第百十六幕 或る浮浪児の消えた夜
その日は、雨が降っていた。
バケツをひっくりかえしたような大雨で、体にあたる雨粒のひとつひとつまで感じ取れるほどだった。
あてもなく歩く。かぶっている布から熱がにげていく。寒い。命を垂れ流しなら歩いていると、思った。一晩だけでいいから、休める場所はないだろうか?
あるわけがない。甘い考えを否定する。都合の良い話なんて、あるわけがない。
目の前に無人の城があらわれて、豪華なごちそうと暖かい寝床が用意されているなんて絵本の中だけで、本当はありえない話なのだ。
もう座ってしまおうか。あきらめて小さく丸まっていれば、人目につかず一晩は過ごせる。
そうやって弱気の虫が騒ぎはじめた頃、水音が通りのむこうから聞こえてきた。
誰だろう。こんな雨の夜に、出歩くなんて。
けぶった視界か、現れたのは、黒い外套を着た紳士だった。
彼は僕の前までまっすぐに歩いて来ると、道のど真ん中でぼうぜんと立ち尽くしている僕を見てぎょっとしたように立ち止まった。そしてかぶっていた帽子で顔を隠して、足早に通り過ぎて行った。
変な人だったな。
紳士が消えていった方角には何もない。古くて立派な教会があったけれど、こんな夜更けに訪問するような場所とは思えなかった。
冷たさにぶるりと体をふるわせて我にかえる。僕もあの人みたいに、帰る家があれば良いのだけど。
歩き出そうとして前をむいた僕は驚いた。
僕のすぐ目の前には、天使が立っていたのだ。何度も目を擦る。
栗色の巻き毛は雨を吸い込んで顔にはりつき、唇も肌も白を通り越して真っ青だった。けれど大きな、澄んだ琥珀色の眼と微笑みが、僕をとらえてはなさない。
「君さ、お金欲しくない?」
その現実的な提案に、僕は少しだけがっかりした。目の前に立っている人が天使ではなく、僕とあまり歳の変わらない女の子だと理解したからだ。頷く。
「じゃあ、いまの人にさ。これを届けてほしいんだ」
彼女は、まるで男性のような口ぶりで言うと、白い布で包まれた細長い包みを差し出した。
僕は再び頷くと、彼女から包みを受け取った。それは濡れて、冷たく、見た目に反して重かった。
「ここで待っているから。届けたら戻ってきて」
そのときお金を渡すからさと、彼女は僕の耳元に口をよせてゾクゾクする声で囁いた。雨の音はうるさかったけれど、彼女のその声だけは、はっきりと耳の奥にまで届いた。
僕はバカなので、どうして彼女が自分で渡さないのかとか、どうしてこんな酷い雨の夜に出歩いているのかだとか、そういうことを考えずにいた。ただ「お金がもらえる」というその口約束が、雨の中ひとりぼっちで歩いていた僕にとって、希望の光だったのだ。
僕は駆け出した。泥の道はぬかるんでいて、指先まで冷え切った足で走るのはとても苦労した。視界は滝の裏側を歩くように悪く、もしかしたらあの紳士は見つからないのではないか、とそんなことも考えた。
さきほどの紳士はすぐに見つかった。彼は大きな教会の前にいた。中に入ろうともせず、じっと雨に打たれながら扉の前に立っていた。
僕は彼に近づくと、外套を引っ張った。紳士はさきほどと同じようにぎょっとして立ち去ろうとした。けれど僕は強く、ふたたび彼の服を引っ張った。
「何か、用かな」
紳士はかすれた、ひきつった声で訊ねた。
「これ」
僕は寒さで震えながら、自分がそうされたように、白い包みを紳士に差し出した。
「届け物かな。いったい誰から?」
「てんし」
「てんしって、天使?」
首肯すれば、紳士はさきほどまでとは違った種類の困惑を顔に浮かべていた。僕は手を伸ばして受け取ってくれるのをじっと待っていた。
ずるりと剥けた布の中から見えたのは一振りのナイフだった。銀色に光っていて、柄の部分が赤い。雨にぬれた肉厚の刃は魚の鱗みたいだった。
「ひっ」
それを見た瞬間、紳士は恐怖に引きった声をあげて僕の手を叩いた。宙を舞ったナイフはべちゃりと地面に落下する。
僕はあっけにとられながら、紳士を見ていた。
もしかして強盗と間違えられたのかな?
