第百二十五幕 落下(前編)
【scene 崖の上 cut-1】
映画はいい。
眼前に広がる眺望を目に焼き付けながら、そう思った。
ここから一歩でも踏み出せば、崖の下に落ちるだろう。その自由落下に命綱は無い。重力に従い、地面に触れるまで続く。下から吹き上げてくる風の強さと高さにぞっとした。パラパラと水分を微塵も感じさせない赤砂がつま先から零れて落ちていく。
勇気を出してせりだした岩に乗ってみた。不安定な足場と少しだけ高くなった視点の他には何も変わらない。遠くにはナンシーの家や、細長い道や、別の山脈が薄らと見えていた。この雄大で力強い山の上から見ると、何もかもが頼りなく小さい。
「むこうに見える、小さな山に行ってみたい」という願いを、ミス・トリは……面倒なのでナンシーは叶えてくれた。
徒歩だった。ひそかに望んでいた瞬間移動とかなかった。
小さな山だと思っていたのに、ここに来るまで体感時間で三時間。長い道のりだった。
映画はいい。
ひとたび画面が切り替われば、山登り山下りが一瞬で出来る。その間の不断の努力を丸ごとカットして。
どうせならてっぺんからジャンプしたい。その言葉の意味を正しく理解してもらうために、五分ほど必要だった。
いざ自分の死にざまを決めろと言われ、目についたのが「あの山に行きたい」だった。
追い詰められた犯人が自殺するのは崖、特に見晴らしが良くて遮蔽物がない場所でなければならない。
高層ビル、非常口の開いた飛行機、断崖絶壁の海辺でも良し。
とは言え、ここには自然の他に高層ビルも飛行機もないし、海辺でもなかったので、えっちらおっちらと地道に徒歩で山を登らなければいけなかった。その甲斐はあったと思う。
先住民族の賢い人が言ったそうだ。『今日は死ぬのに良い日だ』って。
死ぬ日に良いも悪いもない、と言われればその通りだけど、こんなにすっきりとした良い天気だと、何となくその言葉も分かる気がする。
あと一歩でも踏み出せば、噂に名高い紐無しバンジーが簡単にできる。下を見ていると、あまりの高さに目がくらくらしてきた。
「本当に、良いのですか?」
ナンシーに声をかけられて振り返る。山登りの途中ではずっと彼女が前を歩いていたから、背後から声をかけられるなんて何だか新鮮だ。良いのか、というのが「こんなにあっさり自分の話を信じていいのか」という意味も含んでいるのは間違いなかった。
「うん。刺殺、扼殺、毒殺、銃殺に圧死……色々トマスに殺されてきたけれど、まだ墜落死はしていないんだ。死因ビンゴ、これで三つビンゴ達成」
「聞いた私がバカでした」
彼女の顔からすっと表情が抜ける。それが何よりも雄弁に語ってくれた。本気で呆れているのだと。
「正直、あんまりにも不死身に慣れていたから、本当に死ねるのかなぁなんて疑う気持ちも少しだけあるんだよね。万が一息があったら、ミス・トリの名にかけてきっちりトドメよろしく」
「それは、その」
今まで「痛みがない」という点において、精神世界での死は大した恐怖ではなかった。でも今回はどうなんだろう。
ナンシーは、この提案に困っている様子を見せた。何度か地面をつまさきで蹴り、言葉をつむごうとして失敗している。
「あとリチャードとトマスによろしくって伝えておいて。本編より絶対に生存率上がっていると思うからあまり心配していないけれど」
「戻って来たときに、自分で伝えて下さい」
「そうだね」
曖昧に笑う。最後の最後で置き土産とばかりに色々と、やらかしてしまったものだから、次にみんなと出会うのが楽しみでもあり、恐ろしくもある。
「ようは、やらかしたのが僕だと誰にもバレなきゃいいんだよね」
「何が?」
