第百十八幕 或る伯爵の充実生活
マーレ・ボルジェと名前のついた建物から出る時、ばたばたと駆けこむ警察官たちとすれちがった。彼らはぼくにむかって失礼なまなざしを向けると、犬でも追い払うかのようにしっしと手をふった。やじうまとでも思われたのだろうか。はやくここから離れたいぼくにとっては好都合だった。
あの不快な場所から出てしばらく歩いても、なんだかあの場所の匂いが体にこびりついているようだった。
もしかしてとコートの袖に鼻を近づけてみれば、それが原因だった。いますぐ脱いで、風呂につかりたい。
レイヴンの住んでいる家まで数マイルほどの距離があったが、自宅であるグリーンタワーホールよりは近いので今晩はそちらへ戻ろうと決めていた。
出かける前、ネリーさんに今日はレイヴンのところに泊まるからと伝えてあるので、みんなが心配して探しにくるということは無いだろう。
歩いていると、すぐに見覚えのある四つ辻に出た。通りの向こうには、まだ日も高いのに蝋燭に火を入れた菓子屋がある。
ぼんやり見つめていると菓子屋のドアが開いた。ベルの音を鳴らしながら店の階段を降りて来たのは、黒のドレスを着た浮かない顔の女性だった。彼女は紙袋を手に持ったまま、ぼんやりと道のどまんなかで足を止めていた。はっきりしない女性の輪郭が、一歩ずつ店に近づくごとに明確になっていく。
「ナンシー!」
見知った顔に会えた喜びから声をかけたが、それがまちがいだったと直ぐに気付いた。
彼女は祖母を亡くしたばかりだということを思いだしたからだ。片手をあげたものの、彼女の名前以外の言葉が出てこない。
次の言葉を考えている間に、数メートルの距離がなくなってしまった。
「こんばんは」と彼女は言った。
「こんばんは」とぼくは返した。
おたがい、会話がうまくないことは分かっていた。挨拶のあとに続く沈黙に、ぼくは何も考えずに彼女へ声をかけてしまったことを後悔していた。
「今日は眼鏡をかけていないのですね。名を呼ばれなければ気づきませんでした」
「あ、かけてたけど割れたんだ」
「それは大変でしたね」
「うん」
会話はそこでとぎれてしまった。お互いに「なにか言わなければ」という必死な空気だけは共有していた。
「リチャードくん」
さきに口をひらいたのはナンシーだった。
「目の前に傷心の女性が立っている場合、お茶に誘うものらしいですよ」
「え?」
続けられた言葉は、ぼくが予想していたものとはかなり違っていた。思わず聞き返すと、ナンシーはわずかに口の端を持ち上げた。
「もう一度聞きますからね」
よく見ると彼女の眼のまわりは赤く腫れていて、それはとても痛々しく見えた。
無表情だといわれているけれど、彼女の喜怒哀楽はかなり激しい。力はとても強いけれど、反面、弱い面もある。親しい人との別離や拒絶に対して、彼女は驚くほど弱い。
だけど、彼女はそれを押し殺して、菓子の入った茶色のふくろをわざとらしく掲げて強がりをみせていた。なら、彼女を見習ってぼくも少しは頑張らないといけない。
「近所に、美味しいお茶が飲めるところはありませんか?」
「それでは、ぜひ、うちにお越しになりませんか。美味しいお茶がありま……あ、ウチとは言っても、ぼくの家じゃなくて、レイヴンさんの事務所なんだけどね!?」
あわてて言い直した。お茶を淹れるのは得意だし、ナンシーなら家に呼んでもレイヴンも嫌な顔をしないだろう。
「うん。二度目なのに決まらないあたりが我が助手らしくてとても良いです」
「なんだか褒められてる気がしないよ」
それでも、ナンシーにとっては合格点だったようで(ダメ出しはされたけど)ぼくたちは連れ立って歩き始めた。
「前は見えるのですか?」
「それがあんまり見えないんだ。でもこの辺りはよく歩いているから、なんとなくでも大丈夫だよ」
ナンシーが心配してくれたことが嬉しくて、つい笑顔になってしまいそうになるのを必死でおさえる。
クールに、カッコよく! レイヴンなら、きっとそんな完璧なレディのエスコートをするはずだ。
「手でも繋ぎますか?」
「いやそのあの、それはちょっと恥ずかしいなぁ」
「それでは腕でも組みますか」
周りの人からの視線がチクチク刺さる。ナンシーが美人だから仕方ないとは言え、なんだかぼくの方がソワソワしてしまう。
彼女の厚意(けして好意ではない。ぼくはそこまで厚かましいことを考える人間ではない)は嬉しいけれど、ぼくを相手に妙な噂でもされてしまったら、彼女に申し訳が立たない。どうせ顔は隠れて見えーー……。
そこで、とても大切なことに気がついた。普段と違う視界の広さや明るさ。眼鏡はなく、前髪はトマスがあげてしまった。つまり、顔の、やけどの跡が隠れてない。
前髪を下ろそうと慌てて動かした手を、ナンシーがつかんだ。とっさに振りほどこうとしたけれど、びくともしない。
「ちちち、ちょっとナンシー!? ぼく、さっき下水から帰ってきたばかりだから、あんまり近くに寄ると匂うよ」
「平気です。さ、これでよし。下らないことを気にする前に、私を気にするように。はい、空いた手はこのお菓子袋でも持っていてください」
つまり、ぼくはどうしたってレイヴンの真似なんか出来ないし、女性のエスコートひとつ満足にできない。そういう間抜けな人間に他ならないのだ。
レイヴンの事務所は古いチューダー様式の家だ。丸々一軒が彼の所有物で一階は事務所、二階は居住空間になっている。表庭はしっかり手入れされていてバラがいくつか育てられている。ぼくにはぜったいに触らせてくれない。その結果、とても見事な赤いバラが咲いていた。
閉まっていたドアを持っている鍵であける。レイヴンの帰りは遅くなるのだろうか。外のカンテラに火をいれておいたほうが良いかなと考えていると、ナンシーが歓声をあげた。
「すばらしい花ですね」
「すごいでしょ」
あのバラは大輪で、色もあざやかで、近所の人もすごいと褒めてくれた。庭を褒められると自分の功績みたいに嬉しくなる。
ふりかえると、ナンシーが見ていたのは赤バラではなく、白壁に張りついたウィステリアの花だった。
あわい紫色の房は、風がふくたびに熟した甘い香りを辺りにただよわせて揺れていた。
太陽の光が白壁を黄色に塗りつぶす。照らされたナンシーの横顔はとても綺麗だった。