特典映像 うなぎゼリー殺人未遂事件6
懐から秘密兵器を取り出す。
かつて「ユニコーンと盾」で共に戦いし我が友。勇敢なるダン・ディーの船乗りヘンダーソンの息子、デズモンドから奪っ、貰った船乗りのおやつ。
其の名も見た目も干し昆布。
見た瞬間、我を忘れてしまった。デズモンドは泣いていた気もするけれど、世界最強海上国家の男がそんなことで涙を流すはずが無いので、目の錯覚に違いない。
ありがとう、デズモンド。君の犠牲は忘れない。手元にある昆布を丁寧に布巾で拭きながら、彼の幻に敬礼する。やっぱり泣いてたかもしれないな。今度、お礼に何かあげよう。酒とか酒とか酒とかを。証拠の昆布は大き目の鍋の底に沈めた。
大量のバターを入れたフライパンの中にみじん切りにした玉ねぎを入れて、透明になるまで火を通しておく。まだ火加減に慣れなかった頃は一瞬で焦がしたものだけれど、今はだいぶん慣れてきた。それでも時々、一瞬で消し炭にしてしまうこともある。
鶏肉のぶつ切りを骨ごと入れ、巨大なマッシュルームは傘にある固い皮部分を手で剥いて乱切りに。人参とズッキーニはおろし金で削りながら鉄鍋の中へ入れていく。白ワインは大匙三杯、塩少々、胡椒らしきものひとつまみ。昆布を浸しておいた水を半分ほど入れると、カレーに近い匂いになってきた。仕上げに庭からむしってきたフェンネルと月桂樹の葉の汚れを落として布巾にくるんでゴートゥー鉄鍋。
横手ではちょうど白焼きが脂を落としていたので、何度かひっくり返して火の傍から離す。皿の上に飾り付け用の半分を乗せ、もう半分の切り身は新しい鍋を取り出して中へ入れておく。
適当に作った野菜スープを注ぎ入れて煮込めば、洋風煮こごりもどきが出来上がるだろう。うなぎのゼリー寄せの正式な作り方は知らないので、あくまで「もどき」に過ぎないけれど、人死にが出ない味には仕上げるつもりだ。
“野菜の皮むきなら、トマスよりショウ君の方が刃物の扱い上手かもね”
‘はァー!? 野菜くらい、このバカより上手く剥けますけどォー!?’
“でも、ぼくたち、台所仕事ってやったことないじゃないか。肉はともかく野菜なんて難しそうだし……”
‘おい、そこのバカ。今すぐナイフ貸しなさい’
はいはいごめんねー。今日は忙しいから、また今度手伝ってねー。
今日はやけに脳内会話が活発だ。声を出して会話をしていれば危ない人だけど、黙々と作業をしているのなら真面目な料理人と大差ない。
あらかたメインは作り終え、自分とモーリーさん用のまかない、ジャケットポテトを作っている時にトマト缶の存在を思い出した。
トマトソースを作ってチェダーチーズをかけたら、じゃがいもが美味しくなるに違いない。
さっき見つけたチェダーチーズは、本物のチェダー産チェダーチーズだった。
欠片を少しだけ食べてみて驚いた。生クリームに近い芳醇な濃厚さ。しかし、少しもしつこくない。甘みと、口の中でとろける柔らかい触感。淡いバターのような輝きに満ちた色合いとクルミのような香ばしさ。ほろ苦いけれど、噛めばふわりとコクが広がる。
あれぞまさしく一級品と呼べるものだった。ならばそれに相応しいだけの本気のトマトソースを作らねばなるまい。
気軽に手に取ったトマト缶が人を狂わせると、その時一体誰が思ったであろうか。
そして冒頭に至る。
・・・・
庭で絶望している。
トマト缶に負けた。
トマトに負けたらイワシ缶なんてもっと無理だ。アンチョビとベイクドビーンズはソルジャーの食べ物だ。強者の食べ物だ。
折れた心と膝もそのままに、倉庫の前で項垂れていると誰かの影が視界の中に滑り込んで来た。
「今の銃声はテメェがやったんか、ワレェ! 怪我ァないか!?」
骨までビリビリ震えるような大声に顔をあげると、目の前にいたのは鬼軍曹だった。違った。茶色のジャケットを着た屈強な若者だった。
肩を力強くつかまれ、揺さぶられたので、怒られると覚悟したのだけれど降ってきたのは意外な言葉だった。下の方にテロップで「そして殺す」とでも書いてありそうな凶悪さをにじませている表情も、よくよく聞けば真剣に心配していたからだった。おそらく、銃声を心配して駆けつけてくれた近所の好青年なのだろう。
彼は足元を見なかったのか、トマト缶を蹴飛ばした。ポケンと間抜けな音を立てて缶詰が吹っ飛ぶ。缶詰の放物線を追いかけるように彼と僕の頭が同じように動いた。
さらばだ、トマト缶。また会おう。
落下したのを見届けてから、鬼軍曹、もとい好青年が困ったように眉をハの字に下げた。眉が薄いので、正確には眉部分にあたる筋肉がペコリと動いただけなのだけれども。
