『未完成』
或る日、めったに来ない客人の来訪を告げるベルが鳴った。
ナンシーの部屋に戻ってきたクリスは困惑した様子だった。
「今のは誰だったのですか」
「ジャックとアビーに遊ぼうって誘われた。いってきても、いい?」
近所に住む二人の子供の名を出され、ナンシーは激昂した。
「勝手にすれば!?」
弟に向かって、本気で物を投げたのは初めての事だった。ゆっくりとした足音が階段から聞こえ、申し訳なさそうな顔でとぼとぼと歩く弟の姿が目に浮かぶ。じわりと涙がにじみ、慌てて袖で拭った。
二階の窓からナンシーは庭を見下ろしていた。赤茶けた土しかない田舎町。何もない。
あれだけ煩いと思っていた弟も、いざ居なくなるとどこか物足りない。
窓の外では三人の子供が風車を回して遊んでいる。
(私は走れないのに。見せつけるために走っているの?)
何を見ても怒りは増すばかりだった。自分の傍にいるときは黒に見えるクリスの髪の色も、太陽の下では茶色に見えた。それもまた、知らない一面を見せつけられたようで癪に障る。
見下ろされていることに気付いたのか、クリスがナンシーに向かって手を振っていた。
(もう、知らない!)
窓から離れ、ナンシーは部屋に戻った。何か別の事に意識を集中させようとするが、上手くいかない。いつもの「ごっこ遊び」もクリスがいなければ盛り上がらなかった。
(あの子、そういえば一度も自分をキャラクターにしようとはしなかった)
思い返せば、彼はいつも他人を喜ばせようとしていた。
(しかし、よくもまぁ、あれだけスラスラと考え付くものです)
しかし、いざ想像してみようとなると、上手く像が結びつかない。
(体は小さい。頭と目は良くない。紅茶を淹れるのが上手。それから?)
完。となりそうなところを必死に繋ぎ止め、何とか形にしようとする。
(大きくなったら何になるんでしょうね。サーカスの団長、怪盗……)
詐欺師は無理だ。バカだから。斜線で消す。
書いていく内に楽しくなってきた。白い画用紙がどんどん埋まっていく。
帰ってきたら、クリスに見せてやろう。驚くかな。
……喜んで、くれるかな?
さっきはごめんって、言えるかな?
「名前は舞台っと」
彼はきっとエンターテイナーになるだろう。
大人になれば父と同じ、脚本家の道を歩むかもしれない。
黒いクレヨンで帽子と燕尾服を書いてから、むむっとナンシーは唸った。彼女は絵を描くのが苦手だった。特に顔を書くのは難しい。白い丸がポッカリあいている。
(まあ、いいか)
そうやってスケッチブックに没頭していると、遠くから車のエンジン音が近づいてきた。
(ママじゃないよね。まだ帰ってこないもの)
ナンシーは窓から外を覗いた。
見慣れないトラックが家の前に停まっている。ナンシーの頭に警鐘が鳴った。
(誰だか分からないけれど、クリスを家の中に入れないと)
彼女は転びそうになりながら玄関へ向かった。
一発の銃声が聞こえたのは、そんな時だ。すぐ間近でエンジン音が聞こえる。恐怖ですくんだ足が動かない。
「わ、私は……」
それどころか反応が後退しようとしている。
ダメだ。ダメだわ。
「私はシスター・ナンシー」
思い込まないと。私は、強い子だって。弟を守れる、姉なんだって。
「こんな所で怖がる性格じゃない!」
ナンシーは護身用にキッチンナイフを掴むと、玄関のドアを開けた。
トラックの荷台に乗っていたのは隣の家に住むジャックとアビーだった。
「久しぶりね、ジャック。アビー。クリストファーを見なかったかしら?」
ナンシーを見ても二人は声を出さなかった。それどころか、表情を一つも変えなかった。荷台の上から屠殺用の豚を眺めるように見下ろしている。
次第にトラックは速度をあげ、大きなエンジン音を立てて小さくなった。見えなくなってから、ようやくナンシーは動くことができた。
「いまの、何よ」
そして、気がつく。
「クリス?」
弟の姿がどこにも無い。
「クリスー!」
声の限り叫ぶと、砂が喉に張りついた。
