第百三十四幕 差異
間近で見る馬の巨体。しかし振り上げられた四つの前蹄は空をきった。軋む車輪が大きく跳ね二頭立ての馬車は土を蹴散らしていく。
さすがカイル、道の真ん中にある障害物を避けた。現実なら、さぞ腕の良い運び屋になっていただろう。
しかし甘い。此方も目的を果たした。馬車に乗り込むという目論みは八割がた成功したと言っても……嘘、己の限界に挑んでいます。こんなに全力疾走したことないよ、誰か助けて。
御者台に登る手すりに長鞭を巻き付けたはいいが、思ったよりスピードが早くて乗り込めなかった。これ以上、速度が上がったら諦めるしかない。
馬車同士のカーチェイスは求めているけれど、人vs馬なんて人類頂上決戦お正月特番でしかお目にかかったことがない。況んや己が身に於いてをや。馬車同士のレースの方が、ずっといいよ。ここに需要がある。
特に古典的にして現代的というところがいいよね。御者同士で直線コースを競って欲しい。馬車レース。一口二シリングで良い商売になりそうだ。王室主催競馬みたいな豪華さはなくていい。
そういえば来週は王室主催競馬なのでは?
覚え間違いでなければ、そうだ。リチャードは出席するのだろうか。だとすれば一大事である。
「クリス、大変だ。来週は六月の第三週だ! 初日第一走で検死官なんて凄まじい名前の馬が勝つんだ見たい!」
『今はそれどころじゃあ……凄い名前だ見たい!』
「ネリーさんに匹敵するネーミングセンス!」
同意を得られて、元気も出た。もう少しで密航、もとい駆け込み乗車(物理)が出来そうだ。
ようやく手すりを掴んで昇降台に片足をかけた所で、馬を操るカイルと目があった。
「エリー!」
「こんにちは、あの」
「くそっ、スピードをあげなさい。カイル!」
カイルの悲鳴とエルメダさんのFワードという、世にも珍しいものを聞きながら、飛んで来たナイフを避けた。
後ろを向く。
凄い。今、ナイフ避けちゃった。今度誰かに自慢しよう。
発進しそうな電車、バス、車、ヘリコプター、船、飛行機のタラップに飛び乗る場面を何度もイメージトレーニングして良かった。飛び乗ってきた主人公を蹴落とそうとして逆に放り投げられる敵側の視点でのトレーニングだったけれど、まさか役に立つ日が来るとは。
そんなことを考えていると今度は鞭の握りが降ってきた。殴られる前にカイルの腕を掴む。レイヴンの探偵事務所まで乗せてもらえないかと交渉するつもりだ。
「けして怪しいものでは」
「嘘を吐けぇ! 銃を向けてきた奴が何を言う!」
そうですねと同意する前に、ぴょこっと頭をずらしたカイルの後ろから、エルメダさん渾身のストレートパンチがとんで来た。ナイスコンビネーションに避ける暇もない。
三度目の正直、顔面ど真ん中に入ったせいで、上半身のバランスが崩れる。カイルを巻き込みそうだったので、咄嗟に彼女の腕を離した。両手で手すりを握らなければ折角の乗車が無駄になっていただろう。
エルメダパンチは仮面のおかげで思ったより痛くなかったけれど、仮面で鼻を強く打った。プラスマイナスゼロだね、これ。
『ア"ァー!? 貴重な幽霊グッズがァー!』
吹っ飛ばされ、風でぴょっと流されていった帽子と仮面を見送りながら、クリスが悲鳴をあげた。さりげなく安全圏の荷台側に乗っている。覗き窓は小さい。馬車の中にいる人たちから、僕たちの攻防は何となくしか見えないだろう。
それはともかくダニエルグッズだ。一瞬、馬車から飛び降りようと考えたけれど、重症ではすまないので涙をこらえて我慢する。誰か、拾っておいて。頼む!
