分からず懐かしい気分になるのと同じように、まるで魔術にでもかけられていた気分だった。
そして後に残るのは寂寥。まるで大切な友人たちが、突然世界から消えてしまったような。そんな気分だった。