「なんじゃ、缶詰開けちょったんか。慌てて損したのう。どこぞのバカが討ち入りでもしかけてきたんかと思うて、慌てたんじゃ。ほれ、なにをボサッと呆けとる。さっさと立たんかい」
見た目と同じくゴツい喋り方だった。いえいえ、こちらこそ。討ち入りもとい仁義なき戦いが始まったかと思いました。
「ありがとうございます。あの失礼ですがどちら様ですか」
「あァ!? ワシを知らんのか!?」
脅しているというよりも、単純に驚いた様子だった。どうにも言葉遣いで損をしている人だ。普通、銃持ってる見知らぬ人がいたら警戒するものじゃないかな? 待て、この性善説を信じているかのような警戒心の薄さには覚えがあるぞ。
「ダラスさまー、待ってくださぁーい」
てってぽ、てってぽと不思議な足音が向こうから聞こえてきた。しばらくすると、庭の垣根を乗り越え、両手に鍋を持った女性が現れる。一抱えはありそうなくせ毛のおさげが左右に揺れている。ついでに白いブラウスの胸部分も暴力的に揺れていた。
「あっ」
「ぴゃっ」
危ない走り方だなと思った瞬間、案の定こけた。鍋が空を飛び、中に入っていたものが周囲にばらまかれる。何やら形容しがたい泥色の液体が緑の芝生の上に流れ落ちた。
「アイリスゥ、危ないから待っちょれと言うたじゃろうがァー!」
「ごめんなさーい」
好青年はドスのきいた声で怒鳴りつけながら駆け寄り、そっと女性を助け起こした。
ここで確信する。
この言動と行動の一致しない鬼軍曹青年がダラス・トライフ。
そして赤毛のアンにしか見えない彼女が看護師のアイリスなのだろうと。
金銭の無心をする快活で酒癖と女癖の悪いボートマンと、侵入者が入った台所を確認した行動の怪しい看護師。
ひっくり返った鍋を見て半泣きで取り乱しているワンピースの女性と、一生懸命宥めている言動は極道、中身は紳士の男性。声が聞こえないように口を手で押さえる。
「人の話って、当てにならないな……」
自分の目も当てにはならないけれど、それでも目の前にいる人物と聞きかじっている人物の印象は一致しなかった。トライフ夫人もそうだったし、この流れだと、サイモン・トライフも怪しいのではないだろうか。何が怪しいって、意地悪な金持ち爺さんという前提が、だ。
レイヴンにとっては何か嫌なところがある人物のようだけれど、ここまで周囲への警戒が薄い人物を育てているのだから確かにマトモな老人ではないのだろう。いや、しかし殺されると言っているのだし、僕が良い人という印象を抱いているだけで、本当は全員裏がある悪い人だとか。リチャードという前例もあるので慎重に見極めなければ。
それにしても看護師のアイリスは何をひっくり返したんだろう? 最初は泥団子鍋かと思ったけれど、それならあんなに取り乱す筈がない。
近づいてみると、鍋からこぼれた液体より生臭い異臭が漂ってきた。そして、青々とした芝生の上に明らかに怪しい物体が落ちている。
拾って眺める。
小さな指、爪がある。爬虫類っぽいな。子供のワニの手に見える。むしろワニの手にしか見えなくなってきた。他に思いつくのはオオサンショウウオ、イグアナ、恐竜。どれも鍋で煮ていい生き物じゃない。
「どうしましょう!? 折角ダラス様が作られたのにぃー!」
「鍋なんてまた作りゃあええじゃろ。元々、そんなに上手く作れたとも思うちょらんかったしなぁ。爺様はグルメじゃし、また今度作ればええわ。それよりアイリス、火傷しちょらんか?」
「してないですぅー!」
「これ、なに」
良い雰囲気の二人を邪魔することに罪悪感を抱かなかったわけじゃない。けれど、これだけは聞いておこうと思ったのだ。青ざめた顔で例のワニの手を見せると、アイリスの目に再び涙の山が盛り上がった。
「海亀の手ですぅー!海亀スープで、ダラス様が、ご隠居様に精をつけてもらおうって、ヒック、私達、練習して、今日、お届けするはず、最後の一匹だったのに……うわーーん!!」
「何となく理解できたかも」
子供のように泣き出してしまったアイリスをダラスは困ったように宥めている。そして僕も困ってしまった。
海亀のスープ。
短期売買投資手法でも、推理ゲームでもない。本物の海亀を食材としたスープがあることは知っている。
高級食材で、栄養満点。入手しにくさから偽海亀の肉が缶詰で出回ったことも知っている。
だから海亀のスープという存在に疑問は抱かない。抱かないんだけど……海亀って、指あったっけ?