第百十九幕 消滅
トマスは激怒した。
必ず、この無知蒙昧な輩を除かなければならぬと決意した。
トマスには映倫が分からぬ。トマスは、貴族である。十九世紀ど真ん中のイングランドで、PG12のPGって何だと思う事も無く、映画にして約一本分の人生をおくってきた。
けれども、人が事情聴取を受けている最中に広間の真ん中で昼寝する居候には人一倍敏感であった。
「ひ、と、が、馬鹿を始末してきたのに昼寝とは良いご身分ですね?」
ひきつる口角と痙攣する眉。脚を振り上げると、目の前に転がる頭蓋骨を靴底で盛大に踏みつけた。
「ほげっ!?」
思うまま蹴り飛ばさなかったのは彼なりの思いやりだったのだが、そこに気付く酔狂はこの場にいない。
寝転がった人物の目蓋がぱこっと開いた。何を考えているのか分からない黒目がぐりぐりと周囲を見渡し、こめかみを踏みつけている人間の脚、胴体、顔と順に見上げていった。
「……起きたらトマスに踏まれているという不思議な現象。そして、この構図はいわゆる『拳銃を持ったダークヒーローもしくは処刑人が敵の下っ端に向かって『三秒以内にボスの居場所を言わなければ撃つ』というスタイルを完璧に表現している。ちなみに二秒目で相手の太腿を撃つのが様式美。だから一つ言わせて欲しい。『待て、分かった! ボスなら屋上だ!』」
「誰ですか、それ」
ショウは目を擦りながら起き上がった。のんびりとした空気は先程までの緊迫感を台無しにしている。
「……お腹いっぱいでポカポカ陽気の午後二時に匹敵する眠気に勝てる人類などいない。きっとそれは世界共通の心理じゃないかな」
「何を訳の分からないことを」
「あ、聞いて。変な夢を見たんだ。僕、サーカスにいて、そこにレイヴンたちがやってきてね。数字の四と書いてある紙を持っていたんだ」
「夢の中でまでレイヴンのストーキングとは多忙ですね」
欠伸まじりに告げられた内容を聞いてトマスはぞっとした。明日は我が身、というフレーズが頭をよぎる。一方、ショウは多忙過ぎて体が足りないと神妙な顔で頷いていた。
「あ、そうだ。トマス。僕、そろそろ元居た場所に戻るみたい。今までお世話になりました」
そして、のんびりした空気のまま唐突に別れの挨拶を切り出した。
何を言われたのか理解できず、トマスはゆっくりと言葉の意味を咀嚼する。
「今度は何の遊びですか?」
「冗談や遊びじゃないよ。消えそうっていうか、そういう気配がするんだ。いわばお約束な気配がね。マザーが亡くなった事や、物語が始まりそうになった事に関係していると思うのだけれど、よく分からないな!」
口調は軽いものの普段浮かべている曖昧な笑みは消え、真剣な眼差しをまっすぐトマスに向けていた。ショウが掲げた右腕は確かに向こう側が透けて見えていて、なるほどこれは消えるとトマスが思うのには十分だった。
「謎解きは君たちが得意とするところだし、何でこんなことになったのか調べてくれると嬉しいよ。そうそう、僕がいなくなってもリチャードと仲良くね」
頭の良いトマスは様々な考えを巡らせた。……計算、打算、嘘……培ってきたものに照らし合わせて、今しがた行われた宣言は冗談ではないと結論付けた。ただ、この殺しても死なない男が消える光景が、どうしても想像できなかった。
「いつ消えるのですか?」
「今すぐかもしれないし、明日かもしれない。もしかしたら、三年後かもしれない。雨の音が聞こえると、だんだん透けていくんだよね。幽霊みたいで、ちょっとおもしろい」
人格が消える前触れが、その人物の特性によって違う事をトマスは理解していた。皮肉にもリチャードが消えかけた時と同じ光景だった。
「ただ」そう言って、ショウは悔し気に顔をしかめた。
「精神世界に監視カメラが設置できそうもないのが残念だ……」
「今すぐ消えてください」
精神世界や監視カメラなどと言う単語に聞き覚えはないが、ニュアンスから何か良くないことを仕出かそうとしているのは明白であった。けしてやらぬよう、トマスは釘をさしておく。可能ならば即座に物理的に釘を刺そうと狙っていた。
「それより、ありがとう。さっき、誰も殺さなかったでしょう」
その礼に、トマスは苦虫を噛み潰したような、スーパーのお菓子売り場で菓子を買ってほしいと泣き叫ぶ三秒前の子供のような、複雑な表情に変化した。
「時間をかけるつもりだったんです」
「あ、やばい。時間がないから、真面目な話は止めにしよう。久しぶりの外はどうだった?」
ゴキリとシリアスな話の腰が音を立てて折れた。計算されたタイミングの悪さは毎度の事である。目の前の人物とまともな会話ができると期待していないので、トマスは諦めてその質問に答えた。
「別に悪くはありませんでしたよ」
「トマスが皮むきを下手くそにやってるところが、笑えました」
「どうやら命が惜しくないようですね」
「嫌だー! 僕はまだ死なんぞー!」
死亡フラグを宣言しながらショウはぐるぐると広間の中を駆け回った。トマスもまた真剣な表情でナイフを振りかぶりながら追いかけた。昔ながらのカートゥーンを思わせる、どこかコミカルな動きで。