009-3 ベンジャミン・リンドブルーム(下)
ジョージアン様式の建物の前を汚水が流れていく。フランス人と同じ数ほどあるソーホーの薄暗い売春宿は今夜のような天気でも退廃的に繁盛していた。道脇の濁流に逆らい、治安の悪い煉瓦通りを一台の馬車が駆けていく。
フィッツロビア地区、芸術の区画。ここには黒いエールを飲む芸術家か、緑のアブサンを飲む芸術家しかいない。そうは言ってもかつての高級地区としての名残は数多く残っている。
高級住宅街に囲まれた質素な建物もその一つだ。馬車は家の前にゆっくりと止まった。
かつては馬小屋として使われていた長屋住宅。黄色とアクセント代わりの赤い煉瓦。しつらえられた小さな前庭ガーデンにはバラが植えられている。バラはつぼみをつけたまま、夜の雨にうなだれていた。
ベンジャミン・リンドブルームは滝のような雨の中、歩いて玄関の呼び出し音を鳴らした。家の中には灯りがともっている。家主が出てくるまでの間、屈強な老船乗りである彼はそわそわと玄関先で身体を揺らしていた。扉が開くまでの数十秒が、まるで何時間ものように感じられた。
リンドブルームの絶望しきった表情を見ても、扉を開けた青年は驚くこともなく客として迎え入れた。
リンドブルームが柔らかい絨毯を踏みつけ泥を落としても、淡々とした表情を崩すことはない。
「レイヴン! これ以上最悪なことが起こるだろうか」
憔悴しきった表情のリンドブルームが遂に叫んだ。
「……私にとっての最悪が何だか分かりますか」
レイヴンと呼ばれた青年は冷静に首を振り、リンドブルームの足元を指さした。
「まずは、その濡れねずみのようなコートを脱いでください。ベン、私の家はノアの箱舟ではありませんので」
長い金髪をリボンで結んだ美男子。シャツとジャケットという部屋着にも関わらず、堂々とした振る舞いが彼を貴族のように見せていた。ギリシア彫刻のような彫りの深い顔と白い肌。空と同じ色をした垂れた瞳を細め、探偵レイヴンは友人を招き入れた。
「煙草は」
「結構」
レイヴンは暖炉に火をくべ、リンドブルームに前へと座るようにうながした。机にはブランデーの小さなグラスが置かれていたが、断る前にリンドブルームは大瓶から直接アルコールを喉の奥へと流しこむ。リンドブルームの非礼を見咎めることもなく、レイヴンは軽く肩をすくめただけであった。
瓶を置いたリンドブルームは、ようやく室内に彼以外の人間がいることに気がついた。
黒髪の美しい女性だった。明々とした暖炉の炎に照らされた炎、真っ赤に濡れた唇。情熱的な瞳には暖炉の炎が写り込んでいる。前髪と羽織ったレースのショールから流れる雫が、彼女も来たばかりだということを告げていた。
「彼女は私の顧客であるエルメダ・アッシャー」
「お見知りおきを」
リンドブルームは差し出された手をレース手袋越しに握った。芯まで凍りそうな、冷たい手だった。
「こちらは私の友人、ベンジャミン・リンドブルーム」
「初めまして、レディ。このような無作法を見せた私をお許しください」
「構いません。お名前は以前より聞きおよんでおりました」
女の口ぶりは冷たいものであったが、同情の色も滲んでいた。互いに疲れたような息を吐くと、硝子細工の上にでも座るかのように恐る恐る、椅子の上へと腰をおろした。
「それで何があったのですか」
レイヴンの問いかけにリンドブルームは戸惑った。エルメダと呼ばれた女性の存在をどうしてよいものかと視線で問いかける。
「私の事はお気になさらず。リンドブルーム様、気になるようでしたら別室にて待機しております」
エルメダの控えめな提案にレイヴンは清々しい笑顔を浮かべた。それは彼が不機嫌な時にする癖のようなものだった。
「お孫さんが、家に帰らないのですね」
リンドブルームが言いよどんでいると、レイヴンが口を開いた。
