第百五幕 神曲
「悪の嚢へようこそ」
扉への下り階段は急だった。
三段も降りた頃、奥底にひっそりと備え付けられた鉄製の扉がようやく姿を現す。
全部で六段。されど六段。振り返っても地上の景色なんて見えない。降りて来た六段の壁が地上を覆い隠してしまった。地の底へ至る入り口。
デルマンはガーゴイルの顔を模した青銅のドアノッカーを三度鳴らした。
「晩課」
そう呟いてから再びドアを三度ノックする。悪魔の扉は緩やかに、その門を開いた。
マーレボルジェ・クラブなどと云う場所に、ろくな人間が集うとは思えない。
地獄の奥底、その一つ前。悪意を持った人々が十の罪に分けられ、苦しむ場所こそ"悪の嚢"。
僕がここに来た理由は「知っている人間がいるか探る為」だが、全員知った顔ですというオチも容易に想像できた。己の人間関係の狭さと、人でなしの多さに自然と自嘲めいた言葉が浮かぶ。類は友を呼ぶ。
室内は暗く空気が澱んでいた。自然の清んだ涼しさとは無縁の、黴と泥にまみれた墓の臭いが、人肌で暖められた香水の下に隠れている。
入った先の広間は、一見すると大衆酒場のように思えた。
壁には等間隔に三つ枝燭台が備え付けられており、全てに朱色の炎が灯っている。外はまだ陽が出ているにも関わらず、窓一つない空間には蝋燭以外の光源がない。
個人で座る卓と複数人用の肘掛椅子が三組ずつ置かれ、奇数であることも相まってどことなく落ち着かない。卓上に置かれたランプの芯がジジと音を立て油を緩やかに消費していた。
「あらぁ、デルマン。早いじゃない。早い男は嫌われるわよぉ」
椅子に座っていた一人の女性が、気だるげな表情で振り返った。
長いブルネットを頭上で結い上げ、白い項となだらかな肩を露わにしている。その場にいるだけで空気が退廃的になる、一種異様な雰囲気を持つ女だった。
女の傍らには男が立っていた。金髪の、体格の良い、見目美しいゲルマン系の男である。それがアシュバートン家で会った執事であることは間違えようもなかった。彼は僕らを一度見ただけで、あとは興味を失ったように再び視線を伏せた。
「前から貴方が連れ帰るのは中性的な子ばっかりだと不思議に思っていたけれど、本当は男に興味があったのね?」
女の垂れた目が此方を向く。目元の泣き黒子が僅かに持ち上がり喜色を帯びた。その場に立っていた全員がデルマンから一歩離れ、その中にはデルマン自身が雇った護衛の姿も混じっていた。
「ふざけ無いでチョーダイ。これを連れて来たのは、地下に放り込んでやろうとおもったから」
髪を引かれ「これ」と示される僕に反応したのは、ハーバーとゴドウィンの二人だけだった。首がすっぽ抜けたらさぞかし楽しい反応が見られるのだろう。残念な事に、首の取り外し機能はついていない。
「うーん、それは愛憎、って事かしら? そういうのも好きよ。盛り上がってきたら、私も呼んで頂戴ね。三人で、ううん、ビルもいるし四人で楽しみましょうよ」
「相変わらず話を聞かない女だこと……」
赤い口紅を塗った唇を舐める女性から、デルマンはあきれ果てたように視線を逸らした。
「そいつを牢の中にでも入れておいて。あそこなら逃げられないデショウから」
「かしこまりました。ほら、さっさと歩け。余計な事、ひとことでも喋ったら承知しねェからな!」
ゴドウィンに連れられて、部屋の奥に位置する階段を下る。関係者以外立ち入り禁止の札でもありそうな降り口の向こうに武骨な岩壁が続いている。どうやらこの建築物は、地下洞窟の上に建てられているようだ。
「まったく。今日はとんだ厄日ヨ」
「その様子だと『ユニコーンと盾』の買い取りは失敗したようね。早くしないと、さすがの『聖母様』でも怒るわよ」
「私の計画では、今頃客足が遠ざかっている筈なのに。変ヨ。まさか水に仕掛けておいた例のアレに気付かれた?」
やはり貴方ですか。
背中でそんな会話を聞きながら、僕達は石牢へと下っていった。
「しばらく此処にいろ」
岩をくりぬいて作られた牢に放り込まれた僕に、連れて来た三人……つまりレイヴン、ハーバーとゴドウィンの三人組が揃って顔をしかめた。
「余計な事はしないように。見張りがいるんですから」
「絶対に動くんじゃねえぞ」
「くれっぐれも、逃げようとするなよ」
「はーい」
各自がそこまで念を押さなくても。さすがに地下牢からの脱走は出来ないし、するつもりもないから安心してもらいたい。極力、面倒なことはしない主義だ。
何度も確認した後、三人はデルマンの元へ戻っていった。これから此処が何のクラブなのか探りを入れる為だ。地下牢が使用されている辺り、合法からほど遠いクラブなのは間違いない。グリーンタワーホールにも地下牢や解剖室、貯蔵室があるが、もう少し清潔だ。……勝った。
窓無し。灯りもない。水はけ、空気は悪い。硫黄のような、アンモニアのような、鼻に刺さる臭いが充満している。脱出口、無し。控えめに言って劣悪な環境だ。先ほどの「晩課」なる単語といい、中世イタリア修道院でも模しているのだろうか?
