第百十幕 不在
最初に動いたのは執事だった。
何か起こる前に終わらせる。そうそう、予防の心がけは大事だよね。
キレイな顔の彼に恨みはないけど、邪魔をされるのは面倒だから少し痛い目にあってもらおう。顔を刺すのは止めておく。だって、勿体ないし。
そうなってくると、問題は殴りかかってきた攻撃手段を止めるべきか、移動手段を止めるべきかになるんだけど……よし。面倒なので、両方にしよう!
もう一本。左の袖口に隠してあったナイフを取り出し、向かってくる彼に投げた。こういう時、的が大きいのは楽でいいね。とっさに避けようとした相手の右足に、重心が移るのを確認する。
鉄板仕込みの革靴の良い点は、当たり所が良ければ骨も砕けるところだ。体勢を低めに落とし、彼の懐まで飛び込んだ。床に手をついて支点にする。そのまま彼の右下腿を思い切りつま先で蹴飛ばした。が、手ごたえが軽い。まずい、前より体重減ってるのかな。致命傷まであと三歩。
見上げると、執事と目があった。真上にある脇を刺し……たら、出血多量で死んじゃうかもしれないので、見事な筋肉のついた右の二の腕にナイフを差し込む。僕をつかむはずだった左手は、刺された箇所を押さえていた。体をくの字に曲げて叫ぶ彼の背後に回り、靴底で背中を蹴り飛ばす。脚に力があまり入っていなかったのか、思ったより飛んでいった。痛みで相手から意識を外すのは、下策だよ。
「昆虫標本って、やったことないな」
うつぶせに倒れた執事の関節部分にナイフを刺した。服を床に縫い留めるつもりだったけれど、多少シャリシャリとしたものを切断する感触が。あー……目測を誤ったかな。ごめんね。念のため、刃先をねじって抜いておこう。
ここまでで五秒経過。ちょうど良い頃かな。階段に向かって血塗れのナイフを投げると、悲鳴があがった。もしかして、どちらかに当たってしまったのだろうか。
顔を上げると、階段前で立ち止まっている二つの影がいた。良かったー、二人とも当たらなかったみたいだ。かすったみたいだけど。
「で」
よっこいしょと立ち上がる。片手で新しいナイフを取り出しながら、二人の傍に歩いていく。どちらか動いてくれてもいいんだけど、固まったみたいにその場からピクリとも動かない。
「今から、デルマンさんで遊ぶんだけど、アリスは僕の邪魔をする?」
彼女は明らかにほっとした表情になるといいえと首を横に振った。
「良い子だね」
その答えに満足すると、壁側に積んである樽を指し示した。
「わるいけれど、ちょっとあの中に入っていてくれるかな。生きたまま入れば、生きたままだしてあげるから」
アリスは腕を組んだまま、一度デルマンを見た。そして此方の様子を伺いながら、ゆっくりと横倒しの樽に向かって歩いていく。最後は四つん這いになって樽の中に姿を消した。
「デルマンさん」
上機嫌でクリスマスツリーカラーの彼に近づく。十センチ近い身長の差のせいで相手を見上げるのはご愛敬。膝から下を切りとったら、同じくらいの身長になるかな。
「わ、わ、わ、私に歯向かったら、どうなるか……」
「歯向かったら?」
歯向かったら。歯向かったら、だって?
