第百二十七幕 『 』
「ほわっちゃあ!?」
眠りに入る時は落下。起きる時は浮上。
あの感覚を初めて文字に起こした人は偉大だ。
落下するように起きる。ガクンとした、うたた寝特有の感覚で目を覚ました。
裏返った悲鳴を上げても咎める人はいない。ただ一人、隣の椅子が観客の無作法を非難するように跳ね上がる。
閉じた椅子の隙間から、コートや鞄、のど飴の小袋が床に落ちていく。
所持品の行方を見守りつつも、すぐには拾う気になれなかった。まだ崖から落ちた生々しい感覚が残っている。夢と現実の境目があるとすれば、それは一体どこにあるのだろう。
ここは、さっき見た僕の精神世界にあまりに似ていた。
決定的に違うのは、このパレス座が無音と冷たい闇で満ちていることだった。スクリーンに映し出される映像はなく、眠気をさそう暖かい空調設備の音もない。そんな異様な映画館に戻ったせいで、未だ現実にいる確信が持てない。
のろのろとした動作でしゃがみこむと、最初にコートのポケットをあさった。携帯電話の電源を入れると今の僕に負けず劣らずの寝ぼけた速度で起動していく。ミス・トリグッズの一つである鴉のストラップが暇そうにブラリと揺れた。
上映中は携帯電話の電源をお切りください。けれど、今は上映中ではないし、客席には誰も座っていないように見えるから、少しのマナー違反なら許してもらえるだろう。
ようやく目覚めた携帯が、メールを二通、ぽんぽんと吐き出す。
差出人を見るとキィ君からだった。今の時刻は日付を跨ぐ少し前。届いた時刻はそれよりさらに二分前。ミス・トリならちょうどアビゲイルがどえらい目にあっている頃で、キィ君たち“Jules”なら二次会に突入する時間だった。
一通目『停電すごくない?』
二通目『場所変えて飲むけど、来る?』
電子が放つ白い光の中に文字列が浮かんでいる。
停電。文章の意味を頭に染み込ませる前に、手は長年の慣習から返信作成ボタンを押していた。夢遊病者のようにThanks,butとまで入力して、慌てて消す。
頭の中が日本語に切り替わるまで、少しの時間が必要だった。
ほぼ間隔をあけずに来た二通のメールに対して『誘ってくれてありがとう。やることあるから、またこんど。みんなによろしく伝えといて』と打ち返す。
『おけ』
すぐに返ってきた返信に、思わず苦笑をもらす。
遠くにいる人に伝言を飛ばすには、もっとお金と時間が必要なのではないだろうか。
現代はこんなにも便利だったのか。
普段何気なくやっていたことが、途方もない価値の上でなりたっていたのだと気づかされる。ようやく脳が「現実」を理解しはじめていた。
西山さんを探さなきゃ。
立ち上がった拍子に、床に散らばっていたのど飴をさらに蹴飛ばしてしまった。おそらく、辺りにはかなりの量が散らばっているはずだ。ごめんなさい、あとで拾います。そう呟いてディスプレイの明かりを頼りに劇場を出ようとした。
振り返る。さっきから何かがほんの少しだけ違うような。そんな違和感。気のせいだと思うことにして、劇場を後にした。
この一帯が停電になっているのか、ドアから見える外のビルも真っ暗だった。ただ、パレス座の中は目を瞑っていても問題ないくらい歩きなれている。携帯という光源のお陰で目的地までたどり着くことができた。ミス・トリの中では暖色の炎ばかりだったから、携帯ライトのぼんやりした青白い光が奇妙に映る。
「西山さぁーん」
久しぶりに聞いた自分の声は、腹に力が入っていないせいか、情けなく聞こえた。
ロープに貼られた「スタッフ以外立ち入り禁止」の文字。いままでそのエリアに立ち入る事は無かったけれど、この先がそうであることはよく知っていた。
上には映写室があって、いまは改修工事をしていること。本当は改修工事じゃなくて、老朽化に伴う応急措置にしか過ぎないってこと。階段下の床板は腐っていて、この前お客さんが踏み抜いてしまったこと。よっこいしょと遠慮なくロープを跨ぐ。
パレス座は古い。だから昔なじみのお客さんが大勢いる。だけど、建て直すほど儲かっていない。あちこちにガタがきているのは誰もが気がついていて、それでも西山さんの年齢と交えて軽いブラックジョークのネタにする程度には開けた話題だった。
