第百十二幕 遺書
「レイヴン様。これ以上はいくらあなたと言えども立ち入り禁止です。院長のご遺志に反します」
思考を中断する。見覚えのある老齢のシスターが道を塞いでいたが、彼女を押し退けて強引に院長室の中へと入った。そこは彼女が生きていた時と変わりなく、沢山の書類と本。そして落ち着いた琥珀色で満ちていた。
「これ以上の勝手は許しませんよ! 警察に行って……」
「警察ならそこにいますから、調書でも直談判でもどうぞご勝手に」
矛先を向けられたジャクリーンは慌てて、私とシスターの顔を交互に見た。
「れっ、レイヴン殿! さすがの私でも、このやり方には問題があると思うのだが!?」
「ジャクリーン、待て」
困りはてたジャクリーンの後ろから姿を現したのは、ダニエルだ。
「なんだ、あなたも居たのですか」
「お前……気づいていたくせに、よくもいけしゃあしゃあと……」
投げやりな私の発言に、ダニエルは頬をひきつらせた。
「話になりません! 違う警察の方を呼びますから!」
ヒステリックな声をあげて、老齢のシスターはつかつかと去って行ってしまった。彼女が戻って来る前に退散しなければ、色々と面倒なことになりそうだ。
「俺に対する対応が三人ともそっくりなのは、あれか。兄弟だからなのか?」
私とジェイコブが似ているのは昔から言われていたことなので今更驚かないが……いや、ジェイコブの非紳士的な発言の数々と一緒にされるのは大変心外だ……ともかく、私たちをひっくるめて似ていると言われるのは意外であった。
「なんだ、その顔は。自分では気がついてなかったのか?」
ダニエルはそう言って、太い片眉を器用に上げた。
「よく覚えておけ探偵。末っ子っていうのはな、兄貴の真似する生き物なんだよ。逆もしかり。反省したなら自分の振る舞いをよく考えろ」
ダニエルの言葉で私は一つの仮説をたてた。それは私にとって非常に都合の良い仮説であった。
リチャードは今も、私たちを慕っているのではないか、と。
「たまには良い事を言いますねと褒めようと思いましたが、その面が大変腹立たしいのでやはり止めます」
私たちの間にジャクリーンがいなければ、険悪な空気になっていたことだろう。
「それで、話が逸れたが。院長室に何の用なんだ。あんたとマザーは確かに仲が良かったが、踏み込みの最中に抜けて来るほどの理由が、ここにあるのか?」
ジャクリーンの前では良い恰好をしたいダニエルが、警察官ぶった口調で訊ねた。この男はもったいないほど、鋭い観察眼を時折見せる。考え、私は彼らに話す事にした。
「この病院はロンドン一の慈善病院です。患者を追い出したりもせず、貧乏人でも払える範囲の診療費しか請求しない、隣接した孤児院では子供たちがはしゃぎ、週に一度の炊き出しを行い浮浪者たちに配布する。実にすばらしいことですが、問題が一つあります」
「何がだ? 良い事ではないか」
ジャクリーンの大きな目が瞬きをした。
「何故そのような慈善事業を続けられるのか、という点です。食堂では外部から料理人をわざわざ雇い、洗濯女を呼び寄せている。善意には金がかかります。この潤沢な財源はどこから出ているのか?」
「この病院には政治家や著名人専門の病棟があると聞く。彼らからの援助なのではないか」
「そう思っていました。実際にこの病院で過ごしてみるまでは。一カ月ほど見張っていましたが、あの四階に人が来ることはありませんでしたよ。だから疑問に思ったのです」
病院に払われる診察費では足りない。善意の寄付金と国からの援助は戦争によって減った。正規の看護師は戦争へ行き、人手は少ない。現在いるシスターの多くは臨時で雇われた普通の女性だ。
そのシスターたちも、知り合いを看病するために長期の休みをとる。この病院はたえず内部の人員が流動していた。そこに疑問を覚えなかったと言えば嘘になる。それでも、マザー・エルンコットなら何とかしているのだろうと信じていた。
「次に気になったのは、聖メアリー病院という名前です」
St.Maryと宙に描き、見えない文字を握りつぶす。
「聖マリア。彼女の名は聖母として有名です。ですが、ふと思ったのですよ。あの、クラブと名乗るのもおこがましい馬鹿どもが口にしていた「聖母」が「人」である必要はないとね。「聖母」という名を冠した、この病院自体が【悪の嚢】に依頼していたと考えられませんか。デルマンの日誌から読み取れた命を吸われた者達の症状はコレラと一致する。病気の人間を効率よく集められる場所はどこか。そして宗教とも関連が深く、政府高官や貴族、有力な商人ともパイプを作ることができる場所は?」
ここまでくると、二人とも私の言いたい事は理解できたようだ。そしてと三本目の指を立てる。
「最後に……三という数字があの中で重視されていたことと、部屋のあちこちに赤と緑の垂れ幕がかけられていた点。これも気になっていました。赤と緑といえばクリスマスを思い出しますが、もう一人、赤と緑を身に着ける聖人といえば聖アンナ。マリアの母とされる女性です。三位一体とは父と子と精霊を現すのが普通ですが、もう一つ、三位一体と呼べる関係性が存在する。幼いキリストをマリアが抱き、マリアをアンナが抱きしめる。これも象徴的な三位一体を表す一つの記号です。そこで考えました。キリストが永遠の命を象徴し、マリアが母体となるメアリー病院を現していたのなら? メアリー病院を一代で築いたマザーこそ、聖アンナなのではと」
彼女のことだ。きっと何か、文章で記録を残しているはずだ。
「私は思うのですよ。マザー・エルンコット、彼女こそ人として動いていた聖母なのではないかと」
十字架、違う。地球儀、違う。引き出しの中、いいや違う。
私が彼女なら、いったいどこに隠す?