彼の言ったジョークの中で一番おもしろい。声を出して笑うと、部屋のあちこちに反響して多重唱になった。それがまたおもしろくて、しばらく笑っていた。
笑いの波が一段落するころには、デルマンはすっかりおびえた目でこちらを見ていた。
「どうなるの? お金や権力で相手を完膚なきまでにつぶしてみる? 暴力で逆らえないように脅してみる? 僕を相手にやってみる度胸が、あなたにありますか?」
「この、この悪魔め!」
「悪魔じゃないよ、化け物でもありません。ちゃんとした人間さ。ただ、ちょっとばかり怒っていますけどね。なにせ、君のせいで、すごくまずい水を飲んだんだから」
そこで、彼はどうして僕がこんなに怒っているのか。ようやく理解できたようだ。
「あ、あれは『聖母様』の指示通りに……」
ほら、また出た。聖母様。
「その聖母様ってのは誰なのですか。その人にもごあいさつしなきゃ、いけないんですよねぇ。ほらほら、早くしゃべらないと、出っ張った部分から平たくしていきますよー」
「し、知らない! 本当だ! 彼女の用意した船が、毎晩零時に波止場につく。そこで指示の書かれた手紙を受け取り、商品を引き渡しているだけなんだ――……」
「彼女?」
鼻先にナイフを当ててやれば、引きつった悲鳴が喉から出てきた。
「だってそうだろう!? 手紙を書き、姿を現さない! 聖母なんて名乗る男なんて、いるものか!!」
そう言ってデルマンは泣き始めた。僕はしばらく考える。アリスの入った樽を蹴り(中から悲鳴のようなものが聞こえたけれど気にしない)その上にのって考える。
「あ、デルマンさんも、そこの樽に入って。ちょっと実験したいことがあるから」
鼻を垂らしていた彼はキョトンと僕を見上げた。
「はいって、くれるよね?」
すすめると、彼は裏返った声で樽の方へ駆けていった。
「なんだ、ここは!」
ゴドウィン、ハーバーが階段を駆け下りて来た時、僕は時間つぶしに遊んでいる最中だった。先行していた二人から遅れて、ぞろぞろと黒い警察帽をかぶった警官が雪崩れ込んで来る。広場の様子を見て、言葉もなく立ち尽くしている。その中にレイヴンの姿は……なかった。
「……リチャード」
「なんだ、バグショー警視正も来てたんですね」
掘りの深い面立ち。葬式帰りを思わせる沈痛な表情。不健康な肌に刻まれた、石膏のような表情。年月を経て灰褐色となった双眸を細めたバグショーが、重々しい足取りと共に最後に現れた。
「イゾルデが、まだ戻らんのだが」
「そうですか」
この広場を見て、最初の発言が自分の飼い猫の心配とは。この男もなかなかおかしい。
「ジェイコブ医師にも聞いてみたが、トリスタンも彼の元へ戻っていないそうだ」
「……そうですか」
ところで、重く彼は言った。そして人差し指を下に向けた。
「横倒しになった樽にナイフを刺して、一体何をしているのかね」
「詐欺師危機一髪」
暇だったのでアリスが入った樽の隙間に手持ちのナイフを刺している。樽の隙間から外の様子を見ようとした瞬間、眼球にナイフが刺さる仕様。念のため刃こぼれしたナイフを刺している。刺す度に執事が叫んで、心地よい。
「樽がロープにつながれて水路に浮かんでるぜ」
「何から悲鳴っぽいのが聞こえてきやがるんだが、こりゃあ一体?」
奥を見ていたハーバーが困惑したように呟いた。
水路の中にはロープをくくり付けた樽が浮いている。必死に流されまいとしているものの、わずかな振動であっという間に流されて行きそうだった。
「それ、デルマンさん」
樽には釘を一本だけ打ち付けてある。揺れ動く樽の中のデルマンさんが現在どのような状態なのかは、水流のみぞ知る。
不運にもいろんなとこに釘が刺さって出血多量で死ぬのか、不運にも水が樽の隙間から入って溺死するのかか、不運にもイロイロあってショック死してしまうのか。それとも幸運にも無傷で出てくるのか。開けてみないとわからない。悲鳴があがっている内は、生きていると言える。
「あの樽に、もう一本釘を打ち付けても良いだろうか」
じっと水路を眺めながら、バグショー警視正が呟く。
「ご自由に」
担架で運び出される死にかけの幼子を横目で見ながら、僕は答えた。
「あれは……」
「たのしい昆虫標本」
名前を忘れたけどアシュバートン家の執事。レイヴンが覚えているだろう。手足に刺したナイフを一度に抜かなければ、失血死する危険はない。多分。腱を切ったので、しばらくは動けないだろう。顔がいいので、いくらでも就職先はある。安心してほしい。
「一ヶ月前の俺達ってさ、もしかして運が良かったのか?」
「今、初めて、そうかもしれないと思った」
ゴドウィンとハーバーが、異質なものを見る瞳でこちらを見ている。笑顔で手を振るとピャッと飛び上がった。失礼ですね。
「それで、レイヴンさんはどこに?」
不機嫌なのが声に滲んでいたのか。驚いたようにバグショーが目を開いた。
「君でも不機嫌になることがあるのだな」
「なんですか? 怒っちゃ悪いとでも?」
「いや、いいや。別に悪くはないんだが……レイヴンだったか。彼は我々にここを任せると言って、先程出て行ったよ」
「はぁっ!?」
立ち上がった拍子に、椅子にしていた樽がごろりと転がった。
「出て行ったって、どこに!?」
「私は知らんよ」
“頑張ったのにレイヴンに見てもらえなかったのでガッカリしているに一票”
‘授業参観ではりきって手をあげたけど先生に無視されて拗ねているに一票’
「うるさいですよっ、外野!」
独り言に対して「ああ」と顔を覆ったのは、なぜかバグショーだった。
「そうか、私の知っている君はもういないのだな……」
悲痛にも聞こえる呟きの真意がわからず、僕はイライラした気持ちのまま眉を寄せた。