第百二十六幕 落下(後編)
【scene レイヴン事務所(表庭)】
安らかな寝顔、といえば聞こえは良い。方法はどうあれ穏やかな表情は相手の警戒心を下げるのに役立つ。
冷めきった紅茶を口にしながらシスター・ナンシーはそう考える。
伏せたまま動かなくなった友人の前で口にする好物は、いささか味が薄いように感じられた。
菓子屋で買った砂糖菓子の中に睡眠薬が入っていると誰が考えるだろうか。少なくとも、目の前で眠る彼は考えなかった。
「あら、もう始めていらしたのね」
視線を上げると、砂色の地味なドレスを身に纏ったアビゲイル・アシュバートンが柵越しに微笑んでいた。
「ミシェル」
「アビゲイル、よ。今はね」
アビゲイルの返事にナンシーは僅かに目を細めた。愛らしい少女が足を踏み入れても、花に彩られた屋敷の茶会に客人が一人増えたとしか思われない。妖し気な笑みを浮かべたアビゲイルの腕がナンシーの首に絡みつく。端からみれば、可愛い少女の戯れだ。
「いいわ。今は誰の目も無いのだから、私もうるさく言わない。その代わり……分かっているでしょう?」
「手短に、お願いします」
次の瞬間、晩餐会の時の険悪な雰囲気が嘘のように霧散し、アビゲイルはナンシーの背中を抱きすくめた。
「やーん! 本物のシスター・ナンシー! キャーッ!! お人形さんみたァーい! やだ、もー信じられなーい!」
「はぁ」
「デヘヘッ、フヘヘ!」
「はぁ」
最近、外から来るのはこんな人ばっかりだなぁ。
ナンシーはぼんやりしながら、半ば無機物的に抱きしめられていた。背中から聞こえる絶叫の中にハートマークの幻影が見える気もしたが、長年の勘から気付かないでおこうと揺さぶられるままにしておいた。
ナンシーをひとしきり抱きすくめるとアビゲイルは満足そうに息を吐く。
「補給したわ。我慢すると疲れるのよ」
「はぁ」
無表情。しかし先ほどより明らかに下がったナンシーの機嫌を取り戻すように、アビゲイルは慌てて本題に入る。
「この子たち、あなたなら警戒されずに捕まえられると任せたけど、正解だったわね。アシュバートン家の家長様はカンカンだし、楽には死ねないんじゃないかしら! あの隠れSM夫婦が何をしでかすのか、楽しみね」
「そうですか」
「うふふっ、狩る側にまわるのって最高の気分」
ナンシーの視線を追い、アビゲイルもうつ伏せのまま動かないリチャードを見た。動物園で初めてゾウを見る幼子のような眼差しだった。
「アリスは?」
ナンシーは視線だけ動かし、ここに来る予定だった女主人の姿を探した。
「アリスは……間違えた、ママは家に戻ったそうよ。探偵が何をしたのかはしらないけれど、あの人を相手にとんでもない喧嘩をふっかけたのは間違いなさそうね。お気に入りだったビルをキズモノにでもされたのかしら。そういえばデルマン・トナーはどうなったのかしらね。あとで詳細をバグショー警視正に聞いてみなきゃ! パソコンも電話も無い時代って、不便よねぇ」
無邪気な顔のまま、アビゲイルは口元をぐにゃりと歪めた。
「でもいいの。彼をアシュバートン家に公式招待できるのなら、どんな不便だって我慢するわ」
公式もなにも、連れ去る為に一服盛った時点で非公式なのでは。そう思ったナンシーにツッコミをいれる人間は誰もいない。遠くから、パカパカと呑気な蹄の音が近づいてくる。
「パパの部下が迎えに来たようね。ずいぶん遅いこと」
「アビゲイル」
ふと、ナンシーは先程ノーロープノーパラシュートでバンジーした男の事を思い出した。
彼は一応リチャードの止め役として役割を果たしていた。でも、今は?
