第百三幕 下水
【『ユニコーンと盾』店内/ Side:トマス】
鼠の死骸を見て早々に引っ込んだ彼いわく「飲料水に動物の死骸を入れるなんて、最低を通り越して最悪」だそうだ。見目の悪さと、プライドの無さ、そして被害の大きさと自分の苛立ちを考えると、なるほど確かに最悪といえる。
彼は鼠を従えそぞろ歩く悪魔のような見た目に反して、随分小心者だった。
"こんなの誰だってできる。一番難しいのは「こんなの」を思いつく発想なんだよ。吹き込んだの絶対現代人だ。しかも、さりげなーく僕への嫌がらせも入っているよね。挑戦状? いいよ、受けて立つよ。レイヴンとトマスが!"
ドアの背後まで後退しつつ、混じり気のない黒髪を掻きむしっている。
感染拡大やら、ウィルステロやら怪しげな単語を羅列し深刻さを説明する彼は遂に発狂したかに見えた。彼を観察し始めてもう一カ月になるが、未だに何を考えているのか理解できない。
僕が、そういった事をやるとは思わないのですか?
尋ねてみれば、驚く相手に此方が驚く。
"えっ、こういうの嫌いでしょ?"
まぁ、そうですけど。
口ごもると、じゃあ良いじゃないかと流された。最近どうにも、出鼻をくじかれる形でやる気が削がれていく。
近代化が進みつつあるとは言え、街は発展途上。市井の人間は瀉血で風邪が治ると信じている。
街は流血と吐しゃ物に塗れ、鼠とハエが我が物顔で歩いている。排泄物を洗った水をその辺りに垂れ流す一方で、道端には歯を抜く素人屋台が軒を連ね、十家族以上が上下水道の別れていない水源を利用している。
ノミやダニは勿論の事、川沿い、下水に住む猫、鼠などの動物は今でも危険な代物だ。奴等は感染源として病を拡散する、そして全てを捕獲するのは困難だ。
1665年に発生したペスト大流行で、ロンドンは七万人近い死者を出した。翌年に起こったロンドン大火の所為で小さくみられがちだが、推定被害者数はほぼ同程度。見えない凶器ほど厄介なものはない。
"ミステリアス・トリニティの設定年とされている1854年から1855年は、ロンドンでコレラの流行が確認されているけど、君、知ってる? 共有井戸が汚染源となって感染拡大した、後年になって人為的災害とされているやつなんだけど"
彼の使う「設定」という言葉は気にくわないが、去年流行したコレラは既に収束しつつあるという発表のもと情報統制されている。だが、それは表向きのこと。探せばいくらでも患者はいるだろう。
"ウィンターさんだか、スノウさんだか、偉い人がテムズ河への生活排水を規制して、ロンドンの下水道整備を開始したらしいんだ。議会からの反対意見や民衆からの協力が得られなかったから、凄い長い時間がかかったらしいんだけど。あれ、措置としては正しかったと思う。でも、もしも誰かが今、故意にテムズ河を汚染しているなら、対応も間に合わないよ"
大陸の人間がロンドンへと流れこみ、過密化が進んだのも感染者数を増やす一因だった。
スノウ、と言われて真っ先に思い出したのはジョン・スノー医師の存在だった。彼の麻酔技術に関する発表は実に有難いものだった。クロロホルムと言ったか。粘膜が焼けるのが問題だが、すぐさま意識を刈り取れる上に起きないというのだから、あれはイイものだ。
"1855年と言えば、ナイチンゲールさんがクリミア戦争で衛生環境に依る死傷者の減少という成果を挙げはじめている頃だよね。彼女の統計資料が使えれば、スノーさんの下水整備事業も進むんじゃない? あ、ちょっと待って。思いつきで大英帝国の歴史が変わる可能性を見てしまった。この物語はフィクションであり、実在の国その他諸々とは無関係なので大丈夫だよね!? うわー、未来人って怖っ。僕、普通に考えれば凄い事できる立場にいるよね。壮大な国家問題考えるより、今は目の前の事件を解決しよう。ロンドンでウィルステロが起こるとか、僕の考え過ぎかもしれないし"
時折、自分の中に住んでいる男が、賢いのではないかと錯覚する時がある。
ところで、ぼくを外に出してもいいんですか?
"だって、ネズミ、まだいるかもしれないじゃん"
どうしようもないバカなのでやはり錯覚なのだろう。
"お願い! 頑張って、トマス! でも殺人は止めるから、する前には教えてね!"
教えません。秘密裏に事を進めます。
だが、バカは考えない馬鹿なので、そんな馬鹿の言葉一つを真面目に考えている此方までバカになった気がするのだ。
レイヴン達に事情を洗いざらい話したところで、店内へ現れたマスターを呼び寄せた。
何故口を割ったのかと恨めしげな視線を頂いたが、適当に鼻歌を歌ってやり過ごす。
マスターから詫びにと渡されたオレンジの皮を剥きつつ、彼らの話に耳をそばだてた。化けの皮以外なら何でも剥いてしまいたい。そんな気分だ。
事情を知らされたローズは顔を真っ青にして謝りに来た。ヴァイオレットも一応、謝罪に聞こえる言葉を口にした。あの娘達を怒る理由は無く、逆に理由を説明せずにスープを台無しにしたのだから此方にも非はある。
僕が許さないのは二人。
まず、水に仕掛けを施した人間だ。此方はぜったいに殺す。
それから孤児院から子供を盗んでいる人間も目障りだ。
僕が目を付けていた子供をことごとく先回りして盗んでいる。今後の事を考えると消しておいた方がいい。
「こんなことをしでかす犯人に、心当たりがある。だが証拠はない。俺の心当たりってだけだ」
怪しい円卓の席にマスターが追加されていた。この一角だけ、もはや弁護の余地がないほど不穏な気配に包まれている。見方によっては馴染んでいるとも言えるだろう。
ハードボイルド成分だと何処の誰かは両手を挙げて喜ぶだろうが……喜んでいるが、それなら葉巻の一つでも欲しいと思う。
「デルマン・トナー、ですか」
ああ、と疲れた様子でマスターが首を縦に振る。先ほどのリリーが危なかったという一言に相当参っているようだ。
「立ち退かないならば、手段を選ばぬ方法に出るとは言っていたが……まさかこういう手を使ってくるとは」
暴漢が『ユニコーンと盾』に殴り込みをかけても、酒を愛する客が相手を叩きのめすため、今までの方法から一転、陰湿な方法に切り替えたのかな。
季節外れの『流感』の何割かは、デルマンの嫌がらせ(とされている、動物の死骸を飲料水に混ぜる事)が発生源なのではと疑う。
最近、他の店や家にも脅しをかけていると言っていたし、確率は高いだろう。
土地を集めて、デルマンは一体何をするつもりなんだろう。「聖母」や「祭壇」とやらに、何か関係があるのだろうか。
「警察は、デルマンから金を貰った腐った野郎ばかりだしよ!」
憎々し気に言い捨ててマスターは拳を卓に叩きつけた。
警察、警察か。
猫を餌に、協力を取り付けられそうな親子に心当たりがある。だが息子はともかく、あの死相溢れる陰険署長に借りを作るのは不安だ。
まぁ、やりようはいくらでもある。例えば向こうから勝手に首を突っ込むとかね。
自由に動きたいからと言って警察署長の椅子を蹴り飛ばし自ら降格した男に正攻法が通じるとは思えないのだけれども、少しばかり盛った噂でも聞かせてやれば、興味本位で覗きに来るだろう。