第百二十八幕 或る映写技師の告白
階段下で動かない彼を見て、とても美しいと思いました。
均整がとれた美しさではなく、芸術的という訳でもありません。ただ「娯楽映画における見本の死体」というべき条件を追求し、兼ね備えているように、私には思えました。
彼と出逢った当初は、これほど長い付き合いになるとは思いませんでした。
いつからパレス座に通っていたのかは分かりません。気がつけば、当然のように、彼はこの階段に座っていました。
背が低く痩せていて、感情というものを殆ど表に出さない少年でした。
映画に対して並々ならぬ興味を持っているのは誰の目から見ても明らかで、喜怒哀楽の「楽」だけで生きているふしが見受けられました。
映画館に来るものの、階段に座りどこか遠くを見ているばかりで、まるで人形の忘れ物のようでした。
彼が壁に貼られた全てのポスターを目に焼き付けていたのだと知ったのは、もっとずっと後の事です。
「映画を観るだけのお金も、年齢もたりないので、ポスターを見てどんな話か想像してました」
おかしな子供です。
哀れに感じて、ポスターを一枚ほど譲りました。彼が私に向ける絶大な信頼は、たった一枚のポスターによって築かれたものなのです。
おかしな子供です。
その印象は大人になってからも変わりません。不気味さはなりを潜め、年相応の振る舞いを身につけはしましたが、中身はまるで変わりません。
彼の目が特に輝くのが『ミステリアス・トリニティ』と呼ばれる映画に関する話題で、それが私と彼の縁をいっそう強く結び付けてしまったのは、双方にとって皮肉な結果だったといえるでしょう。
彼は誰よりもあの作品の登場人物を愛していましたし、私は誰よりもあの作品の登場人物を憎んでいました。
私たちは対極に位置した者同士でしたが、あの作品に強い想いを抱いている点においては同類でした。
だから私は彼を消そうと決めました。私が共著者だと突き止められる、その前に。
アンデル監督が今作でミステリアス・トリニティの監督から降りるという発表が行われました。この発表は世界にどれほどの衝撃を与えるのでしょうか。
これを利用して自殺にみせよう。そう思いました。
彼は映写室下の椅子が気に入っていて、空いていれば必ずそこに座ります。睡眠薬を塗った針を椅子のクッションに仕掛け、眠ったあとは映写室の窓から垂らしたロープを首にかける。たったそれだけのことができませんでした。
まず彼は眠りませんでした。針の位置が悪かったのでしょうか。のど飴の袋を開けたりと動いていました。上映中には極力音を立てないように気遣う普段の彼との違いに、私は戸惑いました。
いざという時になって、今度は停電が起こりました。
暗闇の中で縄を首にかけるのは至難の技です。
アクシデントばかり。
自殺から事故死へ変わっても大した違いはないと思い始めていました。
監督の発表にショックを受けた男が一人、閉館している映画館に侵入し、停電に驚いた拍子で階段から落ちてしまった。
あり得ないと思うでしょうか。高畑という男をよく知る人であれば「あり得る」と思うはずです。むしろ都市伝説じみた噂の一端になれると喜びそうな気がするのは私だけでしょうか。
噂。『ミステリアス・トリニティ』を見た人は自殺するという噂ですが、それは間違いです。正確には『ミステリアス・トリニティ』を読んだ特定の人物が自殺しただけなのです。
かつて私たちは不可視の凶器を作り上げました。
「物語を使って殺人を行う」という方法を、誰が信じるでしょうか。何故ならそれはとても遠回しで、不確かな方法だからです。
けれど妻はやり遂げました。
私のやったことは彼女の話を少し脚色しただけ。
登場人物の名を少し変え、殺害方法に見覚えのある情景を紛れ込ませ、どこかで交わした事のある会話を散りばめただけです。
あの閉鎖的な田舎町で起こった殺人事件の全容を知る者はいません。
関係者はすべて――バートン夫妻も、ジェイク・フォードも、ジャクソン巡査部長も、バグス署長も、この世にいないのですから。
彼女の行った殺人は完全犯罪です。いえ、殺人ではありません。彼らは自らの意思で命をたったのです。
けれど私は違います。直接この手で殺しました。
彼は、彼自身も気づかないまま、まるで物語に出てくる事件記者のように、私たちに繋がる全ての札を揃えてしまったのです。
もうすぐ私は死にます。けれど「ミステリアス・トリニティ」の真実に気付きそうな人間を、残してはおけませんでした。
妻が死んだ時に届けられた小さな箱は今も私の部屋で眠っています。
開ける気はありません。あの中に入っているのはミステリアス・トリニティの最終稿。主人公レイヴンが自殺する最期です。
ライン卿の痕跡をこの世から消すために、レイヴンは動いていました。
殺人犯がアシュバートン家に目をつけるように画策し、ジャクリーン巡査部長の殺害場所にわざと遅れて到着しました。
燃える屋敷のなかでリチャードを射殺し、エルメダとカイルの口を自殺に見せかけて封じました。
ジェイコブを自分の代わりに襲わせ、そしてウィリアムを殺した彼の最後の仕事は、自分自身を消すことです。
それが私をモデルにした探偵の最後。彼は、血を絶やすことで自分の正義を貫いたのです。
高畑章がその結末を知らずにすんだのは、幸いだったのかもしれません。
「タカちゃんいるー?」
そんな時でした。間延びした声が扉の向こうから聞こえて来たのは。私は死体の傍を抜け、そっと正面玄関の様子を伺いました。
映画館前に立っていたのは、彼の知り合いでした。
ライブハウス通りでよく見かける人種。すなわち仮装をしながら音楽を奏でる人々です。
彼らが無害だということは重々承知しています。しかし、どこか軽薄で退廃的な空気を纏う彼らのことを、相容れない世界に住む異界の住人のように感じていました。
キィ君。彼がそう呼んでいたのを覚えています。
首飾りのようにゴーグルを垂らした赤毛の青年です。彼の身に纏う最も過剰な装飾の一つに革の眼帯があるのですが、長髪や長い付け爪の中では不思議と調和しているように見えました。
彼は扉を数度引っ張り、鍵がかかっていることを確認すると肩をすくめました。完全に闇に覆われた劇場内を見るには、携帯電話の明りはやや頼りないものです。諦めたのか、首を振って扉の前から離れていきました。
なぜキィ君から隠れて様子をうかがったのか。理性的な説明は難しいものです。私がすべきだったのは慌てた様子で彼にかけより助けを呼ぶことだったのでしょう。
そう思って振り返った先には、相変わらず一つの死体が刺さっていました。そして隣には一人の男が、座っていました。