第百二十二幕 彼女
「何を呆けているのですか。行きますよ」
曇天の空が似合うと思っていたシスターは力強く地面を踏みしめて歩いて行く。この晴れた青空こそ、彼女に相応しい空模様だと思うくらいには馴染んでいた。
後ろを振り返れば、開いたばかりの扉は姿を消していた。仕方ないかと青空の清々しさ、解放感に体を伸ばす。コキコキとあちこちから音が鳴った。
外のウッドデッキでは揺り椅子が揺れ、剥げかけた白い柵の向こうで手作りの風車が回っている。風は無い。無風の中を風車は回り続けている。
「お待たせしました」
それらを一瞥し、ポケットから鍵束を取り出したシスター・ナンシーは手慣れた様子で玄関の二重鍵を開けた。
「どうぞ」
通された足拭きマットの上を恐る恐る通る。家の中は木材と干し草の甘い匂いで満ちていた。ひょっこりカウボーイが顔を覗かせそうな扉を抜ければ簡素な板張りの廊下が続いている。
「何か飲みますか?」とシスター・ナンシーは言った。何人もの来客が一度に来た時のように、忙しそうな気配を漂わせ、此方を気にすることもなく姿を消してしまった。声を辿って着いた先は小さなキッチン。
「紅茶とレモネードしかありませんが」
それだけあるなら十分ではないだろうかというラインナップを並べながら、ナンシーは頭上の棚を乱暴にひっかき回していた。がちゃがちゃと戸棚から押し退けられたボウルや泡立て器が落ちていく様子を見ながら、彼女の努力を無駄にしてはいけないと来客らしい身のふりかたを考える。遂に彼女は何かを引っこ抜き、高らかに掲げた。茶筒だった。
「じゃあ紅茶を」
「ご自分でどうぞ」
たっぷり三秒はお互いに見つめあった後で、諦めて僕は彼女の手に握られた茶筒を受け取った。そして客とは一体何なのかについて考えようとしたけれど「シスター・ナンシーだから仕方ない」の一言で諦めることにした。
「僕の扱い、雑じゃないかな?」
「貴族でもリチャード君でもないあなたに、気を使わなくてもいいかなと」
彼女は質問に答えてくれたが、何故そんなことを聞かれたのか分からないと不思議そうな表情だった。ふわっとしつつも確かな理由を聞いた僕は「そうだね」と答えた。
やかんを火にかける。
現実と作中の家族交友関係が入り交じっているせいで、余計に複雑さが増している気がした。
ナンシーは一体何者なのだろう。ミス・トリの中でも異彩を放っていたけれど、今はもう異彩なんて言葉では済まない。
モデルになったという女の子についても話を聞きたい。ナンシーの口振りから言って、生きている気配はしなかった。もっともミス・トリの第一版が出版されたのが戦後まもなくだから、関係者は皆、それなりの年齢のはずだ。彼女はトム先生とどういう繋がりがあるのか。
アンナ。
その名を初めて聞くはずなのに、この景色を初めて見るはずなのに、僕は彼女の事もこの風景も、どこかで見たことがある気がした。
アンナ。
情報番組で見たのかな。それとも何かの映画のワンシーン?
テレビ、映画、本、雑誌、インターネット、新聞。普段から触れている情報媒体を並べていく。
違う、違う、違う、違う。そういう所で見たんじゃない。
頑張れ、僕。なぞなぞは得意じゃないけれど、ミステリアス・トリニティの知識なら西山さん以外には負けないという自負がある。
一声あれば思い出せそうなのに、何かがひっかかって飲み込めない。その名前に関係する情報を僕は知っているはずだ。思い出せないだけで、見えないだけで、そこは空白じゃない。
アンナ、アンナ、アンナ。
60年代、アメリカ、編集者。
単語をランダムに並べていく。
手紙。看板。ラジオ。ポスター。
違う、違う、違う、違う。けれど近い。あと少し。
「お湯、沸いてます」
「えっ、あ!」
没入していた僕に気づいたのか、花柄のティーポットを棚から取り出していたナンシーが声をかけてきた。しゅんしゅんと煙を吐き出すやかんを火から離し「これも変な話だな」と独り呟く。まるで本当にお湯を沸かしているようだ。やかんを手に持ったまま何気なく彼女へ視線をおくり、その場から動けなくなった。
そこには何も無かった。
此方をじっと見据えるナンシーの目には感情も無ければ、人としての色も無く、善も悪も無い。何も無い。無に、視線で刺されている。さっきまでの彼女は、どこに消えてしまったんだろう?
いや、そうじゃない。
リチャードが語り手であったように。
ダニエルが幽霊であったように。
ミステリアス・トリニティの登場人物にはいつだって二面性があった。
表と裏。被害者と加害者。どちらに転んでもおかしくない不安定な人たち。
主人公は人を殺さない?
主人公が殺人を犯さない保証がどこに?
これが、ナンシーの人殺しの顔だとすれば?
息が乱れる。やかんを持ったまま、動けないでいる。
僕は死ぬのだろうか。
逃げることもできず、情けなく、何もできずに、証拠一つさえ残せず、彼女に殺される。そんな未来がはっきりと浮かぶ。
跡形もなく消え去って、あとには何も残らない。
僕は「リチャード」ではなかったし、姿は「父親」だった。誰も「ショウ」がどこの誰か知らないし、顔だって知らない。
どうやって証明すればいい? ただの顔のない「観客の一人」が、ここに居たと。
ナンシーの腕が、持ち上がる。
逃げられるわけない。死にたくない。何だ、これ。怖い。怖い。怖い、怖い怖い怖い。
言葉の数だけ感情が生まれ、震え、困惑する。青空の下。金色の日差し。泡のようにポツポツと荒い呼吸を繰り返す。それが飽和した時、パチリと泡が弾けた。
そうか、怖いんだ。いま、僕は恐ろしいと感じている。
知らないもの。未知なる何か。威圧感。絶対的に勝てないものを前に、戸惑い、本能的に死を感じている。例えそれが精神的な死だとしても嫌悪感を抱いている。
トマスの時とは違う。遊びではなく、本当の死。じわじわと周囲から酸素が消えていく感覚。呼吸ができない。喉を掻きむしりたい。ネクタイを緩めると、あごを伝う汗が落ちた。怖い。けれど、この胃の底が泡立つ感覚は何だろう。
これがシスター・ナンシーの殺意。初めての経験。初めて見る彼女の姿。ifを描き出す今しか見られない、最悪の可能性の一端。
「はっ……はぁっ……ははっ、ふふっ、はははは、あはははは」
だから、おそろしいんだ。
だから、おもしろいんだ。
なぜ?
それを知らないからだ。
それを見たことないからだ。
いま、目の前にあるのは未知であり、未見であり、非公開の光景。
さぁ、何を言うのだろう。何て言うのだろう。ワクワクする。
なぜ殺意を向ける?
どうしてそこまで焦っているの?
どうやって僕を殺す?
僕をここへ連れてきた理由は?
「私のもう一つの名はミステリアス・トリニティ。外からの来客からは俗に『仕組み』などと呼ばれる存在です」
そう言い終った彼女の眼差しは人間らしさを取り戻していた。困惑し、持ち上げた指の先で、文字通り人を指し示す。
「……あの、私の全力殺意を正面から受け止めきるなんて、貴方、本当に真っ当な人間ですか!?」
『ミステリアス・トリニティ』と名乗った彼女へ、僕は笑って返す。
「だって、僕は『君の』ファンだもの」
それなりに真っ当な、ただの、殺人事件愛好者です。