第百九幕 水路
「まさか、そんな。バカな。そんなはず、あるわけない。そうであるはずがない……そうか! 私はだまされないぞ、それは盗品だろう!?」
デルマンの口調から気取ったフランス訛りが抜けた。最初からそういうしゃべり方なら良かったのにと心の底から思う。
「盗んでいませんよ。これは僕の家のものです。ねぇ、アリス」
アリスが無言のまま頷いたことによって、彼は正確に、僕が誰だか理解した様だった。赤らんだ顔から、一気に血の気が引いていく。化学反応みたいな、劇的な変化だった。
「アリスの経歴を知っているのならば、僕の事も少しはご存じでしょうか?」
「嘘だ。なぜ、伯爵があのような場所へ……ありえない、ありえない……」
その点に関しては、自分でもそう思う。
「面白いウワサを聞いて顔をだしていたのです。世間での僕の通り名をご存じでしょう? 謎々を収集する変人。閉じこもるだけしか能のない世間知らず。あぁ、大人になっても人形遊びをしている不能ってのもありましたか。自分では結構、人前に出ていると思うんですけどねぇ。どうしてか、皆さん。僕とは会わなかったと思っているようで」
そこまで喋って、口を閉ざす。
「それで、デルマンさん。僕に何か言うことがあるのではないですか?」
「はぇっ?」
本気で分かっていなさそうなので、親切に全部教えてあげた。
「ごめんなさい、は言えますよね?」
「ご、ごめんなさい」
「聞こえません」
「さ、さ、さきほどはたいへん失礼な物言いをして、申し訳ございませんでした」
「……それだけぇ?」
デルマンはくしゃりと顔をしかめて、泣きそうになった。
「冗談ですよ。その変な顔に免じて許してあげます。ところでアリス。先ほどから聞こえる水の音は何ですか?」
なにやら自失しているデルマンは放っておいて、部屋の周囲に掘られた側溝へ視線を向けた。ザアザアという音が足の下から、かすかに聞こえる。
「ここは地下の下水路と隣接している部屋だから、きっとその音ね。向こうで死体やごみを流しているの。テムズの底に沈めば誰にも見つからないもの。良い場所よね」
この部屋は本来、秘密の脱出口として作られているように思えるが、当初の目的とは違う方面での脱出口として生かされているようだ。地下牢があることといい、この建物がどういった目的で作られたのか気になる。いや、それよりも今は他に気にすべき点がある。
「ここにも、水が?」
目的は死体遺棄などではなく、東より先、海に至るまでの広域水源を汚染することなのではないか。そんな気がしてきた。
『ユニコーンと盾』を標的に選んだのは、あそこを拠点として船乗りたちを感染源にするため?
共有井戸があるということは、地下水源があるという事だ。その周囲に民家が集まる。近くにはテムズ河。孤児院も近く、水はけが悪い。空倉庫が密集して並び、船着き場が近くにある。
衛生、などというものが本当に感染を防ぐ効果があるのなら、手を洗う習慣などない『ユニコーンと盾』の客は感染を拡大する上で、最高の人材に思えた。
だが、街中に病をばらまいて、どうするつもりだ? 確かにロンドンを押さえればヨーロッパ、もしかしたら中国、インド、アフリカあたりにまで、感染が広がるかもしれない。
だが、それだけだ。
コレラで死ぬ人間は少ない。百年前ならいざ知らず、いま命を落とすのは、栄養失調のガキか老人といった弱者ぐらいなもの。
病人を増やして、弱いヤツを排除して「聖母」という奴はいったい何がしたいんだ?
「水が、何か?」
「いいえ。何も」
まぁ、いい。謎解きは僕の仕事ではない。詳細は本職に任せるとしよう。それに早くしないと猫馬鹿がつっこんで来てしまう。
「向かいに並んでいる樽は何のために置いてあるのですか?」
壁際には巨大な樽がワイン蔵のように、横向きに重ねて並べられていた。
「あれは、聖水置き場ね。この部屋で儀式をする時には、最初と最後にあそこで禊ぎをするの。汚れた罪を洗い流すためにね。今日は、空になっているわ」
聖水が、タルに入っている。神聖さもずいぶん身近になったものだ。中身はただの水だろうな。積み重なった山を見ていると、閃くものがあった。
「ねぇ、デルマンさん。さっきはあなたが謎を出しましたよね。今度は、僕から一つ出したいと思います」
この提案にデルマンはあまり乗り気ではなかったが、隣のアリスが興味を示した。
「あら、すてきね。一体、どんな謎なのかしら」
「ちょっとアリス! 失礼よ」
勿体ぶって肩を上げると、アリスとデルマンが互いに顔を見合わせた。執事の男は無表情のまま。ただ、わずかに足の重心を動かした。
“手持ちのナイフは?”
(右手に三、左手に三。右足に三、左足に二、内ポケットに五)
‘これからどう行く?’
(初手でアリスかデルマンを狙えば、すぐに執事が向かってくるでしょう。その間に狙わなかったどちらかが逃げるでしょうね)
“デルマンは反射神経が良くないから、事態を飲み込むのに数秒かかると思うよ。殴りかかってくる度胸もないね”
(彼が反応して逃げるとすれば、猶予は五秒といったところでしょうか。アリスは?)
‘攻撃はない。すぐに逃げるだろうけど、きっと動きは遅い。階段に着くまで三秒ってところじゃないかな。あのスカートにハイヒールじゃあ、階段をあがるのだって一苦労だよ。執事君を壁にして、彼女から見えないように動けばいい’
(彼らの目の前で魔法陣を壊してやったら、どんな悲鳴をあげるんでしょうね)
“祭壇を壊したら良い反応しそう。ああ、忘れないで”
(何ですか?)
“今日は君が主役。僕たちは眼鏡がないからよく見えないけれど、君は違うでしょう?”
それは、僕に主導権を全て握らせるという意味に聞こえた。
(気味が悪いですね。普段は僕を表に出そうとしないくせに。いったい、何をたくらんでいるんですか)
“たくらむって……。間近でアクションシーンを堪能するには、当事者じゃなくて傍観者になったほうがいいと気づいただけだよ”
一人の答えに、引きつった笑いが漏れた。
そういった類いの答えを予想していたが、予想を更に下まわる答えだった。
“じゃあ、切り替えるよ。後は頑張って。向こうは三人。だけどこっちも三人だ”
‘ぶっちゃけ、君一人でもじゅうぶん過ぎるほどなんだけどね’
分かっているじゃないですか、君たち。片側の口の端を持ち上げる。後で非難されても、僕は聞かないよ。
「問題です。僕は誰でしょう」
「ライン卿、ですよネ?」
戸惑った表情のデルマンに外れ、と首を振る。
「リチャード様?」
小首をかしげるアリスに外れ、と首を振る。
「あとは君だけ。執事君どうぞ」
「私など、答えるに値しない者ですので……」
こちらに対する警戒がはねあがる。
「答えて。今日は殴られるし、縛られるし、牢に入れられるし。散々な日だから、多少君が失礼なことを言ったぐらいじゃあ、怒らないよ」
手を広げて答えを求めた。解を求めた。執事は苦々しい顔をしながら、たった一言、こう告げた。
「あなたは敵です」
今までの中で、一番正解に近い。だが、不正解だ。
範囲が大きすぎる。もっとピンポイントで答えてくれなきゃ。
「うーん、惜しかった」
Who am I ?