ずらりと棚に並ぶ陶磁器の人形。白骨の模型。そして、くまの……くまの人形?
私はそこで手を止めた。病気の子供相手に使われたであろうそれに、どこかに引っかかるものがあったのだ。人形を動かすと、その下には一通の白い便せんが置かれていた。
手紙の表面には『あなたの勝ちよ、レイヴン』と書かれている。
「それは手紙か?」
動きを止めた私を見て、ジャクリーンが手元を覗き込む。
マザーの手紙には、自分が「聖母」として行ってきた全てが記されていた。
病院の四棟四階で秘密裏に延命の儀式を行っていたこと。
ヨーロッパから流入する難民や移民の存在を憂いて、彼らの集う東貧民街地区や港周辺の店を狙ったこと。
食糧不足を解決するため、労働力にならない十二以下の幼い子供を間引こうと決意したこと。
永遠の生命を追い求めるため、そしてロンドンの膿を纏めるために【悪の嚢】というクラブを組織したこと。
得た金銭を病院の経営にあて、良い環境で少しでも死者を減らそうとしてきたこと。
自分の死を目前にして、今までやってきたことが間違いであったと理解した事。
よくある詫びの一文で締めくくられたそれを、レイヴンはジャクリーンへ渡した。
「これを、バグショー……いえ、警視正へ」
「レイヴン殿」
彼女が言いたいことはよく分かった。分かったからこそ、それ以上何も言ってほしくなかった。私の知っているマザーは、こんな事を考える人ではなかった。だが、本人が私宛に手紙を書いている。間違いなく、見覚えのある彼女の筆跡で。
「ええ。友人だと、彼女とは友人だと。ずっと、そう思っていました」
「この手紙は確かにバグショー警視正に渡そう」
ただ、一つ気がかりなのはマザーが亡くなったタイミングが、あまりに良すぎたことだ。まるで自分が死ぬことによって、今回の事態が収束するように機を見ていたようにしか思えない。これは偶然なのか。それとも、彼女は誰かをかばっているのだろうか。
死因は心不全と聞いている。さすがのマザーも寿命からは逃れられなかったのか。刻々と迫る死の影におびえていたのだろうか。
彼女の莫大な遺産は、養子として引き取ったシスター・ナンシーに引き継がれるはずだ。だが聞くところによると、本人はいらないと言い張っているらしい。父親代わりのクロード牧師が彼女に代わって弁護士に相談している最中だが、恐らく、国とバチカン辺りに寄進されるのだろう。
もうそろそろ、向こうでの捕り物も一段落した頃だろう。リチャードが馬鹿をしてなければ良いが。
「おい、探偵」
目頭をもみほぐしていると、ダニエルが鋭い声で私を呼んだ。
「これは、どういう意味だ?」
マザーからの手紙を、彼は持っていた。文章の書かれた側ではない。便せんの裏側。白地が広がるその中に、ぽつんと書かれた一行はひどく不安をあおるものだった。聞こえるはずもない、彼女の明るい声が耳の奥で囁いた。
『けれど、手遅れ 四』
「この末尾の四角は」
「何かの記号、だろうか?」
頭を付き合わせ封筒を見る二人から離れ、黙考する。あれは中国語の「カンジ」という文字に違いない。エルマーの屋敷で見たカケジクという古美術品に描かれていたものとよく似ている。問題は、これがどういう意味なのかと云うことだ。
「恐らくこれはカンジという中国の文字でしょう」
「カンジ?」
「これが、文字なのか?」
二人は揃ってカンジと繰り返した。
「どういう意味だ?」
「そこまでは私にも分かりません。誰かカンジが分かる人間が近くにいれば良いのですが……」
「待て、心当たりがあるぞ」
ジャクリーンが真剣な表情で顔を上げた。
「東地区にサーカス団が滞在しているのだが、その中に最近、中国人の大道芸人が加わったらしい。彼に聞けば、何か分かるかもしれない」
それはまったくの空耳なのだが「なぜそっち!?」と慟哭するショウの声が聞こえたような。そんな気がした。