第百十五幕 或る伯爵の独白
――面倒なので帰ります。あとは任せました。
まるで書き置きみたいな言葉を残し、トマスがひっこんだ。
代わりにぼくが外に放り出される。ふわりと浮かぶ感覚にも、着地にも、悲しいことに慣れてしまったようだ。
君が知らないだけで中も面倒なことになっているよと忠告する前に、すでに騒ぎは始まっていた。「任せて」と言っていたショウ君の爽やかな笑顔(不安しかない)を信じて、ぼくはぼくで、現実を頑張ろうと決めた。中から聞こえる声には笑い声も混じっているから、きっと放っておいても大丈夫だ。恐らく、多分、本当に、三十パーセントくらいは。
ショウ君の予想通り、トマスは誰も殺さなかった。
ぼくの中から父親がいなくなって、トマスはとても丸くなったと思う。丸くなったというよりも、おそらく自分の在り方について迷っているのだとショウ君は言っていた。ある日とつぜん、自分を構成していた大半がなくなったのだから混乱しているのだ、とも。
トマスと別れた時のぼくがそうだったから、よく分かる。
トマスはぼくが作りあげてきた他の人格とは違う。
彼はぼくの理想ではないし、ましてや誰かに作られたわけでもない。
ぼくと、トマスは、合わせて一人格。ぼくたち二人でリチャード・トマス・ラインという人間だ。
洗礼で与えられたトマスという名は、ぼくにとって祝福と言う名の呪いだった。
父親や兄を尊敬する心も、人の死を望む気持ちも、自分の生を願う思いも、最初は全てぼくが持っていたものだ。そして、全てトマスが持っていったものでもある。
善と悪。生と死。優しさと残忍さ。人間は心に天使と悪魔を宿している。ぼくはそれが人より激しかった。
自分は自分に見切りをつけた。いや、見限ったと言った方が正しい。
ぼくから別れた彼は、あっというまに成長して大人になった。政治、話術、経済、階級、狩猟の腕、学んだなかには言葉にできないほど邪悪な知識もあった。
トマスは家族のなかで、特に父親を神様みたいに敬愛していたから、いずれは「父」となることを喜んだ。一時期は人を殺してみたいとさえ、本当に思っていたのだ。元々はぼくだったのに、トマスはまったく別の存在として成長してしまった。
それに対して、ぼくはどうだ。
ぼくはトマスの抜け殻だった。このまま人知れず消えてしまいたいと願うばかりで、誰かに害をなすまえに死んでしまえたらそれが一番だと思っていた。けれど、それを実行する勇気もない臆病者だった。
ぼくはトマスにも、父にも、さからわなかった。草食獣が肉食獣に対して本能的に危険だと思うように、ごく自然に、当たり前のように三人の力関係は決まっていた。本当の父親が死んでからも、ぼくは自分の中にいる父親に怯え続けていて、それが周りに理解されることはなかった。
弱いものは従うしかない。それはとても自然なことだ。
いつしか、ぼくはそう思うようになっていた。そして眠ることが好きになった。だって、なにも考えなくていいから。なにも見なくていいから。日に日に、眠る時間は増えていった。ぼくは殆ど自分であることを止めていた。
「トマスはぼくではなくなった。だから彼がなにをしようと、ぼくは悪くない」
ある朝、目が覚めると外の雨みたいなザーザーという音が耳の奥で鳴っていた。自分の最期がせまる音なのだと直感的に理解した。最期、というものが肉体的なものなのか精神的なものなのかは分からなかったけれど「もう目が覚めることはない」という予言めいた一言だけが頭のなかをくるくるとまわっていた。
だからあの日、初めて父の言葉に逆らった。どうしても、最期に外の世界というものを見てみたかったのだ。
教会へ行こうと決めたのは懺悔をするためだった。そして父の知り合いだったという女性に危険を伝えるためでもあった。この街から逃げるように警告する。そうしなければいけない。
ロンドンの街は、父いわく狩猟場だった。父は自分から逃げた誰かがどこにいるのか、ちゃんと知っていた。狩猟というスポーツが貴族としてのたしなみだと再三言っていたから、おそらくぼくに狩りの仕方を教えるつもりだったのだろう。そういった面において、彼は間違いなくぼくの父親だった。ぼくが消えたら、もう自分を止める人は誰もいない。僕は嬉々として彼女を殺してしまう。
しかし、いざ教会の前に来てしまうと足がすくんで動けなくなってしまった。自分が行動した結果、何かとてつもなく悪いことが起こるのではないかと。本当に外に出て良かったのだろうかと。そんな否定的な考えばかりが頭を埋め尽くしていった。中に入る決心がつかないまま、一分、二分と過ぎていく。
我にかえったきっかけは、物ごいの少年に服を引っ張られたことだった。大雨だからか彼は寒さに身を震わせながらそこに立っていて、白い布に包まれた荷物をぼくに押しつけていた。
黒いマントで雨から全身を隠しているものの、それはすでに水が滴るほど濡れていて彼が長い間、外にいたことを示していた。
何が目的だったのか分からない。おそらく誰かに頼まれただけで、彼はなにも知らなかったのだろう。
布の隙間から見えた柄には見覚えのある赤い竜細工が施してあって、これはジェイコブがいなくなったときに一緒に消えた祖父のナイフに違いないと思った。
誰かに見られている。
そんな恐怖がぼくを衝動的に動かした。とっさに彼の手を払い、白い包みが放物線を描きながら地に落ちた。
もっとよく考えるべきだったんだ。ぼくから柄が見えたということは、彼が持っているのは刃のほうなのだと。