リチャード・ラインは薬物に対する耐性が高い。あれぐらいの睡眠薬で、本当に眠るのだろうか。
なにかしら。呼ばれた少女が振り返る。
「何でもありません」
緻密な策略など性に合わないのだが。目の前の友人はピクリとも動かない。けれども飴色の瞳がじっと柵の外を見つめていた。
「暴走特急は一人で十分」
現タイトルホルダーは静かに目をふせた。
【scene グリーンタワーホール】
「もうお家帰らせていただきますぅー!」
「それなら私もお家帰るぅー!!」
突然警官に押し入られ、警告も無しに発砲されているのだとすれば、振り向かずに廊下を全力疾走するマットとカイルの判断は正しいものだと言えた。涙は出ていないが心情的には泣き叫んでいる友人二人に挟まれ、背後から聞こえる小型拳銃の音に肝を冷やしながら、李はこの悩める状況に眉を寄せる。
「どないした、李はん。困った顔して。え、二人がそんなに離れてしまったら寂しいから嫌だって? あかんー、こんな時なのに泣けてきたー!」
「リーちゃん! 私たち、生まれた日と場所は違うけどぉ、死ぬときは一緒だよぉー!」
「せやな! 具体的に言うと今日やな!」
「マット君、自重ー!」
友情の誓いは「あそこだ」と叫んだ無粋な声で中断した。
「せやけど、なんでワシら農民一揆みたいなことに巻き込まれとるん? いま、何世紀?」
「世紀末かなー」
「世紀末ならしゃーないなー」
軽口が叩けるほどの余裕はある。けれど立ち止まるほどの余裕はない。コーナーを曲がれば下に降りる階段が見えてくるはずだった。しかしそんな彼らがメイン階段に辿り着いた時に目にしたものは、蟻のごとき黒い大群が玄関から押し寄せてくる光景だった。いたぞ、とその内の何人かが頭上を指差している。
「お客さんにしては!?」
「ちょいと多すぎやね!」
「ようやく見つけましたよ」
望みをかけていた出口を奪われ、どう逃げるかと頭を働かせていた三人に、下の暴漢と同じような意味合いの言葉が投げつけられる。しかし、聞き覚えのある穏やかな声に喜色を浮かべて振り返った。
「エルメダはん、ネリーはん!」
「皆さん、ご無事でなによりです。詳しい話はまた後程。今はここから逃げる事だけを考えて下さい」
落ち着きはらったネリーの横で、エルメダが腕を動かした。
「こちらに隠し扉が――……」
ふいにメイドが言葉を切る。まったく同じタイミングで、割れ物の音が屋敷中に響きわたった。ちょうど階段を上っていた何人か、または居合わせた不幸な誰かの悲鳴が重なっていく。
「……私、か弱いメイドですから、屋敷中に罠を仕掛けながら逃げることしかできませんでしたの」
「さすが罠師」
「高価なものを競売所に運び出しておいて助かりましたね」
のほほんとネリーが付け加え、彼は並んだ西洋甲冑の隙間に手を差し込んだ。二度ほど押し、槍の柄をずらし、手慣れた様子で見えない鍵を解除していく。埃と砂埃を落としながら開いた背後の壁は、ずいぶんと長い間、扉としての仕事を忘れていた。
隙間に吸い込まれた五人の影が消えると、頑固な一方通行の扉は再び眠りにつく。
「……そういえば、この屋敷は燃えやすいと言っていましたね」
ゴトンと音が生じ、壁が閉まる。不穏な呟きを最後に残して。
【scene 貧民街】
「俺たちはどこに向かって歩いているんだろうな、探偵」
「明日に向かってではありませんか?」
「おい」
「分かっています 」
声を潜めたダニエルは、先頭を歩くレイヴンの横で耳打ちした。目線で交わすのは警戒ではなく戦闘準備。戦闘前の兵士が見せる鋭い殺気と周囲の状況を正確に把握する冷静さ。そのどちらもを併せ持った指揮官からダニエルは半歩ほど身を引いた。
「ジャクリーン」
「七人だ」
前を向いたままのジャクリーン巡査部長が低い声で答えた。制服として至急されるベルトのバックル、ボタン、警察帽の飾り。前方を歩むダニエルの装飾品に映り込んだ影をカウントした結果、ジャクリーンは七と検討をつける。
「しかし正確な人数とは言えない。それ以下はない、程度に思っておいてくれ」
「最近、尾行に縁があるな」