この場所に関係しそうなものといえば、あとは「神曲」だろうか。悪の嚢の存在が記された、ダンテ・アリギエーリの傑作。
主人公ダンテが、ローマの詩人に連れられて地獄、天国、煉獄を巡る話。ベアトリーチェという存在と、全編において三という数字に拘った詩であることは、よく知られている。
宗教象徴学の知識など皆無だが、幸いなことにそういった「映画」の存在ならば知っている。神曲が神秘学や宗教学に深く関係しているという情報も薄らと覚えている。
「神曲」は常に三という数を重要視して構成されている。
これはモチーフとなっているキリスト教において、三位一体が重要な教義となっているためだ。先ほど上の階で見た家具や照明、ドアのノックまでもがことごとく三組であった事からも、このクラブがある程度、三という数字に拘りを持っていることが分かる。
三位一体とは、父と、子と、聖霊が同じ一つの神であることを指す。三にして一つ、一つにして三。宗派は数あれども、基本的にこの部分は同じと考えていて良いだろう。
神に祈るのも、聖霊に祈るのも、キリストに祈るのも、廻り巡って同じ対象への祈りであり唯一の信仰。修道院としての役割を果たしているのならば、入り口での合言葉が祈りの時間である「晩課」であったことも納得ができる。
‘一番重要な祈りの時間だね。詩篇を三つ唱える他の時間と違って、晩課だけは唱える詩編が四つある。こういう場所がいくつもあって、扉を開ける合言葉が全部違うと仮定すれば、ここがかなり重要なのは間違いないね’
だからこそ、先ほどデルマンが言っていた「聖母様」という存在が不可解だ。聖母と言われて真っ先に思いつくのは聖母マリアの存在。マリア信仰は人気があるが、正式なものではない。聖書を正確に捉えるという考え方のプロテスタントは勿論、プロテスタントの流れを組んだ英国国教会もマリア信仰は認めていない。
“あれだけマリア推しをしているカソリックすら、1858年の無原罪説でようやくマリアを「聖母」として認めたくらいだもの”
そんな近い未来の話をされても分かりませんよ。
聖母と言われてマザー・エルンコットの顔が一瞬過ったが、今は一度置いておく。彼女の魂が、まだどこかを彷徨っているとすれば、さっさと出て来て欲しいものだ。
ともかく、聖母は信仰を捧げる存在ではなく、聖母崇敬に値する……キリストへの取り次ぎを願う仲介者として祈る相手になるはずだ。間違ってもマーレボルジェなんて言う名前の、三位一体主義を掲げている組織の上役に聖母が来ることはない。
‘同感’
唐突に響く暢気な声に頭が痛くなってきた。この三日というもの、まったく表に出ようとしなかったくせに、たびたび口を挟んでくるのが煩わしい。
“副音声としてお楽しみください”
いや、何が副音声ですか。そもそも、この三日でネズミ対策をするとか言ってましたけど、準備はできたんですか? ここ、明らかに沢山住んでそうですよ。
‘まぁ、その、ボチボチやっているよ。ね!?’
後ろめたいことがある時の返事だった。……忘れていたな。
‘ところで、デルマンさんとアリスさんの言っていた聖母様って誰だろうね。偉い人みたいだけれど’
わざとらしく話をはぐらかされたが、しかしその点は僕も気になっていたので乗ってやる。
考えられる相手は誰だ?
聖母なる相手はマーレボルジェ・クラブの人間では無く、別の組織に与する人間であること。デルマンにとって、何らかの取引を持ちかけている相手であること。今考えられるのは、そんなところだろうか。
鉄格子を押したり引いたりしてみる。ガチャガチャと鳴るけれど、引っこ抜けたりはしないようだ。少し残念。
「うるせえぞお!」
上に繋がる階段部分に、見張り役の人が一名。ちょっとガチャガチャしただけで、この怒鳴り声。怒りやすい人なのは間違いない。
次第に、気にしないように努めていた生臭い匂いと腐敗した柔らかい悪臭が強くなってくる。顔をしかめていると、上階から階段を降りてくる高い靴音が聞こえた。