咳き込む。いつもだったら「なーに?」能天気な声を出してやってくるのに。
持ち主のいない風車が、地面の上でカラカラと回っている。
血が、ついていた。
その時のナンシーに冷静さなど無かった。彼女は裸足のまま、あぜ道を駆け出した。
あのトラックだ。
様子のおかしいジャックとアビー。
そもそも、クリストファーを毛嫌いしている筈の二人が遊ぼうと声をかけたことがおかしい。
トラックのタイヤ痕を辿って行けば、必ずにあの二人に追いつけるはず。
しかしナンシーがいくら走っても、景色は動かない。足は重く、肺から血の味がする。
晴れ渡っていた天気は次第に雲行き加減が怪しくなり、太陽は次第に重い雲に隠れて行った。
呼吸がくるしい。涙が浮かんでいるのか、前が見えない。足の裏はとっくに擦り剝けてしまった。
雨が降り初めた頃、ナンシーは走るのを止めた。とぼとぼと、雨のなかを歩く。
(絶対に見つける。ぜったいに)
それは狂気の眼だった。手に持ったキッチンナイフが雨粒を受けて輝いている。
あのトラックに乗っていた二人に対する怒りは、いまや自分への怒りにすり替わっていた。
(トラックには運転手がいた。でも、誰? この辺りでは見た覚えのないナンバーだったわ。でも)
口に入った雨粒を道端に吐き捨てる。
(アビーとジャックの知り合いであることは間違いない)
そんな時、背後からゴォという音と共に二つの眩しいライトがせまって来た。びしょ濡れになりながら、ナンシーは一つの閃きに希望を寄せる。
(助けてくださいって、あの人達に言おう!)
雨の中、彼女は大きく手を振りながら道の真ん中に立ち塞がった。
きっと止まってくれる筈。
「えっ」
けれど彼女の期待は裏切られた。車はスピードを緩めるどころか、加速する。
肉の破れる音がした。
「おい、どうすんだよ。これ」
「あー、日本人と看護師のところのガキだな。ジェイクがレイプして出来た方だ」
なぁんだ、と青年は言った。
「なら死んでもいいか。ジェイク気にしてたもんなぁ。でも、どうしてこんなとこに居たんだ?」
「バートンが近々目障りだから日本人を消すって言ってたじゃないか。大方、殺された弟を追いかけてたんだろ」
「兄弟愛とか絶対に言うなよ。寒気がする」
「敵国人との間に出来たガキが人間気取りしてんだから始末に終えねえ。それにこっちは、ただ便所のクソだ。俺たちはただ水を流しただけだ」
「便器にこびりついたジェイクの種をさっぱり流したってか? 考えたくもないね。後はコヨーテに任せてさっさと行こう」
笑い声と共に男達は去っていく。赤とブルーの線。赤いランプ。ポリスと車の横っ腹に描かれた文字。
それをナンシーが読む事はない。
ひき逃げ遺体を見た母親は、何も言わずに袋を持って帰った。
その日の午後から降り始めた雨は三日間降り続き、証拠が洗い流されたとして地元警察は犯人の逮捕を諦めた。
その二日後、人里離れた沼近くの馬小屋で遺体の一部が発見された。
顔や手足などは鼠などの害獣による損傷が激しく、身元を特定するものは、服を含めて何一つ発見されなかった。
死後硬直が始まったばかりだと判断した医師は「死んだのは数時間前」と言った。
死体は、事故死と断定され身元不明死体として共同墓地に葬られる。
事件性はないと判断されら検死は行われず報告書も周辺地区への連絡もなかった。
混血児、貧乏人、災難で身籠った子が暴行の末に捨てられるのは珍しい事ではない。邪魔だからだ。
同じように、金色の髪と白い肌を持たない者は危険な動物と同じ。早めに処理しておかないと、いつ牙をむいてくるか分からない。
だから、彼らがある日消えたとしても、誰も気にとめない。その命に足を止めるほどの価値はない。娯楽の一瞬として口の端に上り、消費され、嘲笑され、捨てられる。
閉鎖し孤立した社会は麻痺しやすい。憂さ晴らしのための、暴力的な娯楽が必要だと誰もが信じていた。
生け贄に人間が使われる。そんな時代の話である。
その時代を、どうしても許せない者もいた。