泥の上に包みが落ち、あっという間に汚れていく。少年はきょとんとしていた。おそらく彼は、ぼくが包みを受けとると疑っていなかったのだ。無防備に開かれた彼の手からは一拍おいて血が溢れだした。
そこから先のことは、よく覚えていない。ショウ君が教会から逃げ出したとき、外には何も……誰もいなかったと言っていたから、少年はぼくから逃げてくれたのだと思う。
あの雨の日から、全て変わってしまった。雨と一緒に降ってきた人は父だったものを消してしまった。
トマスと父は「同じ存在」になりかけていたから、完全に父がいなくなったわけじゃない。けれど、慣れ親しんだ力関係が崩れたのは明白だった。
ぼくは従うことしか知らないし、人の上に立てるような器でもない。この新たな侵入者に対しても、今まで通りに従おうと思っていた。
トマスは侵入者の弱味を握り排除しようとしていたけれど、ショウ君に対しては意味がなかった。だって、いまだに何を考えているのか分からないもの。自分の知っている「人間」の少なさを思い知らされた気分だった。
自我、思い、感情、そういったものの強さによって、表に出られる順位は決まる。
雨の日以来、もはや彼の独壇場だった。
ぼくが10でトマスが90だとしたら、彼は1000だった。いつも嬉しくてたまらないといった具合に飛び回っていて、興奮してない時がないくらいだった。
いつか落ち着くだろう。いつか隙をみせるだろう。
どちらにせよ、ぼくたちの考えは甘かったとしか言いようがない。だからこそ、今があるのだけど。
けっきょく、父さえ居なければトマスはぼくのままだったのだ。それはショウ君から教えられたこと。そしてぼくが打ち明けたこと。
ヒステリックで、ナルシスト。自意識は高く、現実的で生真面目で、おこりんぼ。悪い連中といった危ないものに憧れを持っているし、戦争や血や殺人が大好きで新聞小説をこっそり読んでいる。アーサーやジャックの真似をして大人ぶっているけれど、本当は敬語なんて使いたくない。
あれは、トマスは生きたいと強く願っていたころの自分だ。何があっても死ぬ気などなかった。
正直、どうしてそんなことを考えていたのか分からない。なにが彼をそこまで生に執着させたのだろう。それさえ分かれば、トマスとの関係も少しだけ前に進めそうな気がする。
――領主としての責任、貴族としての義務、人間としての権利。きっと、君とトマスを大きく隔てているものはそういった「現実」に関することだと思うんだよね。
昨晩、ショウ君が言っていたことを思い出す。
――僕はそろそろ消えるけど、この物語の最後は見届けたいなぁ。
「……立てるか?」
尻もちをついていたぼくに手を差し出してくれたのは、バグショー警視正だった。
失敗した硝子窓みたいな視界の向こうで、彼がどんな表情をしているのかは分からないけれど、おそらく驚かせてしまったんだろう。声に心配がにじみ出ていた。
「ありがとうございます。立ちくらみがしてしまって」
「そんなに貧弱なのだから無理もない。少しは鍛えたらどうなのかね」
いっそ爽快なほど真っ直ぐな意見に笑いながら、手をとる。
以前であれば、他人との会話はトマスの仕事だった。そう考えると、自分でも進歩したと思う。
それからぼくはタルの中から出てきた二人のことを考えた。見送った彼らは、それぞれ、ただしい意味で震えていた。死んだ猫や犬、犠牲者たちの事を考えれば、デルマンとアリスは絞首台にあがることになるのだろう。
それと、あの従僕も。タンカで運ばれて行ったビルという青年について考える。
おそらく彼も絞首台行きだ。彼はただの労働者だから、あっさりと判決が下るだろう。それは、きっと彼の生を願うものではない。
ならば、苦しめず、いっそここで楽にしてあげたほうが良かったのではないか。どうしても、そう考えてしまう。
こほんと乾いた咳の音でハッと我にかえった。バグショー警視正が口元にわざとらしく拳を当て、「あ~」と何か言いたげにぼくから目をそらしていた。
「本来ならば目撃者ということでこの場から動く事など許可はしないのだが……あぁ、もし、もしもだ。本当に気分が悪いなら、一度家へと戻りその場で待機してもかまわない」
それは労わりの言葉に聞こえた。ショウ君の説明によると、この警視正も彼と同じ世界の人間なのだという。それも、とびっきり非情で非道で最高の人殺しという説明を受けている。
そんなことを言われなければ、いや言われても信じられない。彼はとても親切な人間だ。顔は怖いけれど。
「お気遣い痛み入ります、監督さん。おことばに甘えて、レイヴンの事務所にもどりたいとおもいます。なにかあれば、そちらを訪ねてください。今日はこちらの無茶なお願いを聞いて下さって、ありがとうございました。あの、イゾルデは戻ってくるとおもいます。だから元気だしてください」
言った拍子につい頭を下げてしまい、あわてて背筋をのばす。いつもショウ君が頭を下げるものだから、癖がうつってしまったようだ。逃げるように去って行くぼくに警視正は数秒遅れて「ああ」と言ってくれた。どうにも戸惑った様子だ。変だと思われていないと良いのだけれど。恥ずかしくて後ろを見ることができない。
階段を上がろうとして目測をあやまり、ごつんと額を壁にぶつけた。皆、よくこんな暗い場所でぶつからずに動けるよ。
「今のは誰だ?」
「警視正がついにおかしなことを言いはじめたぞ」
「いい加減、老人は歳を考えて引退すればいいのにな」
「はっはっは、いま余計なことを言ったのは君たちかねー?」
「ぎゃあー!!」
ぐるぐる目が回る階段をのぼっていく途中で、そんな不思議な会話が、後ろから聞こえた気がした。