リンドブルームは驚いたように目を見開く。
「あなたの弱点は驚くほど少ない。が、弱点を突かれた時のあなたは驚くほど弱い。あなたの孫は恐れを知らず、お人よし。大好きな祖父とそっくりですね。久しぶりに祖父が帰港するとなれば、あの子が家を抜け出し『ユニコーンと盾』に行くのは明らかでしょう。そして彼女の悪癖も私はよく理解している。遠くで聞こえた警察の笛の音。ロンドン中を走り回る黒塗りの馬車。こんな夜に黒い高級馬車を使う理由など、真っ当な目的ではない。慌てた様子のあなたが現れた時刻は二十二時。あなたは孫のエリザベスを安全に送り届けようと馬車に乗せたのでしょうが、こんな時間帯に港町で待機するような酔狂な高級御者など、どこにいるのでしょう。だとすれば、最初から馬車は店の近くで待機していたと考えるのが自然。理由は? 狙いは? 考えるまでもない。今朝帰港したばかりの貴方だ。リンドブルーム」
「そうだ、その通りだ。レイヴン。しかし君の洞察力の高さを褒めている時間はない。そう、確かにエリザベスは私の元へときた。ところがあの子は、見たことも無いおかしな青年を連れて来たのだ。言葉のつたない、子供のような、ひどく整った容姿の男だ。私は嫌な予感がした。そして、その通り、そいつは彼女を連れて行ってしまった。馬車を呼んでくれた船乗りのダックも、エリザベスも、そいつと共に、こつぜんと夜の闇に姿を消してしまった!」
「ふむ」
レイヴンは喋らなかった。じっと黙って床の絨毯に視線を落とした。
「その、青年の特徴を覚えていますか」
「髪の色は焦茶、瞳は琥珀。幼子のように酒場に目を輝かせていたかと思えば、蛇のように狡猾な言葉で私の暗い過去を言い当てる二面性を持っている。キーツの詩を好む非現実的な思考の気の弱そうな若者だと思いこんでいた。あのような大胆なことをする男だと分かれば、力づくでエリザベスから引きはがしていたのに。そうだ、目が悪い。途中から巨大な眼鏡をかけていた。英語を理解しているふしはある。しかし操れるとは言い難い。いや、しかしどこか君の言い回しに似ていたような……まぁ、いい。匿名を名のるだけの、学はあるようだ」
喋る事に必死で、リンドブルームは室内にいる他の人間がどんな顔をしているかまで気にもとめなかった。大きな音で遮られ、リンドブルームははっと顔をあげる。例のエルメダ・アッシャーが蒼褪めた顔で立っていた。
「エルメダ」
立ち去ろうとしたエルメダをレイヴンが止める。うらみがましい視線のエルメダに、レイヴンは涼しい顔だ。
「お二人の依頼は承知いたしました。ところで船長。このエルメダは、さる有名な伯爵の元で女中頭をしているのですよ」
レイヴンはエルメダを見た。彼女は再び椅子に座ると、腿の上で拳を固く握りしめ、決意したように話はじめた。
「主人の名はリチャード・トマス・ライン卿と申します」
リンドブルームは言葉を失った。
前トマス・ライン卿といえば貴族議員でも有名な強硬派の男である。柔軟な発想の彼がまだ五十半ばで亡くなったのは大英帝国にとって大きな損失であったといえよう。上二人の息子も将来有望であったが成人前に他界した。結果、現在爵位を継いでいるのは一番下の、顔だけしか似ているところのない出来損ないだと言われている。
「今夜、鍵のかかった部屋から忽然と姿を消したのです」
それが現リチャード・ライン伯爵。
人前に姿を現さず、全ての業務を代理人を通じて行う隠遁者。
社交にも顔を出さない臆病者。時折パーティに出る彼すらも、代理人か前ライン卿の隠し子ではないかとの噂がある。
「船長、あなたの見た特徴から察するに……エリザベス様の連れてきた男は、ライン卿である可能性が非常に高い」
ことん、と部屋に音が響いた。リンドブルームの顎が落ちた音ではない。机のブランデーグラスが絨毯に落下した音であった。