「何でもないよ」
前面落下の定石は両手を広げて、背面落下の定石は普通の体勢で落ちるものだ。どちらも捨てがたい。
迷った結果、背面落下にしようと決めた。
誰かと会話しているなら、そのまま自然な流れでエイッと行こう。前を向いて落ちるのが怖かったというのもある。
「それじゃあ、さようなら。説得できなかったら、ごめん」
「さようなら。いいんです。その時は、あなたを頼った私の目も節穴だったと言う事ですから」
そんな会話をして、僕らは別れた。
雲一つ無い青空の下では、鳥が飽きもせずに回っている。
落ちる瞬間「僕が死んだのは晴れた日」なんて、ちょっとカッコイイことを考えてしまった。
【scene 崖の上 cut-2】
円を描いていた影が、ゆるやかに高度を落とす。
羽根の黒さが視覚できる頃になって、ナンシーはゆっくりと腕を持ち上げた。
その細い宿り木に、一羽の鳥が止まろうとしている。ゆっくりと羽ばたきを止めた時、突き出されていた腕がスイッと逸らされた。目測を誤った鳥は地面へ勢いよく落下していく。
『ドア"ー!』
尾羽を突き出す格好で地面に崩れ落ちた鳥は、しばらく痙攣していたが、気を取り直したようにピョンと飛び上がった。それは一匹の小さなカラスだった。
『ちょっと、今の酷くない!? スリーピングな美人の魔女だって、杖とか腕とかに止まらせてくれるのに!?』
「私、賢い白ふくろう以外に体を触らせる気がありませんので」
『リチャードとは手を握っていたじゃないか』
「彼は友人のロボロフスキーハムスター枠です」
『ちょっと待って。なにその枠』
アァアァ、カァカァ。少し低めの鳴き声をあげながら、カラスは不規則に周りを跳ねまわる。そして、ゴミ捨て場で光物を見つけた時のように崖下を覗き込み、首を傾げた。
『アレ、見なくていいの?』
「見ません。後のことはお願いします」
相手の反応など分かり切っている、と言わんばかりの淡々とした言い方であった。ムゥと不機嫌に唸ったのはカラスの方である。
『前から思っていたんだけど、最近カラス使いが荒いと思う。ねぇ、もしこれが平穏無事に終わったらさ。少しお休みにしようよ! 南の島のヤシの木陰でさ、カクテル片手にビーチをの~んびり見ながらさ、嵐が来てさ、電話線が途切れてさ、ボートの流された絶海の孤島に閉じ込められた見ず知らずの人間が一人また一人とわらべ歌になぞらえて消えていく』
「後半いつも通りですよね」
『じゃあさ、スイスとか雪山に行こう! きらめくスノーパウダーのゲレンデに、お洒落な木造のロッジ! 美味しい料理に暖かい暖炉! 外の吹雪! ロープウェイの切断とラジオから聞こえる殺人犯が脱獄したとの情報。人里との交信は途絶え、ロッジには助けを求めてきた見ず知らずの男女数人が集った』
「後半」
カラスは黒々とした瞳で見あげた。愛嬌がある、とも言える。そんな眼差しだった。
『ダメじゃない?』
「ダメですね」
痛いほどの沈黙。破ったのはパンパンと場を切り替えるナンシーの大きな拍手だった。
「さぁさぁ、早くいかないと死体が増えますよ。主に貴方の!」
『主に僕の!? 分かったよ、分ーかりました。気が進まないなぁ。あっ、そうだ。これだけは重要だから聞いておかないとね。あのさ、プルー、ナンシー』
とぼとぼと力ない足取りで歩いていたカラスは急に方向転換するとテテテテと音を立てて走り寄ってきた。飛べばいいのに、とは言わない。外が騒がしくなってきた以上、お喋りカラスには付き合っていられないのだから。
「なんでしょう、レノーア」
『僕、ちゃんと画面に映ってる? スクリーンデビューしちゃった?』
「見切れてます」
『NOォー!!』