特典映像 うなぎゼリー殺人未遂事件8
肩を落として台所に戻ると、そこには一人の老人がいた。
彼はじっと僕を見ていたし、僕もじっと彼を見ていた。
老人は大きく口を開き、鍋の中のうなぎの白身を指でつまんで口の前にぶらさげていた。
「えっと」
老人は答えなかった。ゆっくりと口を閉じると切り身を鍋の中に戻した。そして目蓋を閉じて悟ったように頭を横に振った。彼はゆっくりとした足取りで僕に近づくと片手を差し出した。
「お初にお目にかかる。ワシの名はドクター・コールマン」
「初めまして。リチャード・ショウです」
僕らはごく自然に握手を交わし、手を放した。
「それでは失敬」
「あ、はい」
老人は堂々と胸を張って台所から出ていく。大物のみが許される近寄りがたい威圧感。彼の光り輝く白髪が視界から消えた瞬間、台所にはお湯の沸くシュンシュンという音だけが満ちていた。
「……自然に逃げただとッ!?」
うなぎを煮ていた鍋を慌てて覗き込む。万が一、ごっそり食べられていたらお客の人数に合わないかもしれない。十人分じゃあ足りなかったか? その場合、あの老人の皿から切り身を抜いて帳尻を合わせよう。
「ん?」
鍋の中を確認する。念のため湯気で曇った眼鏡を拭って、もう一度。
「いやいや、それは無いよね?」
鍋の中では在り得ない光景が広がっていた。今思えば、あの家のなかで一番警戒心が足りなかったのは僕だった。必死で考えを巡らせる背後に、影が忍び寄っていることにも気づかなかったのだから。
・・・
食堂に介した一同が口をそろえて思っていることは「味がしない」であった。
サイモン・トライフは厳つい白髪の老人で、クリスマス・キャロルに出てくるスクルージの挿し絵をそっくりそのまま現実に写し取ったような気難しい顔をしながらグラスに入った水を飲んでいた。
招待客ではないダラス・トライフが平然と座っていることに驚いた客もいたが、それがいつもの事であるので大した騒ぎにはならなかった。
グリーンピースのポタージュから始まった会食は、トライフ夫人やドクター・コールマンの挨拶などを交えて穏やかに進んでいった。話し上手の弁護士、ヒューバート・ロドニーがいないのでサイモン・トライフは黙々と配られたスープを口に運んでいた。
次にマッシュしたポテトがサーブされ、マスの香草焼き、牛肉と蕪のマスタード添えと料理は続いていった。
始終淡々と給仕をする青年が今日の料理人であることは皆が知っていたが、味と同じく淡々と料理を運んでは下げていく機械じみた様子を見ながら、次第に興味を失っていった。
「わ、私の持ってきたワインを持ってきてはくれないか」
血色が悪く、神経質なところもあるテネシー・クレイグの吃音を誰も気にしなかった。彼があがり症であるのは周知の事実だった。見た目と同じく控えめな注文に料理人は少しだけ困った表情を浮かべ、視線で了承の意を示した。
「今日の料理をどう思いますか」
給仕の姿が消えると同時に口を開いたのは、レイヴンという名の探偵だった。この場のほとんどの人間が一度はその名前を耳にしたことがあるものの、顔を見るのは初めてという者が多かった。彼は穏やかで礼儀をわきまえた金髪の美しい青年で、貴族の私生児ではないかという根も葉もない噂が真実に思えるほどであった。
レイヴンに向かって、冗談好きのドクター・コールマンが悪戯じみた笑みを浮かべて見せた。彼は年齢に見合わぬ、悪童のようなやり方を好む老人であった。
「まったくなっておらんよ。あの外国人はイギリス料理というものをまるで分かっておらん。バターも油も、塩も茹で加減も足りない。着飾っただけの、死人の味だ。とにかく不味いとしか言いようが無い」
大半の列席者が老人の言葉に苦笑を浮かべた。彼らの誰もが料理人の訛りから同じ事を考えていたが、ドクター・コールマンほど率直な物言いは出来なかった。ドクターがいくつかの皿にまったく手を付けずに残していたのは誰もが気づいていた。彼の文句はそれで十分、料理人に伝わっただろう。
「ワシは結構好きじゃがの」
「お前さんはまだ若いから、舌が肥えておらんのだ」
ドクターにきっぱりと断言され、ダラス・トライフは戸惑い、主人のサイモン・トライフの様子を伺った。サイモンの顔色は土気色に近かったが、口を真一文字に結び、厳粛な顔で全ての料理を食べきっていた。サイモンは横目でダラスの情けない表情を見ると、小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「フン、くだらんな。実にくだらん。時間を無駄にした」
主人のその一言が、全てだった。ドクターは勝ち誇った顔を見せ、ダラスはきまり悪そうに背を丸めた。
「それで、探偵。ワシを茶番につきあわせた責任は取るのだろうな」
「ええ、ちゃんと取りますよ。デセール代わりに」
サイモンに睨まれたレイヴンはどこ吹く風とばかりに白ワインを口に運んだ。
「まず最初に、本日の料理を作ったシェフを紹介いたしましょう」
芝居がかったフィンガースナップの音と共に、女中のモーリーに付き添われた料理人が姿を現す。女性料理人のかぶる白いフリルのついたキャップからは一筋の乱れ髪も見えない。癖の強いプラチナブロンドはきっちりと撫でつけられている。穏やかな目の中にしっかりとした力強さを宿した女性は、ほっそりとした身体を折り曲げ微笑んだ。
「はじめまして。本日の昼食会を担当致しました、イリーナ・ラムズトンでございます」