「まったくだ」
軽い調子で言うダニエルとジャクリーンだが、互いに表情は固い。
「どう思う、探偵。あんた、尾行されるような心当たりがあるんだろう?」
「ありすぎて困っていたところです」
道を塞ぐように一人の男が立っていた。黒いチェスターコートのポケットに手を入れ、痩せた死神然とした風貌の中、ぎょろりとした目玉が危ない光を湛えている。
「警視正なぜここに」
「ジャクリーン、行くな。何かがおかしい」
駆け出そうとするジャクリーンをダニエルが止めた。
「惜しい。八人だ、ジャクリーン巡査部長」
不吉な気配を纏わせながらバグショーはゆっくりと口を開いた。
「君たちの尾行をしていたのは、私を含めて八人だよ」
シングルアクション、キャップ&ボール装填式、中折れ回転式拳銃。
バグショーの手に握られているのは軍用の回転式拳銃としてはいささか玩具めいた、鈍色のリボルバーだった。官給拳銃に採用されるべく数多の銃器会社がこぞって寄越した見本の一つである。
「その珍しい銃を使えば、誰が撃ったのかすぐ判明すると思いますがね」
「君こそ何を言っているんだね。レイヴン。今も私が警察署のトップだ。多少の改竄で何とでもなる」
尾行者の輪がじわりじわりと縮まっている。隠す気もなくなったのか、逃げ道を塞ぐように黒いコートの男たちが現れていた。顔には煤が塗られ、体に染み込んだヤニの臭いが彼らのもとまで届く。
レイヴンは少しだけ傷ついた表情を見せたが、瞬きの間に消し去った。
「目的は」
「もちろん、命だよ。君たちはロンドンの闇を知り過ぎた」
芝居がかった口振りでバグショーは拳銃を水平に構えた。
「残念だが、油断はしないし、時間をかけることもない。私は絶体絶命のプロなのでね。障害となる君たちにはさっさとお引き取り願おうか」
タァンと一発、高い音が澄みわたった空に轟いた。
【scene 路地裏 ジェイコブ医師】
「こんなところに本当にジャクリーンがいるのか?」
光の射し込む隙間すらない細い裏路地。ジャクリーン巡査部長が怪我をしたという一報に動転して着いてきたものの、どんどん人気のない場所へ入っていく。
冷静に考えれば、自分のところに来るよりも、もっと近い診療所があったはずだと不機嫌な顔を隠しもせずジェイコブは考えた。
そもそも、医者を呼ぶためだけに五人もの警察官が必要なのだろうか?
先導する警官たちは診療所を出てから一言も喋らない。彼らへの不信感が最高潮に達した時、ジェイコブは診療鞄を抱え直して立ち止まった。
「もう一度だけ聞く。ここに、妹はいるのか? 答えるまで私は動かんぞ」
「聞き分けの無いことを言うもんじゃないよ、センセイ」
警察帽の下に鳥肌が立つほど醜悪な笑みを浮かべ、先導していた男が口を開いた。
「あんたには、もう少し着いてきてもらわないと困るんだ」
一度口を開けば、鍵の壊れた箱のように五人の男は次々と喋りはじめる。
「ようするに人質だよ、アンタは」
「あの堅物で糞真面目な女も、兄貴には弱いからな」
「できるだけ妹の前では哀れに泣いてくれよ、先生」
「足か腕の一本でも無くなれば、嫌でも泣くと思うけどな」
元々、ジェイコブという男は上流階級の出だ。そのため、礼儀を知らない人間の喋り方に不快感を覚える。この時点で、五人の男たちに対する評価は、妹の同僚から蝿以下の存在にまで落ちていた。
暴漢というものに対して常日頃から嫌悪感を抱く妹。
少なくとも紳士的な振る舞いをしない人間は人間ではない。家畜の一種であると思う程度には兄も暴漢が嫌いであった。
「おっと、助けを呼ぼうとしても無駄だぜ。ここらに人の通りなんてないからな」
「そうか」
妹に危害を加えようとしている人間が目の前にいる。そう理解した瞬間、ジェイコブは頭に血が登った。
どんな理由だか知らないが、目の前の男達は自分を人質にジャクリーンを脅そうとしているらしい。
ジェイコブはただの町医者である。しかし人質になるくらいなら、相手の顔の骨を折り、二、三人道連れにしてから舌を噛みちぎって死んだほうがマシだと考えるたぐいの、血の気が多い町医者であった。