四度目に飛んで来た拳は奇跡的に避けることが出来た。今度はエルメダさんがバランスを崩し、その隙にベルトに挟んでいた拳銃を引き抜き彼女の眉間に当てる。いやぁ、一度やってみたかったんだ。これ。
「くっくっく、エルメダさんの頭を吹き飛ばされたくなかったら、黙って此方の言うことを聞いてもらおうか」
咄嗟に口に出したいチンピラ会話基礎編である。
ちなみに実社会、英語圏で使うと本当に命の危険があるので、良い子は使ってはいけない。ダーク文法なのだ。
「カイル、こいつを振り落としなさい! 私はどうなっても構わな……」
エルメダさんが僕を正面から睨み付け、そして静止した。
どうかしたのだろうか。彼女の視線がおかしい。ぼんやりしている。またヤバい薬でも打たれたのだろうか? 二人の服に蜘蛛の巣が大量にくっついているところを見ると、一戦交えてどこかから逃げていたようだ。その際に怪我でもしたのだろうか。
「そんなこと出来ないよ!」
「えっ、あっ、そうですね?」
カイルへの反応も変だ。間違いない。
銃をベルトに戻して、動かないエルメダさんのおでこを触った。熱い。頬なんて真っ赤だし、熱があるようだ。
「脅かしてごめんね。もしかして怪我、してる?」
「びぇっ、別に全然何とも冷静で、ななな、にゃにするんですか!」
あ、これ。多分ダメなやつだ。ろれつが回ってない。額に当ててた手を払い落とされた。そんなに怒らなくてもよくない?
「私の頭上で何かが始まった」
「あっ、カイル。悪いんだけど、レイヴンの事務所寄ってくれるかな?」
「いいよー、私たちも向かってたトコだし誰だお前は!?」
「僕だよ」
「だから誰だおまえピャッ!?」
カイルも、僕の顔を見あげるなり顔を赤くして奇声をあげた。リチャード……君、僕のいない間、二人に何かしたの?
「カイル、前見て運転」
「ひゃい」
『忘れてるようだから言うけど、今の君の顔は、リチャードじゃなくて僕だから』
そうでした。屋敷のメンバーと一緒にいるせいか、リチャードでいる気になっていた。つまり、今は。
さよなら、イケメン補正! こんにちは、格差社会!!
「神とか遺伝子とかに愛されたハリウッドスターの中に、凡人として放り込まれし我が運命を呪うときが遂に来たか!」
『そう言うことだ! 道行く人の足の長さが羨ましいかつ恨めしい。略してうらやめしい!!』
「この訛りかた。どこかで聞いたような?」
「私も、そのような気が」
信じてもらうべく真剣な表情で向かい合う。びぇっという悲鳴が再度二人の口から飛び出したけれど、慣れてください。顔を見られる度に悲鳴あげられたら僕は泣きそうです。そりゃあ仮面だって欲しくなるよ。
「信じてもらえないかもしれないけど、ショウだよ」
「どっ、どちらのショウ様ですか?」
少し考えて答える。
「ライン君ちの」
ガラガラガラガラと馬車が音を立てる。二人の視線は此方を向いていたけれど、心ここにあらずといった感じだった。
「で、何でしたっけ」
「どちら様って話だった気がする」
再起動した二人が交互に言った。
「で、どちら様ですか」
「ですからショウです。リチャード君と一緒にいた」
再び時間が止まる。
「で、何でしたっけ」
「どちら様って話だった気がする」
それから、まったく同じ会話を二回繰り返し、僕は彼女たちの説得をあきらめた。説得どころか会話もあきらめた。
記憶を拒否するほど信じがたいってどういうこと!?
実在してるよ!
「カイル、そろそろ右折」
「ふぁい」
「エルメダさん、しっかり」
「ひゃい」
僕は大丈夫だ。まだやれる。まだ立ち上がれる。泣いてない。