危険では無いことを証明するために、両手を開いて武器を持っていないことを示す。
僕はただのメッセンジャー。
ナイフの刃が当たっていたのか手のひらから血が出ていたけれど、これくらいの怪我は日常茶飯事なので対して気にならなかった。
「ごめん。怪我をさせるつもりは無かっ」
歩いてきた紳士は僕の開いた手のひらを見て言葉を切った。もしかして、血が苦手だったのかな。近くで見た紳士は、見るからに優しげなお坊ちゃんという人で、何かに怯えていた。
彼は顔を下に向けると落ちたナイフを拾った。
「……届けてくれてありがとう。これは確かに僕のものだ」
顔をあげると紳士が微笑んでいた。優しい顔なのに、その反対の印象を受けた。
「お礼に、君は見逃してあげるよ」
笑顔を浮かべて、紳士は教会の中へ歩いていってしまった。閉めそこなった教会の扉は一筋の明るい光を漏らしている。
もしかして、僕はとんでもないことをしてしまったのではないか。あの紳士に、あのナイフを渡してはいけなかったのではないだろうか。
僕はわずかにこぼれる光に誘われるようにトビラヘと吸い寄せられた。彼がいったい何をするつもりなのか。薄々分かっていたのかもしれない。恐怖にみちた女の悲鳴は、ざあざあとした雨の音にけされた。
――死んだ、死んでしまった! 目の前で人が殺された!
はじかれるように扉から離れると、目の前で起こった事実を何度も噛み砕く。雨の中を走る。もしかすると叫んでいたかもしれない。
――死んでしまった! あの修道女の恐怖に満ちた叫び。
「あれ、死ななかったんだ」
気がつくと、目の前には先程の天使が立っていた。つまらなそうに鼻をならすと、息を整えている僕を見下ろしていた。
喉がいたい。肺がいたい。呼吸をするのが、いたい。
人が、人が殺されたんだ、目の前で。顔を上げる。
警察を呼ばなきゃ。いや、医者だろうか?
とにかく人を呼んで、あの女の人を助けなきゃ。あれで、助かるのか? 首がほとんど切れた状態で、人は生きていられるのか?
言いたい事は次々にあふれでているのに、それが声になることはない。
「その剣幕なら誰かは死んだんだろうけど……運がいいよね、君。ところで、なんで笑ってんのさ?」
それは君の事だ。笑っているのは、君だよ。そう指摘したいのに、声が出ない。
「……」
なんで。なんでって?
震える手で顔を押さえる。僕、なんで笑ってるんだろう。泣いていると思っていたのに。
「君と僕、とても似ている気がするよ。うん、もしかしたら友達にだってなれたかもしれない」
そう言った彼女は楽しそうで、僕はきっと嬉しそうだったのだ。
「でも、バイバイ」
最後が振り下ろされる。
その日は雨が降っていた。河の流れはとても早くて、冷たかった。
高級住宅街のなかを、天使と呼ばれていた少女が足取り軽く歩く。通りに人の気配はないが、家の中からは楽しそうな音楽や笑い声があふれていた。
そのなかの一軒で少女は足を止めた。音楽も笑い声もないが、一階にぽつんぽつんと灯りがついていた。
ブリキ製の看板がかけられていたが描かれた文字は暗闇に溶け込んでいる。少女は迷うことなくドアノブを叩いた。
「ウィリアム、勝手な外出は控えろとあれほど言っていただろう!」
扉が開いた瞬間飛び出してきたのは、低い男性の怒った声だった。
「はいはい。あーもー、うるさいなぁ。リチャードにあんたのナイフを渡して来ただけだよ。そうがなり立てることもないだろ」
「なっ」
天使……ウィリアムが半身をひねったことで、男の顔が灯りの中に浮かび上がる。
見るからに神経質そうな金髪の男だった。体格はがっしりとしていたが、ほんのりと目元に浮かぶ隈が健康的な印象を阻害していた。寒々とした冬空によく似た青い目が細められる。
男の背中に広がる灯りのある雨の当たらない家というものは、先程の浮浪児が夢見ていたものであったが、彼は知らない。
「ねぇ、僕が昔着てた服がまだ上に残っているよね。それ、取ってきてよ」
「お前、怪我を……いや、その血は誰のものだ」
「そんなの、どうだっていいじゃない。それよりジェイコブ。服、早く取ってきてよ。あんたの望みは叶えてやったんだ」
ウィリアムという少女の言葉に男性は唇を噛み、家の中に戻っていった。
「それで、リチャードにナイフを渡したのか」
「そうだよ」
「……そうか」
濡れた蒼白い肌の上に綿の布が滑る。
ボタンを留めていく少女は後ろを振り返らない。
暖炉に火を入れながら、ジェイコブ・ハートフォードもまた、少女を見ようとはしなかった。
彼と彼女は赤の他人である。十年以上前に傷を負った彼女の面倒をみただけの、赤の他人である。
「身分も姓も何もかも捨てる事は出来たが、あれは、あのナイフだけは捨てられなかった。ライン家の家宝。いざとなればナイフの返却と引き換えにアーサーと私の自由を約束させるつもりだったんだ。だが、もうどうでもいいことだ」
「そんなこと、僕にだってどうでもいいよ。これで借りは返したよ」
ウィリアムはそう言うと玄関へ向かった。
「もう行くのか」
「うん。雇ってくれるところが見つかったから」
「……そうか」
ジェイコブは外套を羽織る従妹に一言だけ告げた。
「体には気をつけろよ」