第百六幕 地下
「悪いけれど、少し外してくれるかしら?」
艶めいた声の主と入れ代わりに牢番が立ち上がり、上階へ去っていった。
格子の向こうに姿を見せたのは、先程デルマンに声をかけた女だった。背後には見覚えのある執事が物言いたげに控えている。
アシュバートン邸の時とは違い、男は愛想笑いを浮かべない。
眼差しから読み取れる感情は敵意。緑眼の魔物に憑りつかれた、男の目だった。
女主人に対して一歩下がった位置で傅く彼から理性を費やした従属を感じる。
”使えそうだ”と、珍しく意見が同調した。しかし次の言葉は耳の奥で響いた雨垂れの音に消える。それは次第に強くなり、窓を強く叩くザアザアとした嵐の音に変化していった。おい、と呼びかけても返事代わりに聞こえるのは風の音。何をやっているんだと苛立ちが募る。
「……こんにちは」
意識を引き戻し、相手に声をかけた。暗闇でも分かるほど赤い口紅、白く細長い首筋。鳥かごのスカート。先端を隠しているだけの丸い胸。ギリシャ風に結い上げられた髪。赤く染められた爪と指の間には、煙草のささった煙管が挟まっている。ゆるやかに立ち昇る紫煙が靄のように周囲を漂っていた。
若くはないが、老いの影も寄せ付けない。妙齢の女主人としての佇まいを知っている。
「ごきげんよう、可愛い人」
女は両の腕を組み、わざと胸元を強調させていた。魅力的、蠱惑的、挑発的。どうとでもとれる、わざとらしい、手慣れた振る舞いだった。その気が無い時に誘惑されても食指が動かない。だが淑女に恥をかかせるのは紳士の本分ではなく、神経を逆撫でする言動に笑顔で応える。
「デルマンを怒らせてしまったのね?」
「そのようです」
彼女は秘密を讃えた眼差しで此方を見ていた。品定めをする競売者の影と重なり……、それがふと、いつか見た誰かの影と重なった。この女には前もどこかで会ったような。思い出せないもどかしさに、爪を噛む。
「以前にも、お会いしたことが?」
「えぇ、貴方がそう言うなら」
白い手が鉄格子の隙間から霧のように入り込んだ。整えられた彼女の赤い爪が頬に触れる直前で我に返り、慌てて後退する。彼女の指は目の前で空振りし、蛇のように去っていった。
“……眼鏡を取られたら過去編に突入しそうなパターンだったなぁ”
雑音のように聞こえていた思考が、急速に明瞭な形へと変化した。先程の嵐はなんだったのか。問いかけるのは簡単だったが、彼の行動に理解できるものなど一つもないことを思い出した。何ですか、パターンって。パターンってのはね、と煩わしい解説が始まる前にわざとらしく眼鏡をかけなおして話を切る。眼鏡の弦を耳から浮かせ、外れやすく調整した。
「大胆ですね」
‘牢の中で良かった。これならお互い手出しできない’
人の事を、どこでも誰でも見境なしに殺りまくる節操無しのように言わないでもらいたい。それなりの礼儀はわきまえているつもりだ、と釘を刺す。
「そうね。大胆とか、考え無しとか。よく夫に言われるわ。褒め言葉として」
鍵の外れる音。閉められたばかりの牢の扉を執事が開けている。四角く切り取られた扉の向こうで、女が微笑んでいた。
“……ごめーん、フラグたてた”
珍しく殊勝な声に「別に」と返す。彼女は最初から牢の鍵を開けるつもりだった。そうでなければ鍵を持っている理由の説明がつかない。ただ、それだけのことだ。
リチャードの感じている恐怖か。サスペンス映画を月平均八本はレンタルしているとほざく寄生生物の先見の明か。はたまた、自分の領域に土足で踏み込んで来た不法侵入者に対する苛立ちか。目の前の女に対して最大限の警戒をもって相対する。
「ようこそ、ライン卿。歓迎するわ」
ニコリと口の端を釣り上げる女の目は、笑ってなどいなかった。
【回想/Side:ショウ】
「殺人は男だけがするものですよ」
テレビ画面を眺めながら、トマスが言った。その表情は死んでいる。
画面にはわざとらしいほど大量の血のりが飛び散っていて、画面の向こうではビキニ姿のハニーチュロスという頭のおかしい存在が淡々と街を襲っている。彼がこの映画に飽きたのは明白だったので、早送りボタンを押した。
「女性だって人を殺すよ。奥さんが旦那さんを毒殺するとか、事故に見せかけて義母を抹殺するとか、よくあるし」
「ですが、純粋な快楽殺人者は少ないのではありませんか」
「それ、自分を特別だと思いたい殺人鬼のセリフー」
抱えていたポップコーンが無くなったので、別れを惜しみながらゴミ箱へシュートする。外れた。画面の向こうではハニーチュロスが甲高い叫び声をあげている。
