第百三十五幕 軋轢
【レイヴンの事務所/リチャードの視点】
馬車の窓から見えたのはアシュバートン氏の顔だった。相変わらず神経質で酷薄そうな顔をしている。彼は降りて来ることもなく、不機嫌そうにぼくを一瞥すると片方の頬をピクピクと動かした。
今のは、笑ったのだろうか。そうだとすれば、彼はぼく以上に感情表現が下手だ。酷いとさえ言える。
「よくやりましたね、アビゲイル」
何がよくやりましたね、だよ。何もしていないじゃないか。
ぼくは彼のことが苦手だった。正直、会うたびに剥き出しの殺意を向けてくる相手と仲良くなれる気なんてしない。
ショウ君に言わせれば、若干キャラが被っているから仕方ないとのこと。つまりぼくが抱いているのは同族嫌悪の念らしいのだけれど、眼鏡愛用者と男である以外の点で、ミスタ・アシュバートンと似ているなんて思いたくない。
眠った振りをしながら逃げ出せる時を待っていた。停まった馬車は通りと庭を遮るように巨体を横たえている。随分と誘拐に慣れた御者だと呆れてしまった。
アシュバートン父娘、ロングコートを着た人が三人、御者、そしてナンシー。七人より人数が増える気配はない。
七人。隙を見て逃げ出せそうな人数にも思えるし、難しい人数にも思える。
隠し持っている手持ちのナイフは少なく、心もとない。
ナンシー。彼女は強い。間違いなく戦闘訓練を積んでいる。なんでシスターなんかやっているのだろう。
そして何より、突然ショウ君がどこかに消えてしまったことがぼくたちを動揺させていた。
もういっそのこと捕まってしまおうか。ぼくがいない方が世界は平和になるし、レイヴンやジェイコブもぼくに気を使わずに済むだろう。
そんな事すら考えてしまう。
こんな時、ショウ君なら何て言うだろう。ここに居ない友人について考えた。
何もせずに捕まるなんて却下だ却下ーとか叫ぶだろうか。
トマスは腕を組んでぼくを見ていた。
目を細め、嗤っている。彼が何を言いたいのか、聞かなくても分かった。
誰も殺さないよ。
だけど、死にたくもなかった。
ナンシーはぼくが起きていることに気づいていたけれど、見ない振りをしている。
菓子に薬を入れたり、アビゲイルと話したり。彼女の真意がどこにあるのか分からなかった。
今すぐぼくをどうこうする気はなさそうだし、彼女の狙いはどこか別の場所にあるような気もする。それが何だかは分からない。
「この男を運んで」
アビゲイル・アシュバートンの意識がぼくから外れた。逃げるなら、今だ。
正面の玄関は開いている。そのまま裏口を通って、隠れ小屋まで逃げようと思った。ここでじっとしているよりマシだ。
立ち上がり、椅子をアビゲイルの方へ蹴っ飛ばす。彼女の慌てた声を聞きながら全力で家の中に逃げ込もうとがむしゃらに足を動かした。
取っ手を掴もうと手を伸ばした時、ぞくりと背筋が冷たくなった。何も考えずに袖口からナイフを出して胸元に構える。
どすんと何かがぶつかって、背中をドアに打ちつけた。衝撃に息が詰まるけれど、相手を見失えば終わりだと経験が教えてくれた。
「まさか、貴方に受け止められるとは思いませんでした」
「ぼくも、まさか止められるとは思っていなかったよ」
「ご冗談を。狙って止めた癖に」
ギリと胸元で交差した刃が音をたてる。正確に心臓を狙って突いてきた彼女のナイフをはじき返すだけの力はない。押しとどめておくだけで、精一杯だった。
ナンシーはいつもと変わらない表情で、いや、前よりも少しだけやつれた表情でぼくを見ていた。向こうの芝生に、紙袋からこぼれたゼリービーンズやキャンディの明るい色が広がっている。
「逃がしてくれないかな?」
ナンシーは無言だった。しかし彼女が何らかの言葉を探しているのは明らかだった。ぐるぐるとした彼女の葛藤が目に見える気さえした。
「貴方が死に反する行動をとるのが、不思議で仕方がありません。本来、貴方は死を願っていた筈です。どうして拒むのですか?」
「そうだね。ぼくも自分で不思議だな。これもショウ君が言う『ジャンル変更』の影響かもね」
そんな冗談を言うと、ナンシーが僅かに眉をひそめた。
「そこまで聞いていたのですか」
「まあね。自分が物語の登場人物だって話を、信じる信じないかは別として、彼の話は面白いから」
「忘れなさい」
おかしなことに、むしろもっと聞いてほしそうな顔で彼女は言った。
「教えてくれるなら、続きを聞きたいな」
力をこめ続けているせいか、二の腕がふるえていた。
ナンシーにとって、力任せにぼくを刺すことなんて簡単なのではないだろうか。でも、こうやって会話ができるのは、彼女なりに思うところがあってなのかもしれない。
「私は物語を終わらせます。その為に、あなたを消す。惜しくはありませんとも。あなたの死は何度も見ている。今さらかける情などありません」
ナンシーはそう言って体重を刃先に乗せた。これ以上はもたなかった。
切っ先を刃の腹で流して、方向をずらす。耳障りな音をたて、互いにすれ違った。解放された拍子に一足飛びに横へ飛びのく。
たった数秒の出来事なのに、全力で走った時のような倦怠感があった。
ナンシーからの追撃は無かった。彼女は先程までと同じように物憂げな表情で立っている。
他の六人に気を配るような余裕はない。目の前の相手から意識を反らした瞬間に、死ぬという確信があった。
ぼくが勝てるのは卑怯な手段を使うときだけで、こうやって真正面からの力の押し合いは向いていない。だから、今は逃げるしかない。隙がないなら、作ればいい。
「物語っていうのは、ショウ君がよく言っていた『本編』とかそういう事なのかな」
「はい」
さっきは忘れろと言ったのに。彼女のマイペースさにいちいち付き合っていたら疲れるということは、よく知っていた。
何故なら、僕は彼女の助手でもあったので。
準備運動にしては重すぎる。ぼくは肩を回し、彼女は首を回した。