アルバイトも雇えず、ライブハウス通りにひっそりと化石のように取り残されている娯楽。緩やかに、けれど静かに終わりに向かっている場所。その中で、たった一人の従業員である西山さんは、どんな気持ちで働いているのだろうか。
「危険」と三角コーンが立てられている部分を避けて、階段下に立った。踏み抜かれたという床板は折れた鋭い部分が天井に向かって伸びている。確かに、これは危険だ。階段から落ちたりしたらグッサリいってしまいそう。手すりを支えに、一段ずつレッドカーペットの敷かれた階段を昇っていく。
「にっし、やっま、さーん」
「はーい」
遠くから、けれどはっきり彼だと分かる凛とした声が聞こえてホッとする。停電の古い映画館というシチュエーションは確かにときめくけれど、一人だとちょっとだけ、腰が引けてしまう。
背後から殺人鬼が出てくるのは映画や物語の中だけだと分かっているけれど、それでもハラハラしてしまうのは、人が死ぬ映画を見過ぎたせいだろうか。
「すいません、高畑さーん。動くことができないので、こちらまで来ていただけますか!」
「分かりましたっ」
ミステリアス・トリニティの事。トム・ヘッケルトンの事。少女の事。写真の事。原稿の事。
聞きたいことは色々あったけれど、余裕のない彼の声に全てが吹っ飛んでしまった。
正直に言えば、僕には切羽詰った西山さんの姿がまったく想像できなかった。
どんなときでも笑顔で、余裕のある、立ち姿が格好いいロマンスグレーの紳士という印象で、このように焦った声を出すということすら、考えたこともなかった。
彼がミステリアス・トリニティにどう関係しているのか。どんな思いで僕と今までミス・トリの話をしていたのか。
さっきまでのことは全て僕の夢で、最後のミステリアス・トリニティ原稿を西山さんが持っているだなんてことは無いのかもしれない。
そうだとしても、さっきまでの夢を彼になら話して良い気がした。西山さんなら、おもしろおかしく聞いてくれるはずだ。
だから、階段の上に立っていた西山さんの姿をみてホッとした。彼の持っている巨大な懐中電灯の白光が眩しくて全身は見えなかったけれど、怪我をしているようには見えない。
大丈夫ですか、と訊ねようとして言葉が口の中で消えた。
「えっ」
口に出せたのはこれだけだ。
はて。
あまりに巨大な疑問であったようだ。それ以外の言葉が出てこない。
これは、つい先刻味わったばかりの浮遊感なのだ。
もっとも、今回は先程よりも短時間旅行になるだろう。
「あなたのことは、友人だと思っていましたよ」
光の向こうの西山さんは、普段と変わらない声色でそう告げた。
彼は微笑んでいた。自分の意思に反して遠ざかっていく西山さんの黒い影を焼き付けようと、目を見開く。
「僕も」とそんな切り返しが出来るほどの時間はなく、「どうして」と聞く時間はもっと無い。
大変残念なことに、突き飛ばされた僕の着地点はどう頑張っても床から突き出たあの鋭い板の先になるし、ここは現実だ。
猫のように宙返りして着地するほどの運動神経はない。トマスと遊んでいた時のように生きかえることもない。
――まだ、夢をみているのかも。
(西山さんが突き飛ばすはずないからこれはバランス崩して事故死ってことになるのかなはずかしいなあいま死んだばっかりなのにもう一回なんてアドリブモノローグにも限度があるっていうかさすがに今回で最期だろうけどどうせならさっきうつ伏せでジャンプした方が良かったそうしたら両面コンプリー)
ぐしゃりと。
鎖骨は砕け、肋骨と共に皮膚と布地を突き破り露出している。脊椎を切断した木片はてらてらと切っ先を濡らし天を仰いでいた。自重と重力で沈んだ肉から聞こえる音は回収車に巻き込まれたゴミの音によく似ている。
ゴムホースの血管から壊れたように黒い血液が流れ出していく。病的に動き続けるのは破れた横隔膜が痙攣しているのか、流れ出る血液を止めようと筋肉が無意味に収縮を繰り返した結果なのか。高畑章という男がどの時点で死んだのか断じることは出来ない。苦痛の呻きも無く最後の儀式として口から大量の酸素と血液を吐き出し、ようやく動きを止めた。萎びた風船のようにごとりと指の隙間から携帯電話がこぼれ落ちる。
懐中電灯の光が照らし出す死に様は、彼が生前求めて止まない形をしていた。
白いスポットライトの中で、人が死んでいる。