「シャーロットはどうなのさ。父親の真似をしようと必死だったじゃない」
「アレは、ただの真似事であって、自分の意思で死を欲していません」
キキュケケケケケ。
耳障りな鳴き声の菓子だと、トマスが顔をしかめながら言った。
「僕と同じ事を考える女が存在するなんて、考えられません」
「言ったな? 言ったね? よーし、ちょっと待ってて。女性が犯人の映画でオススメ探してくる」
「待って下さい。そのテーマで或る程度、犯人の見当がつくではありませんか」
「あ、それもそうだね。じゃあ、適度に男性が犯人のやつも混ぜよう」
「最初の一本目が女性の犯人で確定するような言動は止めなさい。そういう意味ではなく、こういったくだらない映像を僕に見せるのは止めろと言っているんで……ああああ、聞いちゃいないこのクソがぁ!」
【回想終了】
“アリス・アシュバートン”
――アビゲイル・アシュバートンの母親。浮気性。父親のヘンリーとは違い、娘の家出には無関心。ただし、自分の持つ孤児院の子供たちには母親らしく振る舞っている。一作目、本編中盤で何者かに井戸に突き落とされ溺死。その後、腹を裂かれた状態で孤児院に吊り下げられているところを発見される。
「アリス・アシュバートン」
――二十年前、ライン家で働いていた女中。アシュバートン姉妹の妹。トマス・ラインの愛人。地下で僕達の世話をしていた黒魔術偏執狂。
「良かった。ようやく思い出してくれたのね」
「少し、時間が必要でした」
続けた挑発に乗ったのは、執事だけだった。
「まさか売女ごときが敬語なしで話しかけてくるだなんて、思いませんでしたから」
アリスが止める間もなく拳で殴りつけられる。体格差もあり、よく飛んだ。眼鏡が外れて床に落ちる。拾い上げる前に革靴が床に落ちたそれを踏み潰した。
“この世界の人達は、眼鏡に何か恨みでもあるのだろうか……”
哀し気な呟きの中、磨かれたピアノのような執事の黒靴が丁寧に残骸を踏みにじっていく。ちょうど良い大きさになった硝子片が散らばった。
「ビル、止めなさい」
「しかし、こいつは奥様にむかって」
「止めなさいと、私は言ったの。二度言わせないで」
息を荒げていた二本の足が渋々離れていく。それほど痛みはない。当たったタイミングを見計らって大袈裟にとんで見せただけだ。口論する彼等に隠れて、集めた硝子片を手のひらに隠す。
「そう、良い子ね」
「申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました」
牢の扉を開ける理由など、そう多くはない。顔見知りである僕を逃がすか、どこかへ連れて行くつもりかのどちらかだ。会話から察するに、逃がす気配はない。挨拶で終わらせる気もなさそうだ。ならば選択肢は自然と限られる。
今後の事も考えて追従者への目印を残しておくべきだろう。もっとも、この地下の暗闇で透明なガラス片を見つけられるかどうかが問題だ。探偵には期待している。さっさと仕事を終わらせて、この不衛生な場所から出たいものだ。
“ベクデルテストに文句を言うつもりはないんだけど、人質って普通さぁ。美女か、頭脳作業者か、容疑者から除外したい人がなるもんじゃないかな……。このメンバーだとさ、本来ジャクリーン巡査部長のポジションだよ。これ。でも、人質交代するとなると、僕がジャクリーンさんの捕まるシーンを見られなくなるわけで、とにかく悩むよねぇ……”
内容はともかく、切れの悪いはっきりしない物言いだった。そうして、しばらく寝言のような言動を繰り返した後、ショウははっきりと「眠い」と口にして黙りこんだ。この状況で眠いと口にできる人間を、ただの「鈍感」として括っても良いのだろうか。
こいつが眠った所を、見たことがない。これは機会なのではないだろうか。寝たところを殺せば、幾ら悪魔と言えども消滅するのでは……。
いや、今は此奴らを片づけるのが先決だ。
ビルと呼ばれた男を咎めるアリスの口調は毅然としている。かつての面影は見当たらない。どちらかと言えば陰鬱で、視線を合わさずぼそぼそと喋る女だった。こんな派手な格好をする性格でも、他人に命令できる性格でもなかった。メイドとして仕えていた女の変わりように、年月を感じる。よろめきながら立ち上がると、落ちる前髪で目元が隠れている事を確認した。
ベクデルテスト:映画におけるジェンダーバイアス測定に使われるテスト。
あるフィクションの作品に、
1、最低でも2人の女性が登場する
2、女性同士の会話がある
3、その会話の中で男性に関する話題以外が出てくるかが問われる。byウィキペディア